2010年12月22日水曜日

中耳炎と扁桃線炎

週末のブラガでのコンサートは、クリスマス前最後の土曜日とあって、16時開催のコンサートホール、700人収容のブラガサーカス劇場の観客数は100人弱という寂しいものだった。それでもプロの音楽家は100人の前であろうが、10000人であろうが最高の力を出そうと努力する。ポルトガル交響楽団のメンバーは難しいプログラムを短期間でまともに仕上げ、本番でも寂しいがらりとした空間の中、熱い演奏をしてくれた。

同伴した息子の調子がどうもいまいちだ。2週間前に診断された中耳炎の状態がなかなか良くならない。夜には必ずと言っていいほど咳で目を覚ませ、苦しそうな様子を見せる。咳はたんがかなり絡んでおり、くしゃみのたびに黄色の濃い鼻水を出す。

ブラガでは着いたとたん38度の熱を出し、親を慌てさせた。週末の病院通いは、2、3時間もの待ち時間に親子共々ぐったりさせられる。今週末の診察の結果もまた中耳炎と扁桃腺が腫れている状態ということなので、今回ばかりはその足でサンタマリア病院の耳鼻科の専門の先生のところまで診てもらいにいった。また2時間待たされたが、リスボン大学の教授先生は中耳炎はもう治っているという診断をされる。ただ、のどの方が大変な状態なので、どうにかしないといけない、ということで新たに抗生物質を出してもらった。TGAの患者である息子には、こういうウイルスが体にある状態のときは特に気をつけた方がいい、抗生物質を恐れていてはいけない、と言う話をされた。いずれも、一般病院ではされなかった診断である。

息子は別のウイルスも頂戴しているようで、体中に赤の斑点が出ている。今週クリスマス明けまで仕事がないので、幼稚園には行かずに済んだが、生後11ヶ月の病人は床に寝たままという訳にいかず日々のスケジュールを自分なりに淡々と普通にこなす。父親は常にピエロの役回りで赤ちゃんの機嫌の様子をうかがう。食は細めで、今まで順調すぎた成長過程が気になる。それでも離乳食の後期に入るべく、しっかりゆでた人参やジャガイモもつぶしたものでなく、固形物にちかいものを与えたら大分口をもぐもぐして食べれるようになった。
ただ手をあげて観察しているものを指差すようになったり、まだ歩きはしないがつかまり立ちも平気でするといった行動面は順調なのかもしれない。1月の誕生日までには今の病状はすっかりよくなっているのであろうか。

2010年12月15日水曜日

ペイント ミー 2

新作オペラの稽古は総練習の週に入ったが、自分は今週末初めて劇場のオーケストラのコンサートの指揮を頼まれたので、一足早く「ペイント ミー」のスタッフに別れを告げることになった。アシスタントコンダクターとしての仕事は主役不在の間の穴埋めという、ありがたみのない役回りだが、それでもところどころ発言できるところでは遠慮なくさせてもらった。そういったことで、時間とともにこの純ポルトガル人のスタッフの間にあった大きな溝が少しずつ縮まった感はあった。
ただ、これからまたこういう仕事を受け入れるべきかどうかわからない。正直に言って長く息苦しい期間で、終わってほっとした。

劇場のオーケストラといっても、弦楽のみで会場もブラガという、リスボンから400キロ離れた都市で行われるコンサートである。それでもこの指揮の機会はこれからの仕事に影響するはずなので成功を祈るばかりだ。ただ「ペイント ミー」のおかげで、勉強する時間はすごく限られた。自分にとっては、今までやってきた通りに普通に仕事をすればいい、と思っている。

曲目の一つはチャイコフスキーの「弦楽セレナーデ」で、今は亡き故アツェル氏とともにウィーンの講習会で何年にわたり100何回もやった曲である。個人的にはアツェル先生に捧げたいと思うが、指揮している間はそういう気持ちは吹っ飛んでしまいそうだ。

http://www.theatrocirco.com/agenda/evento.php?id=625

2010年11月18日木曜日

「ペイント ミー」

ここ1ヶ月前からアシスタントコンダクターとしてかかわっている、ティノコ氏作曲の新作オペラ「Paint me」ではいくつかの未経験の事実がある。
ひとつは、出演する6人の歌手、指揮者までが全員自分より年下ということ。今まで、どんな劇場のオペラ制作でも自分はチームで舞台監督のアシスタントやソプラノ歌手と並んでいつも一番若いか、ということでいつも仲間から優しく扱ってもらっていた。それが当然年月もたったせいもあるが、一気に中間を通り越して一番年配の方になってしまった。
もうひとつはこのプロダクションにかかわっている人が一人をのぞいて作曲家以下同じ国籍ということ。今まで20か30かもしれない数のオペラ制作にかかわってきたが、いつもインターナショナルの顔ぶれで、そういうのになれてしまっている自分には本当に珍しいことだ。
あと、舞台稽古にオペラの作曲者が同席しているという状態も、そういえば今まで経験したことがなかった。
そういう初物ばかりで戸惑う未熟な自分には「アシスタント」という肩書きが本当にぴったりである。

2010年10月14日木曜日

常識の違い

もともと、あの三船敏郎も出演しているアメリカシリーズドラマ「将軍」からの知識だが、その昔ヨーロッパでは同じ服を何カ月も着続け、めったにはいらないお風呂もその服を着たままであったという。主人公のイギリス人は到着先の日本でお風呂に入れられるシーンで「病気になってしまう」と言って阻んでいた。「日本人は清潔好きだ」というのはマルコ・ポーロも書いた。

この現代社会でも一週間に1,2度しかお風呂に入らない人がいる、というのはこちらヨーロッパで生活している人ならときどき耳にすることだ。生粋のヨーロッパ人であるヨメはその話になるといつも「自分たちの家族は曾祖父母の代から日に2度お風呂に入っていた」と言う。

習慣も人それぞれ、ということになるがつい先日、息子の預け先の保育園でどうしてもわかってもらえない一件があって、この「将軍」でのエピソードを思いだした。

息子は朝早く保育園に送り出すが、夕方6時に迎えに行く際いつも預けた時と同じ服を着ている。何度も送迎係のヨメにお昼寝の後は着替えをしてもらうように頼んでもらったのだが、依然として同じ服で帰ってくる。一カ月してから父親の自分がその件だけのために直接出向いて話したところ、しばらくはしぶしぶ着替えてもらえるようになった。

先週は息子の調子が悪く、せき込んで朝から熱があったりして毎日保育園に行くか行かないか決めかねないという、その状態の赤ちゃんがまた同じ服で帰ってきた。朝は肌寒く、昼間は暑いというこの時期である。理由をきくと、「着替える際に肌が風に当たって良くない」という。病気にならないために同じ服を着続けるという理屈は先の16世紀のヨーロッパ人と変わらないではないか。

赤ちゃんには一日に何度も着替させてあげるというのは「淋浴」という常識ではなかったか。しかし何人のポルトガル人の友人に聞いてみるとそういう習慣はないという。当然保育園では話が通じなかったわけだ。保育園で怒る父親はさぞかし非常識に見えただろう。

2010年10月6日水曜日

ドンナ・ブランカ

サオ・カルロス劇場のシーズン最初の演目はアルフレード・カイル作曲のオペラ「ドンナ・ブランカ」であった。せっかくのポルトガルの誇る大作のお披露目の機会だが、今回はコンサート形式での上演だった。経費削除の真っただ中でのシーズンの開幕である。

今年は皇帝が暗殺され国政が民主主義化した100周年に当たり、10月5日はその祝日であるので、現国歌の作曲者であるアルフレード・カイルのオペラを上演するにはちょうどいい機会であった。

作曲者はケイルと呼ぶのかもしれないが、明らかにドイツ系の名前で、それに加えてポルトガル人の「えい」の発音は限りなく「あい」に近く個人的にはカイルと聞こえる。後期ロマン派の作曲家だ。

オペラの大半はマエストーゾのコラール風、または行進曲風に終始する。当時はやった異文化趣味的な音楽は全く見られない。物語の進行は分厚いオーケストレーションでの減7和音の伴奏によってレチタティーヴォがずらりと続く。話は13世紀のポルトガル南部、アルガルヴェでのもので、ドラマティック・テノールの役のアラブの王様と恋に落ちるお姫様の話である。主人公のブランカはソプラノ・リリコで、ちょうどミミやリュウといった感じである。

オーケストラは3管、トランペットやトロンボーンは4本持つ大きなものである。吹奏楽の部分がかなり強調されたオーケストレーションで、金管も楽想の重要な部分を受け持ち、かなりの時間に活躍する。分厚いオーケストレーションはまるでワーグナーのようだが、バレーも入るのでフランスオペラに分類されるのかもしれない。ただマスネはこのようにとんでもなく分厚くは書かなかった。
吹奏楽で編成される舞台裏オケは今回は観客席の奥の、いわゆる「大統領ロジェ」に配置された。

テキストはイタリア語で歌われた。スコアにはフランス語のテキストもあるのだが、書かれたリズムはイタリア語にあまりしっくりいかず、比べてみると本来フランス語のテキストで書かれたのではと気になって仕方がなかった。ポルトガル語のは存在しない。

音楽のアイディアそのものは素晴らしく、ところどころポルトガルのにおいを感じられる。15分ほどの「アラーは偉大なり」が繰り返される壮大な合唱のナンバーも登場する。よくある異文化を茶化した音楽ではなく、かなりしっかり正統的に書かれている。

テロの脅威の今の情勢の中、こういう「アラーへの讃歌」ものは少し配慮も必要と思うが、ここ極西南ヨーロッパに位置するポルトガルではどうでもいいのかもしれない。

本来4時間ほどかかる超大作は今回は2時間30分の音楽に縮小され、規模的に中小オペラのようになってしまった。バレー音楽は当然全部削除された。アリアも少しずつカットされ、場合によっては始めと終わりだけ、という大まかな縮小もあった。演出なしの上演にも配慮してか、今回の指揮者の先生はスコア指定よりかなり早めのテンポ設定に終始された。もともとべったりと重たい音楽で、それでも演奏者側には永遠に感じられた。

ブランカ役のソプラノは声の質的にかなりいいものを見せていたが、頻繁に出てくるカデンツァは必ずと言っていいほど正しい音が取れていなく、テノールは声が軽いのにまして明らかに勉強不足で、大統領ロジェの吹奏楽隊はオケとの音響的な問題を解決できないままで終わった。楽譜のほうは、今回の上演に当たって改訂版が新たに作られたが、それもまだところどころプリントミスがあり上演後に訂正していくという事態になってしまった。

リハーサルはとにかくスケジュール上全く配慮されていなく、ぶっつけ本番になってしまった部分も少なからずあった。これもあの前監督によって残された負の財産なのであろうか。個人的にはこういったとほほな部分は自分の手が届く範囲外で、ただ傍観するのみという立場である。今のところ、この仕事は少なからず我慢が必要である。

お客さんの反応や新聞状の批評はすこぶる良いもので、とりあえずめでたしめでたし、という今シーズンの船出になった。

2010年9月24日金曜日

二重生活

二重生活といっても、仕事上の話である。

イチローのような一流の人は、一つのことを突き詰めて、向上心を常に持って「名人」の域に達する。

そうでない人は同時期に2つ以上のことをこなそうとする。器用貧乏、という言葉があるものの、器用さを利用してできることをなんでもしてしまえばいいのではないか。

2つの仕事が同じ時期に入ったとき、選択肢は3つある。2つとも断ることは今のことろまずないだろうが、良心に従ってもう一つの仕事を断るということはある。しかし時間的に不可能でなかったら、もしできそうな気がしたら掛持ってしまえ、となる。

誰にも迷惑はかけたくないが、どうしても両立に無理が出てくる。それでも、あまり時間がなく常に次に目的先がある人物であるというのは別に悪いことではないと思っている。

所属する団体の自分の立場というのは居る場所によって変わってくる。そういうところや、スケジュール上での無理も、ラテン風になんとなくのらりくらりやっていくことになる。

新シーズンが始まるまえ、ポルト方面で2つ全く別の仕事を同時期に済ませることにした。
ひとつはエヴォラ大学の同僚で友人のアルゼンチン出身のファゴット奏者、エドゥとの新レパートリーのCD録音。そこでは自分はピアニストである。

もうひとつの仕事は、ポルトの軍隊吹奏楽団とわがジナジオ・オペラ交響楽団との先日無事に終わった共同演奏会、そのためのリハーサルをポルトで行うことになっていた。

軍隊吹奏楽のリハーサルは午前中に行い、午後から夜中までスタジオ録音ということにしてもらった。録音の仕事は決定権が自分にあったオーケストラリハーサルと違いスケジュールを立てる立場ではなかったこともあって、仕事はいつまでたっても終わりそうになかった。

スタジオ録音は慣れていない自分にはとても難しい。とにかく演奏する状態が普段と全く違う。慣れ切っている残響はほぼゼロの状態になっている。ピアノとファゴットの音も別のマイクで集音されるので両楽器の間に消音壁が置かれ、演奏者間も10メートルくらいの間隔がある。目隠ししてランニングしているような感じだったが、そういうのも徐々に慣れてきた。必要以上に外に鳴らさず楽器の中だけ響かすようにすること、共演者や周りのことは気にせずとにかく真っすぐ突き進む、というのがこのようなスタジオ録音時の演奏の仕方かもしれない。普段からそうして演奏する人にはたやすいことだろう。

さて、今年に入って初めてのわがジナジオ・オーケストラの演奏会は、トマールという美しい都市であった。今回は数少ないリハーサルでも指揮者として手ごたえある成果があったが、実際客席からの印象はどのようだったのだろうか。拍手はたくさんもらったが、手厳しい指摘はいつでももらいたいものだ。
野外コンサートで音響的には恵まれなかったが、オケの人たちが作り上げた響きそのものはとてもいいものだったと思う。
リハーサル、演奏会を通じて積極的に仕事してもらった軍隊吹奏楽の方々は立派な音楽家だと思う。感謝の気持ちでいっぱいだ。

さて日々の生活のほうだが、劇場の仕事は天敵だった劇場のトップが運よく去ったので、ここ2年の立場的に不安定な状況は終わったようだ。願わくば安心して仕事ができる環境下であってほしい。
とにかく、これでこの先ドイツの小劇場に最低条件の仕事場をネット上で探す、をいうみじめな作業はしなくて良くなりそうだ。

そのせっかくの劇場の仕事だが、新しいシーズンが始まって早々8週間の間無給休暇を取ることになった。
新作オペラのプロダクションの上演がクリスマス時期にあり、それに副指揮者としてかかわることになった。新作オペラは自分にとって初めての経験だが、「現代もの」は学生時代、十八番だったはずだ。自信を持って取り組まないといけない。

大学の仕事は時間的に無理を承知でこのまま続けることにした。学生に接している自分の役割や仕事そのものが劇場のそれと違う。大学では別に大した仕事をしているわけではないが、ふと没頭して時間が経つのを忘れた感覚に陥る。

この人生、結局一つのことを天才的に成し遂げるのは無理そうだと思うので、それなら自分にできる範囲ことをなんでもするまでである。

2010年8月30日月曜日

中華ショップでの買い物

点心料理はリスボンにはないのかなとふと思い検索してみたら、市内に一軒「香港大パレス」という名のレストランが出しているそうで一度行ってみたいと思っている。

ウィーンでは「点心」が当然一昔前のことだが、かなりはやっていて何度かおいしくいただいた。冷凍物でない、本物を出す店が何軒かあって、そういうところにわざわざ通った。点心の技術は難しいらしく、中国から専門の人を呼ぶらしい。腕のいい人はライバル店に引き抜かれ、新たな人材が次々やってくる。はやった店は第2店を別なところに出す。そういう豆知識はウィーンに何年もいる「人生の先輩」からありがたく頂戴した。

冷凍の点心料理はリスボン市内の中華ショップで安くで手に入る。種類はいろいろあるが、ベトナム産の30個ほど入っていて5ユーロというのを買ってみた。ややエビか何かのにおいが変で、本当はもっとおいしいはずだ、と思いながら食べるもの。

中華ショップといえばリスボンにいろいろなところにありそうだが、いつも行くところはマルティン・モニシュ区というリスボンのほぼ中心にある、中規模のスーパーのようなところだ。

近くにはアフリカ諸国・インド・中国籍の店が無序列に立ち並んでおり、通りには座ったり、立ち話したり、もしく別に何もしていないという人がたくさんいて、不思議な香辛料のにおいとともに区画全体に異様な雰囲気を醸し出している。自分のような異国人の男に怖いものはネオナチや極右警察官くらいだが、本国人がそこを普通に歩いて通過するにもなかなかの勇気がいる。近くの地下のパーキングエリアは取ってつけたようにすごく暗い。サングラスをかけたままで駐車場に入るとほとんど何も見えない。

アジア食品専門のお店の入り口には求人広告やら、の張り紙が漢字で書かれている。店内にはお米10キロとか、醤油20リットルとかのように大きい単位でたくさん売っているので中華料理店の人が買いに来る、本格的なところなのかもしれない。1ユーロで出来立てのおいしい肉まんをよく出しているので、帰り際に食べるときがある。誰がどのように作っているのか想像できないが、別に知らないくていいのかもしれない。そのほか、まず買うことのない豚や鳥の足の燻製のようなものも売っている。一度北京ダックがあったので試したことがある。だいぶん乾燥していて、味はかなり人工的でいまいちだった。

あと普通のスーパーではお目にかからない野菜が多くある。もやしは大きく、新鮮で一袋80セントで買える。大根は大きすぎるくらい立派だ。巨大ななつかしい20世紀ナシも売っていたことがある。豆腐はいろいろ種類があって、木綿豆腐だったかヨーロッパでは手に入りにくいやわらかいものも売っている。揚げ豆腐も売っていて、どのように使うのかさいころ型のものが多かった。いなりずしを作れるような大きなものがあったら買っていたが、なかった。

あとどういう名なのか、薄い紫色で、細長い茄子がある。それが20本くらい入っているのが2ユーロで買える。買うときは1週間はなす料理になる。巨大な緑色の瓜のようなものもあって、輪切りにして売っていた。どういう人が買うのだろうか。チャイナレストランではお目にかからない野菜だ。

「にがうり」もあった。もしかして、沖縄のゴーヤと呼ばれているのかもしれない。早速買って、インターネットでレシピを見ながら調理して食べてみたが、それは苦くて2,3口食べただけでやめてしまった。そういえば、苦いという味覚は存在するのにおいしいと感じたことはない。中国の人たちはどのようにして食べるのだろうか。

めん類もたくさん種類があり、どうやって調理するのかわからないもののほうが多いくらいだ。結局いつも買うのは「日本式北海道うどん」という、4袋入りで1,2ユーロのものだ。「Nittin」という中国のメーカーで、日清のパクリか。Made in Japanとまで書いてある。この賞味期限が2010年の終わりとあって、生めんが常温でこれだけ持つのはかなり不思議だが、それでもうどん食べたさに買ってしまう。
開封すると食べ物のにおいがしない。プラスティックのようなにおいがする。作り方はそのままスープに入れるとあるが、少し怖いので一度沸騰したお湯に通す。どういう小麦粉を使っているのかと疑うくらいうどんの味がしない。ただ、歯ごたえはまさしくうどんそのものである。

中国の人たちが健康上の理由から買わない中国産品があると聞いたことがあるが、こう品が並んでいるのどの製品が信用あるのか本当にわからない。疑いがあるのなら買わなければいいのだが、今まで食べて気分が悪くなったことはないので続けて買ってしまう。

レジのおばちゃんにはいつまでたっても顔を覚えてもらえない。支払いの際はお互い無言だが、こちらからもポルトガル語をつい口にしないようにしている。心のどこかでまた中国人と間違えてもらいたいと思っているのかもしれない。

2010年8月4日水曜日

小児心臓外科の診察

息子の術後診察がようやく2か月遅れであった。サンタクルス病院の院長さんになってますます多忙になったドットール・ルイ・アンジョス先生に久しぶりに顔を見てもらって親として感無量だった。

心臓の状態は上々で、血液の逆流もなし、大動脈の状態もよし、エコ心電図での16部分の診察ですべて最高点がでた。テスト点数でいえば100点である。手術後のいろいろ起こりうる問題点は今のところ全てクリアしているようである。心室中隔欠損はわずかなすきまで、後に自然に閉じる可能性が大きいという。

先生からこれから大きな心配なく、スポーツでもなんでも他の子と同じようにやっていい、とのうれしい言葉を頂けた。
あれだけ元気でいつもご機嫌の子供の様子を見ていると、何かよくないわけはないと思っていたが、実際お墨付きを頂いて夫婦ともどもかなり晴れた気分になった。術後の初診察というのは、息子のこれからの人生の裁判のようで、心のどこかに潜んでいた悩みの種だったのかもしれない。
これからの診察は一年おきだが、自らの足で歩くようになっても、大きくなって一人で診察に来るようになってもずっと今回のような模範的患者のままでいてほしい。

2010年7月15日木曜日

エストリル・マンダリン

「マンダリン」は楽器のことでもバルトークの曲名でもなく、実はエストリル市の巨大なカジノの建物内にある中華料理店の名前である。以前からマカオの本場料理を出すといううわさは聞いていて、カジノ内にあるということからあまりに恐れ多くこれまで近づいたことはなかった。最近になって値段は意外にそう高くはないと話に聞いたのでさっそく行ってきた。

中華レストランといえば、言わずと知れたファーストフードの店として世界どこに行っても大体同じものを食べられる。安く、早く、そして野菜を多く食べられることもあって、学生時代はマクドナルドと並んで結構お世話になった。ひとむかし、鉄のカーテン時代のブダペスト旅行では、どこでまともな食事できるのか分からず結局中華で何度も済ませてしまったが、チャイナレストランはそういう非常時に使える便利さを兼ね持っており、マクドナルドも同じである。ただ、日本と違ってヨーロッパで本当の中華料理を食べたい、と思うとなかなかいいレストランにめぐりあわない。確かウィーン市内にも高級中華レストランはあったように思うが、高いお金を出してまで食べたいとも思わず、一度も行ったことはなかった。

さて、「マンダリン」では入ってすぐ予約受付専門のお嬢さまが店内に案内してくれる。そのポルトガル人の女性はまさにその容姿も笑顔も、そこらではまずお目にかけられないような応対ぶりで、レストランの内装や雰囲気と合わせて5つ星ホテルのサービスを思わせる。ポルトガル最大のカジノの中ということを意識させられる。
レストラン内はかなり大きく、そしてお客が多いのも最近の中華レストランではめったにない風景だ。大きな窓からはカジノ前の公園のカラフルな噴水ショーを鑑賞できる。照明は薄暗いが、あちこちに飾り物や食器や大きなつぼなどが上品に陳列されている。床は全面じゅうたんがひかれており、よって室内はかなり静かだ。
メニューには70ユーロもするスープや100ユーロの魚料理もあったりするが、13,4ユーロくらいの料理が多いので、たいていそれらから注文すると値段は普通の中華の2、3倍といったところになるか。

結局特別なものを注文することなく、マーボー豆腐や揚げめん、エビのピリ辛といったいつも食べるようなメニューになってしまったが、料理は繊細ですべてゆっくりおいしくいただけた。味も、色も香りも申し分ない。つくづく、今まで食べた中華で最高の部類だと感じた。杏仁豆腐は残念ながらなかった。

食事が終わって外に出ると、必然的に駐車場に向かうべくカジノ前の公園内を散策することになる。それがまた、さわやかな浜辺の風に当たりながら心地いいもので、まさにメニューにない「マンダリンの夜の後奏曲」のサービスである。

2010年6月25日金曜日

ニンジャ作戦とオーストリアの文化の壁

日本の先日の試合は絵に描いたような見事な戦術勝ちで、思いもよらず立派に決勝トーナメントに進んだ。現状のままでは全く通用しない、という危機感からスタイルや起用する選手を変え、それが対戦相手をも惑わせ、功を得たようだ。今回は全部かなりの差で負けると思っていただけに、物事は実際にその時になってみないと何が起こるかわからない。

ただ後半、相手がセンターバックを1人減らしていた状況で、何度も絶対的なチャンスを作りながら点を終了間際まで取れなかったのはさびしいことだ。ぺナルティーエリア内で目の前が空いている状況で横パスがあったり、ゴールのシーンでもキーパーと至近距離での横パスとか、普通はあまり見られないかなり変なシーンもあった。

日本の新聞は相変わらず選手や監督、または元選手やいろいろな人たちのコメントを紹介することに終始しているが、イタリアのガゼッタはいつも記者の署名入りの文で、主観的な意見があって読んでいておもしろい。
でもきょうはオーストリア国営放送協会(ORF)発のひどい記事を見た。

オーストリアの新聞によく見る文化的壁を感じさせる文章で、その壁というのは限りなく厚く、高く、しかもはるか彼方に離れたところにある。一般的にオーストリアでは日本について、政治であれ、スポーツであれ、音楽であれ、いつもだいたい同じ文章で表現される。日本人というのは感情表現をせず、万もの群衆がナイーブな同意見を持ち、彼らが発する言葉は4,5単語程度でインテリジェンスは猿なみか、または話せる犬のようにに描かれる。読者にとっては記事の真偽などどうでもよく、たいていは外の文化の異質性を強調させた、ようするに大衆週刊誌のレベルの記事である。

まずオカダ監督の戦術は「ニンジャ作戦」と日本で名付けられているという。どういうものかといえば、「相手をいらいらさせ、すかさず一点を取り、相手の作戦をこわす、すなわち忍者戦法」とあり、あげくの果てには岡田氏の選手時代も同じようにプレーしていたという。オカダ監督は以前全く目立たない普通の一選手ではなかったか。
すしと同じで日本からすぐ連想させるもので、たやすい手段で一般読者に喜ばれようとしている。記事は読売新聞からの引用だというが、ヨーロッパ人ならともかく、日本人の記者がこういうでたらめを書くだろうか。次回の記事には、すし戦法がでてくるのか。

そのほか、真夜中にかかわらず41パーセントの視聴率があったとし、選手の生まれ故郷はにぎわったことも書いてあり、本田は「大阪の宝だ!」と叫ばれたという。本田選手の出身はどちらかというと名古屋か、石川県ではないだろうか。日本中がパニック的な歓喜に包まれているという描写で締められている。

これが天下の国営放送社の記事である。オーストリア随一のクウォリティー新聞とよばれる「プレッセ」にも、アンゲリカ・ケーラーという名の、アジア諸国のニュース記事担当で同じようにひどい書きかたをするのがいた。そのような文章を読んで何が面白いのか理解できない。

ただ、たまたまドイツTVで見た長谷部選手のインタビューでは、まず質問の意味を把握しておらず、しゃべってもそれこそ4,5単語しか出てこなかった。あれではどう思われても仕方がない。言葉ができないのは普通などと思っているのか、話せないのならインタビューなど受けるべきでない。

2010年6月9日水曜日

細気管支炎

夏の終わりに息子は保育園に預けられることになる。身がよじれる気分だが、ヨメもやはり仕事に復帰しないわけはいけないのでどうしようもない。当初の予定だった自宅近くの保育所より、ヨメの仕事先の近くのほうに決めることにした。施設は室内が明るく、清潔そうで、壁にはきれいな絵が描かれている。何よりスタッフの人材が良さそうな気がする。本当にこれでいいのだろうか。心は決して明るくない。

TGA患者の幼児にとって、命取りになりかねない感染性の病気は「細気管支炎」という。予防できるものなら、なんでもするつもりである。サンタクルス病院では退院後すぐ、予防接種を2度にわたって受けた。生後6か月までが最も危険というから、これから夏の季節でもあるしひとまず安心だが、ちょうど保育園に通い始める9月から生後1年になる1月までは危険な時期だ。

2010年6月6日日曜日

ワールドカップ

インターネット上でしか読めないが、新聞は選手のコメントをそのまま載せて記事にするというのが伝統らしい。どの新聞社も大体同じで、記事は選手や監督の発言に対する感想文のようだ。専門のスポーツ記者の積極的な意見や試合前分析などは個人ブログにしかないのかもしれない。批判的な意見は多くあるが、先発メンバーをどうするべきか、というまじめな議論もあったら読んで楽しいのだが。
公共の場ではいろいろスポンサーなり、宗教団体なりの政治的な背景もあるかもしれない。オカダ監督のベスト4発言もスポンサーのにおいがする。
現場の選手や監督にも見えない、観客の立場で初めて見える問題点はあると思う。相撲の分野だったらかなり上級の分析記事を見つけられるのだが。

せっかくの機会なので、いい思い出作りに「もしかして自分が監督」のつもりで、選手起用をここに書きたい。キーパー川島。テストの試合で2回も成功した人には、これから続けて試合に出る権利あり。前回の川口のような、恥ずかしいゴールはもらわない気がする。センターは中澤と阿部。中澤はもう5,6年前からピークを越している選手だが、代わりがいないので出ないわけにはいかない。阿部は同じくスピードも判断力も世界的レベルから遠いが、ここにも他に選択肢がない。トゥーリオは守備陣には欠かせないが、センターバックの2,3歩前の中央でプレーし、もっと攻撃にも自由にできる方がいいかもしれない。トゥーリオも数年前のほうが良かった。左右のサイドバックは長友と稲本。稲本は対人プレーの強さもあるが、この位置でもゲームメークをできる強みがある。長友は攻撃面でプラスだが、プレーが前かがみすぎてサイドバックとしてほんとうは危ないと思う。むかしの中田浩二のような、もっと地味な、枠役の選手がこの位置にいればいいのだが。中央は遠藤と長谷部。この2人はどう見てもチームの柱で誰が見てもまずはずせない。1,5列目に本田、2トップに森本と松井。松井は当然サイドアタッカーとして左右でかき回す。3人ボールキープできるタイプで何とか攻撃の形作れるでしょう。運が良ければ、どの相手でもこの3人で90分で2点は入るかもしれない。

長友とトゥーリオは状況に応じで違った位置取りができると思う。常にジョッギングに終始する中村とアタッカーの岡崎は負けているときに登場すればいい。中村ケンゴは万が一勝っているときに出ると面白いかもしれない。あとの交代は時間稼ぎ。
とにかく運動会のような合言葉の走るサッカーはともかく、常にダッシュできる状態のサッカーをしてほしい。

今回のワールドカップは間違いなく3戦3敗だろうが、大切なのは点をどれだけ取れるか。オランダから3点でも取れば、世界を驚かせるという第一目標を達成できると思う。

2010年5月22日土曜日

モリーニョ

ポルトガルの誇るサッカー監督、ジュゼ・モリーニョが率いるインテルがチャンピオンズリーグの決勝で登場する。モリーニョのチームは、ポルトであれ、チェルシーであれ、どういう選手がプレーしていてもチームとしてあまり変わらない。
7、8年前のポルトのチームも、今のインテルも選手はロボットのように動く。守備のラインは、止まるときも走り出すときも、走る方向を変える時もいつも見事に同じ動作をする。攻撃の時は一直線にゴールに向かい、数名の選手があらゆる方向に走り出し、パスは相手を確認せずにすぐ出るが、ボールは不思議なくらい常に自軍の選手のもとに収まる。「旧共産圏国のサッカーのようだ」と表現されたくらい徹底的だ。
準決勝のバルセロナとの第2戦は攻撃対守備のチェスのような試合を見ているようで本当に面白かった。今回の試合も、ぜひ0-0のまま最後まで最高の駆け引きの試合になってほしい。
人生一度はサッカーチームの監督をやりたいと思っていたが、なんだかものすごく難しそうだ。

2010年5月21日金曜日

長期休暇

自分の今の写真を見てびっくりした。2,3か月前と比べてもかなりここのところ一気におっさんになってきたな、という印象だ。4か月の息子はここのところ声帯をすり合わせたような、変な泣き声を応用したような声を出して喜んでいる。

確かに息子が生まれてからというもの、仕事そのものがしにくくなってきた。それが息子が持って生まれた病気によるものなのか、それによる心労からなのか、それとも初めて父親になった自分の心境が変わってきたのか、はっきりよくわからない。よく周囲から聞いていたように、息子を持ってますます仕事に充実するはずだったが、今のところ、そういう感じはない。できることなら、2年くらい休暇を取りたいものだ。

息子の世話は、親戚が両方とも近くにいないため、いざという時に頼りにできる人がいない。それはもう前から承知のことだったのだが、いろいろな気にかけてくれる人がいても、結局おむつを替えたりするのは自分たちしかいない。夏の終わりにはヨメの育児休暇も終わるので、保育園に預けることになる。それに向かって心の準備も始めないといけない。

2010年5月11日火曜日

TGAの治療と聖人の奇跡

明日、現ローマ法王のベネディクトゥス16世がリスボンを訪問する。実は、2年前ニューヨークに行った時もたまたまラッツィンガー氏の訪問に遭遇していたので、今回は2度目になる。正確に言うと、実際に法王を目にしたわけではないので、法王の訪問時の交通の混乱にまた遭遇する、と言った方が現実的だ。市内の主要道路は数日間にわたって完全閉鎖され、平日通りの仕事の人は公共交通機関の利用を強要される。

最近の法王の訪問の機会には必ずと言っていいほど、その国出身の新たな福者や聖人の指名が行われ、その人の一生について公にコメントされる。カトリック聖人は一般に、少なくとも3つの奇跡に直接、または間接的に関係した人が「悪魔の弁護人」によって何十年の間審査され、パスした人が歴代の聖人と同列に置かれる。
その「奇跡」のほとんどは、西洋医学の医師から死の宣告を受けたような病人が、その聖人の祈りの力によって劇的に治った、何十年も寝たきり状態の人が急に歩けるようになった、といった多くの超現実的現象による。

4か月前の息子の誕生の際、心臓に大血管転位が認められた。それは、肺から体ぜんたいへの循環に必要な2つの血管が心臓に間違って逆につながっている状態で、外的手術なしでは2日間とも2週間ともされる命というのは明白だった。そこで心臓外科医の経験と見事な技術により、症状は劇的に改善され、今では普通の赤ちゃんの平均値以上の成長をしている。

息子は、確かに現代の心臓外科の最新技術によって救われたのだ。聖人による奇跡を思えば、それは外的手術ではなく、当然祈りのみによる。しかし、2つの血管が間違って付いているのだから、それは人の手によってまず切断され付け替えないといけない。どのような純粋なお祈りによってでも、大血管がそれによって付け替わるという奇跡が起こりえるとは、今の自分にはどうしても信じられない。そこに未熟な一般カトリック信者としての限界を見てしまった。

息子の命を救ってほしいという一人の親の純粋な願いはかなえられたのであるが、それは本来あるべき祈りとは少し違うのではないだろうか。わずか10日や20日で終わってしまうかもしれない、授けられた幼い命に最高の幸せを見つけ、そこに感謝の気持ちを抱き続ける。それ以上、どういう祈りを持つべきだったのか、混乱している心にはわからない。

感謝すべき息子の見事な成長ぶりには、新鮮な幸福感を日々与えられる。目の前には、医師団によって救われた命が躍動している。教会のお祈りだけでは失われた命だったのではないか。

せっかくの法王のリスボン訪問だが、そういう個人的な理由からいまいち平和を感じることができない。

2010年4月21日水曜日

フィガロ

先日のチャンピオンリーグで決勝に進んだインテル・ミラノ。もうだいぶん前から指摘されてきたことだが、チームにはイタリア人がほとんどいない。今年好調のベンフィカのチームも、同じように南米出身選手を中心にした世界選抜チームで、それでも観客は自分たちのチームとして根強く応援する。
いつもどこかおかしいと感じているが、こういう傾向は年々ヨーロッパ中に広まり、どこの国でもそういうチームがある。

18世紀から続くサオ・カルロス劇場では今、歌手の質や演出もドイツの中小劇場とほぼ変わらないが、こういうのでいいのだろうか。ポルトガル人歌手の起用の必要性はいつも言われてきて、解雇されたダンマン元監督も必ずその話を出していたが、それだけでいいのだろうか。

新作の「フィガロの結婚」は旧東ドイツのエルフルト劇場の製作。ポルトガル人のいつもの歌手たちは出演するが、演出がドイツ産まれの「Regietheater」そのもので、例えば最初の場面ではフィガロがイケアの家具を組み立てていた。そういうものをここリスボンでわざわざ観る必要なし。

2010年3月26日金曜日

クリストフ・ダンマン

現役ピアニストだという文化大臣、ガブリエラ・カナヴィリャスによって、わがサオ・カルロス劇場の芸術監督、クリストフ・ダンマン氏の退任、実質的な即解雇が決定的になった。ラジオのインタビューでは4月末には後任者の名前が発表できるという。「芸術的方向と劇場の運営方法がポルトガル国民の趣味に全くあっておらず、批評家、観客、そして劇場運営にかかわっている人たちの期待に全く答えられていないことはますます明確化してきている」という理由を述べた。

聴衆の目線からいえば文化大臣の、勇気ある良い決断だったと言える。オペラの上演や、シンフォニーコンサートは確かに観客は入っていても、演目が乏しくスター歌手も不在で、とにかく新聞紙上での批評が酷なものが多かった。その内容は最近怒りに満ちたものに変わってきていて、露骨に氏の退任を求めているものもあった。劇場の人件費をできるだけ抑え、できるだけ多くの公演をできるだけ多くの観客に見てもらうという、シンプルな彼の哲学は、結果として上演の質を落としてしまったようで、耳の肥えた人たちには全く受け入れられなかった。

ダンマン氏は、実際話すと常に笑顔を絶やさず、誰にでもさわやかな印象をあたえる。最近は彼自身の方針からか、ドイツ語や英語ではなく常にポルトガル語での会話を欲した。彼はドイツ人としか彼の母国語で会話をしない。何度か話す機会を持ってもらったが、残念ながらそういう親切そうな人でも、自分にとって味方の人ではなかった。劇場での仕事上のわずかな希望は全て無視された。氏の劇場の芸術的運営から完全に構想外だったようで、いつもうまくかわされ、仕事はピアノ伴奏者としてのみ、指揮するなんて冗談でもない、といった感じだった。明確な理由は言ってもらえなかった。よって、あと2,3年いるはずだった芸術監督の退任は自分にとっていいニュースのはずである。

2010年3月25日木曜日

赤ちゃんとTGA

息子は生まれて2カ月になり、ようやく典型的なふっくらとした「健康的な新生児」に似てきた。今は投薬が全く必要ない、普通の赤ちゃんだ。いつも目を大きく開けて首を回し周囲をゆっくり観察し、寝るときはこの世の王様のように大の字になる。成長も標準並み以上で、そろそろ着れなくなってきた服も出てきた。

両親としてつらい日々が続いたが、息子のそういう健康的な様子によって心身とも落ち着いてきたように思う。育児休暇中のヨメは、今もコンピュータを開けるたびにTGAに関する情報をチェックしている。仕事に行かないといけない自分は家のことが気が気でならない。今まで、お互い健康に恵まれ比較的気楽に暮らしていた2人にとって、突然訪れた人生の試練の始まりだ。一生付き合うことになる「TGA患者」の両親に与えられた使命である。

インターネットには同じ運命をたどった親たちのエピソードをいくつか見つけ、写真やヴィデオで一部始終公開している人もあれば、闘病記として様子を詳しく文章にして綴っている人もいる。衝撃や様子はどの家庭でも似通っており、それでも元気に暮らしているTGAの子供たちの記録は手術前の自分たちには何の慰めにならなかった。

ヨメの担当の産婦人科医は常に親切な話しぶりだったが、息子の心臓疾患を出産前までに見つけられなかった。妊娠中毒のため、結果的に2人の命拾いとなる帝王切開手術が行われたが、その48時間後の決定まで自然出産を試みるべく、2度の陣痛促進剤の投薬があった。出産中は父親である自分も立ち入り禁止なので、ドアの外どころか建物の入り口の一般待合室で何も知らされないまま数時間待たされた。全て病院の決まりとはいえ、この緊急の状況下に一部外者のように追い出され、何とも納得できない扱いだ。生まれてきた息子の様子に明らかな異常が見えたので、手術後即検査に持って行かれ、ヨメは39週間身ごもった赤ちゃんを胸に抱くどころか、数秒しか目にできなかった。

呼ばれて出産後のヨメに会った。赤ちゃんは検査中なので当然そばにいない。恐るべきメッセージに備えて、最悪な状況を想像した。看護婦は心臓に異常があるらしい、というので即座に脳のダメージのことを思ったが、聞いても変な顔をされ「異常は脳でなく心臓です」とだけ言われた。

さらに一時間待たされたあげく、やがて産婦人科と小児科の医師団が神妙な顔でやってきて、ただ事でないことがすぐ分かった。説明を受けたが、血液に酸素が回ってなく、これから手術だということ以外よくわからなかった。動揺の中、とにかくすぐ赤ちゃんを見せてほしいと申し出たらICU検査室に上げてもらえた。

プラスティックの保育器の中の息子と初対面した。この対面のために、5,6人の医師団と看護人はそばを離れ2人きりにしてくれた。息子はただ美しかった。どう見ても完璧な、見事な神様の芸術作品であった。はだかのままで目をつぶっていたが、はなしかけたら少し反応してくれたように見えた。もしかしたらまだ母親のおなかの中と錯覚しているのかもしれない。宇宙人が入るような保育器の中に手を入れるとすねのあたりに指が届いた。

サンタクルス病院のルイ・アンジョス先生が緊急に呼ばれて医師団と同席されており、これからのことの説明を直接受けた。翌朝、心臓専門のサンタクルス病院に転送され早速手術(ラシュキント)があるという。それまでの一夜は看護人が付きっきりなので、いつでも電話するようにと言われてその場を去り、ヨメの元に戻った。

ヨメは比較的落ち着いた様子で、撮った写真を見せたり、受けた説明の伝達をしていたが、産婦人科の看護婦がやってきて深夜すぎているのですぐ出て行ってくれと言う。決まりなので、と言われるままに行かず口論になリかけたが、ヨメの「大丈夫だから」という言葉を信じて帰ることにした。

手術には常に命の危険が伴うし、親として一目しか見ないまま死別するわけは行かない。翌朝転院される前に息子のもとにヨメを連れて行ってほしいとお願いした。ヨメは車いすに乗せられ意識はもうろうとしていたが、息子に対面するなり静かに涙を流し、話しかけながらすねのあたりをさすっていた。

あんなに美しく、どう見ても完璧な子供が2つの切開手術を目前にしているのは信じられない悲しい事実だった。サンタクルス病院の医師団、看護師たちはそういう両親の心理をよく心得ていて、詳しく、丁寧に説明し、時には慰め、励まし、どんな質問にも答えてくれた。

息子のそばにはヨメと交代で、夜は横のソファに仮眠しながら常に付き添った。アンジョス博士によるラシュキント手術も、アベカシッス博士によるスイッチ・ジャテネ・ルコンテ手術も医師団の思惑以上の好結果に終わった。21日間を経て退院した時の息子の体重は、出生時に比べて400グラム減っていた。

2010年3月15日月曜日

ÇIYA

ヨメと去年のトルコでの思い出話をしていて、またレストラン「チヤ」の話になった。このレストランは、イスタンブルのアジア側のカディコイ区にあり、一般旅行者には遠く行きにくいところだろうが、そこはオペラ劇場の仕事をしている関係、なぜかアジア側にある劇場からすぐ近くにあり、幸運にも滞在1,2日目くらいに仕事仲間に紹介されて行ってみた。そこはオペラの仕事をしている強みである。毎日のように通い、結局仕事がない日にも船に乗ってわざわざ食べに行くほど、大変お世話になった。

料理はケーバプのようななじみ深いものもあったが、大半はいままで見たこともないようなもので、材料の組み合わせ、味付け、におい、色など目からウロコとはこのことで、どれも味は軽めで、とにかく素晴らしかった。生まれて初めて食べるものばかりだったが、実はトルコ人でも見たことがないような、紀元前のレシピの料理も置いてあるらしい。もとはトルコの東方の伝統料理のようで、それは素朴ながら自分の目には最高に洗練されているものだった。肉料理は羊肉中心で、野菜、豆を使ったいわゆるベジタリアン料理もたくさんある。魚料理はなかった。サラダバーは12種類ほど種類があり、これも今まで見たことのないものばかりで、印象的だった。ギリシャ料理で必ず出てくる、名前は忘れたがあのご飯を薬草の葉で包んであるもの、もあったが全くちがうものかと思うくらいおいしかった。これらの料理は、外国のどんなトルコ料理店でも食べることはできないだろう。パセリのジュース、ヨーグルトスープ、オリーブの実のデザートなど、他のどこで体験できるだろうか。本当に驚きの一言。

イスタンブル市内に数多くある、マーケティングに乗った高級料理店でもなく、旅行者にそれらしいものを見せかける料理でもなく、ただ伝統料理の良さを生かし、現代風にアレンジしたものを出し、地道に続けている店という印象を受けた。入口に5,6種類の日代わりメニューが作り置きされており、特に自分のような旅行者のお客さんは料理を指さして注文ができる。ここで本当に底の深い、終わりを知らないファンタジーにあふれた料理をとことん堪能させてもらった。

いつかまたイスタンブルに仕事に行きたいと思うが、それはこのレストランが存在するからでもある。今まで知ることのできた世界のレストランのなかでも、ずば抜けてナンバー1である。値段は、もちろん品の種類にもよるが、ふつうにサラダ、スープ、本料理、デザートで15ユーロを越す程度。残念ながら、アルコール類が置いていないが、トルコ伝統料理なら当然のことで、代わりにヨーグルト飲料のアイランを飲む。そういえば、お米料理のことをトルコ語で「ピラフ」という。トルコ語語源の単語を発見した。

2010年2月21日日曜日

リスボンのこうもり

我がサオ・カルロス劇場は来週の水曜日に新制作のオペレッタ「こうもり」の初日をひかえている。プレ・総練習を拝見させてもらったが、残念ながらさびしい出来だ。自分の仕事場の批判は当然タブーだが、この個人的なミニ・ブログ上で何も書いてはいけないだろうか。そもそも批判ではなく、ニュートラルな一批評家になったつもりで書く。

オペレッタ「こうもり」は別に動物のコウモリが主人公なわけではない。言わずと知れた、役者の一人であるファルケがひょんなことから「こうもり博士」と呼ばれていることから来る題名だが、サオ・カルロス劇場では最初にこうもりの模型が飛んで出てきた。原作ではもちろんウィーンにあるはずの宮殿にはフランケンシュタインや、吸血魔その他の子供だましの変装化け物がおり、当然こうもりも出てくるわけだ。そういう背景だったら、必然的にトランシルヴァニアという地名を連想させる。そういえば、自分の指揮の先生もその地方出身の人だった。でもここリスボンの劇場ではそんなことどうでもいいらしい。

この作品を全く知らないひとは題名から動物コウモリを想像するわけで、なるほど、演出家もそこから入って行ったわけだ。しかし本当の内容は動物園のこうもりとは全く関係がないわけで、それからどう展開する?その解決にはどうやら混沌としたカオスに終始し、ぼかされた感じになった。まず、メゾ・ソプラノが歌う男役のオルロフスキーを変態的な女装した男にしてしまう。しかし実際には本物の女性が歌っているわけで、「女装した男」には全く見えず、普通の変な女性である。「女装した男を演じる女優」は難儀であろう。そんなことなら、オルロフスキーをカウンターテナーに歌わせたりできなかったか。最初のアリアでは、ミニ・ストリップを始める。なぜ?

そして宮殿の中には普通の「オペレッタ・こうもり」に出てくる伝統的衣装を着た合唱団員もいれば、ハイヒールを履いた男性スタティストもいる。深紅のドレスを着た、長い赤髪に超ハイレグを見せた女優(役名はイダだったか?)がその強烈なセクシーさを武器に舞台中を駆け回り大活躍する。あの名曲「チャルダシュ」のアリアではなぜか急にクラシック・バレリーナの格好をした2人の男のダンサーがロザリンデの左右で踊り始める。劇中にはいろいろな「今風の」ダンスや音楽も入り、例のフランス語のハチャメチャ会話では「ラ・メール」の音楽が入る(ドビュッシーのではない)。なんて愉快な。もしそういうものを楽しいと感じない古典的な、というか普通のオペラ愛好家が観客席にいるとすれば、その人たちはどうしたらいいのだろうか。どういう反応をすべきなのだろうか。

ウィーン学生時代が懐かしい。年末大晦日には結構さびしい思いをすることが多く、そういう年には立ち見席で「こうもり」を、正確に言うと「こうもり」を暗譜で指揮している人を見に行った。いい演奏もあれば、そうでない時もあった。シュターツオーパーでは巨匠オットー・シェンクの演出で、3幕のあの口笛の場面では役者として出てくるのを見たこともあった。シェンク氏は、疑いなくオーストリアが誇る天才の一人だろう。

家にはすっかり元気になった息子がおなかをすかせて泣き叫びながら待っているはずなので、あの素晴らしい第2幕のフィナーレを見終えて劇場を後にした。息子が何歳になったら、このオペレッタの大名作「こうもり」を、あらすじを説明しながら見せに連れて行ってあげられるだろうか。

2010年2月6日土曜日

空白の21日

生まれたばかりの息子がようやく病院生活を終え、家に帰ってきた。これから待ちに待った一家族の普通の生活が始まる。誕生から21日経っている。退院時に病名や手術の経過、治療の方法、手術後の容体などをまとめた書類を持たされた。あらためて、この病気の深刻さにびっくりさせられた。

息子の心臓疾患は一般的に完治せず、後遺症や合併症などの可能性がいつでもあり、見事に成功したジャテネ・スイッチ手術も「根治手術」と呼ばれていて、「完治」とは微妙にニュアンスが違っている。これから病院に頻繁に通い、医師団から定められた通りの薬を毎日服用し、同じ病気を持っている人たちからのアドバイスや生き方を参考にして息子を育てていかないといけなくなった。今まで、レールに乗った人生とか、ひとから指定された通りに行動するのが嫌いで逃げてきた自分にとっては何という皮肉だろうか。

大変お世話になったサンタクルス病院には、家から車で10分の距離で当たり前のように自宅から通っていたが、小児心臓外科の他の患者さんらはポルトガル全国各地から送られていることに気がついた。隣にいた女の子の赤ちゃんは300キロ離れたポルトから、違う部屋の男の子は1000キロ以上も離れたアソーレス島から、息子の退院の日にやってきた赤ちゃんはポルトガル最北のブラガンサからわざわざこちらまで来ていた。ヘリコプターで運ばれてきたのだろうか。そういう様子を見ていると、最高の病院で優秀な医師団から即急に手術を受けられたことは幸運だった。感謝しきれない。

いずれにしても、生活は一気に希望に満ちたものになった。様子を見ていると、とても数日前までは生命の危機にあった赤ん坊には見えない。胸にはしっかりと、縦に15センチほどの切開手術の痕があるが、それ以外はいたって普通の元気な赤ちゃんである。生まれてから退院までの日々の出来事は、それまでの生活から全く切り離された、別次元の世界に一気に放りこまれたようだった。しばらく心の片隅にしまっておきたい。

2010年1月29日金曜日

看護師のストライキ

26日から3日間の間、ポルトガル全国規模の「看護師ストライキ」が実行された。国家公務員である彼らは、給料や夜間従業時の手当の見直しなど要求しており、今回のストライキは前代未聞の大規模なものだという。テレビでもリスボンでのデモの様子が伝えられていてかなりの人数が全国から参加していたようだ。

サンタクルス病院の息子は生後11日で大手術を受け、この時期ちょうど集中治療室にいた。ICU室内はさすがにストライキとは無縁で、赤ん坊患者のそばに誰もいないなどという状況は免れたが、看護婦さんは全員「私はストライキ中です」という、このストライキのために作られたシールを胸に貼って仕事していた。「あまり仕事しませんので、ごめんなさい」というメッセージなのかわからないが、こちら患者側にとって、彼らは緊急事態が発生した飛行機の中のステュワーデスのような不可欠な存在で、別にそこまで強調されなくて良かった。ストライキ突入の夜0時に何か打ち合わせのため集中治療室の一角に10数人輪になって集まっていたのが、実に印象的な風景だった。

息子の手術は朝9時に始まり午後の3時半までかかった。成功率が高い手術とはいえ、その万が一の可能性が脳裏から離れない。待機室に座っているだけでは文字通り地獄を見るようだったので、外に出て夫婦でトルコやアメリカでの思い出話をしたりしてリラックスするようにしていた。幸い天気がいい日で外にいると悪い予感はしなかった。

手術後対面した息子は血の気が全く引いていて、どんな映画にも見たことないような哀れな新生児の姿だった。将来への希望とか、待望の赤ちゃんといったすがすがしいイメージとは程遠い一人の小さな患者の姿であり、無数の体温計、血圧測定器、心拍計などといったカラフルなコードをつけられ、さらに7種類もの薬品のチューブにつながれていた。全身麻酔後の体は呼吸せず、機械が一定間隔で空気を吹き込んでいた。自分にはモニターに記されたデータが唯一の生命を確認できるインフォメーションだった。

看護師さんたちはその後24時間体制でモニターをチェックしながら、息子のさまざまなデータを2時間おきにメモしていた。術後の状態が良かったので、時間がたつにつれ薬品の量数は減り、呼吸器も徐々に外していったので息子も少しずつ動き始め、2日もすると目も開けるようになった。

息子はどうやら現代医学の誇る知識と経験豊富な執刀技術に命を救われたようだ。助産院での自然出産や自宅での水中出産など実践していたら今頃どうなっていたかを考えると恐ろしい。病院のしっかりしたシステムや有能なスタッフにはどのように感謝の気持ちを伝えられるかわからない。執刀医のドットール・ミゲル・アベカシッス氏はすでに我が家の英雄だ。

ストライキ中にも身を削ってお世話していただいた看護婦さんスタッフにも感謝と尊敬の意を表したい。

2010年1月21日木曜日

TGA

子供の病気の名は、完全大血管転位症(TGA、Transposition of Great Arteries)というもので、二万五千人に1人という割合で起こる先天性の奇形。手術は難易度の高いもので、肺動脈と大動脈を付け替えるという、想像を絶するもの。いろいろ先生方やとくに看護師さんから説明を受けていたが、インターネットに図解で一目瞭然のわかりやすい説明があった。心臓のことなんてどんな作りだったかよく思い出せないものだったから説明されても全くピンとこなかった。

手術はジャテネ手術を呼ばれているもので、歴史的には1980年代に一般的に行われるようになったものという。現在の成功率は90パーセント以上、再手術や合併症の可能性も10パーセント以下、数年過ぎるとさらに5パーセント以下という。緊急処置として、心臓の左右の壁に穴をあけ、血弁がふさがらなくする薬の点滴をしている。

親としては手術の成功を祈り、いまからでも子供の心のケアをするのみである。寝ていて急に暴れたりすると今から心配になる。話に聞くと、かなり精神的衝撃を受けた親もいるようで、当然ヨメのケアのことも考えないといけない。

これから試練が待っているだろうが、それを糧にして強くなっていくのみである。

2010年1月17日日曜日

聖マリア大学総合病院と聖クルス病院

後期の妊娠中毒症になったヨメの緊急入院から始まって、帝王切開によって無事生まれた息子が予期せぬ先天性心臓疾患を持っていることがわかったので、ここ4日ほど病院に何度となく足を運ぶことになっている。なんとも長い週末になってしまったが、この病院、サンタマリア大学総合病院と、息子が転送されたサンタクルス病院のシステムの素晴らしさには本当に感銘を受けた。医師団のすばやい的確な判断により2人の命が救われたといっても過言でない。

ヨメは何とか回復しそうだが、息子のほうはまだ心臓を開ける大手術が待っているので気が気でならない。しかし、心臓科の専門であるサンタクルス病院の設備の良さ、医師団の的確な説明ぶり、スタッフの献身的な仕事ぶりを見ていると成功しないわけがない、と心から信じていられる。

この国の医療関係システムは全くなっていない、といままで決め込んでいたのが本当に申し訳ない。あの巨大なサンタマリア大学総合病院が多数の看護師、医師によって信じられないくらい円滑に動かされている。スタッフ間の情報伝達も確実で、24時間体制で誰に接してもこちらの状況を常に把握している。

このような病院にお世話になっている自分たちは本当に幸運だと思う。

2010年1月11日月曜日

2010年

今年に入ってから予定表はいまだに真っ白だ。去年、2009年は年始早々コンサートが入って忙しく、そのあとすぐにイスタンブールやコルーニャに行ったりしていて、夏はあの巨大なイヴェント、フェスタ・ド・アヴァンテを控えていたこともありずっといろいろ忙しかった。今年はいったいどうしたことだろうか。こういうときは演奏会の内容が良くなかったのだろうか、などといろいろ心配させられる。

今年こそは、耳の肥え切った聴衆の前でコンサートするような機会に恵まれたいものだ。音楽家はやはり、聴衆に育てられるものではないだろうか。いい音楽を本当に必要としている人たち、そういう人たちにいい演奏を期待されるようになりたい。願わくば実現させたい夢だ。