2009年12月28日月曜日

ボッサ・ノーヴァ

前のブログで書いた映画「黒いオルフェ」のブラジルのギタリスト、ルイス・ボンファによった書かれた音楽はかなり、というより20世紀の歴史に残るくらい有名なようで、そのジャンルは「ボッサ・ノーヴァ」といわれている。はずかしながら今の今まで知らないことだった。

曲の雰囲気や、その「心」について語る人は多いようだが、クラシック音楽の教育を受けその世界に育ち、根をおろしてしまっている自分にとってはやはり技術的なことばかり気になる。アメリカジャズとの関連性もいろいろあるようだが、特徴的なのはその和声進行だ。個人的な印象で、無知を承知で大まかに語ってしまうと、ジャズ音楽の世界ではなんとなく個々のハーモニーが林立しているだけで、音楽は実は常に停滞している印象があるが、ボッサ・ノーヴァの音楽では和声は本当に「進行」している。

わが伝統のクラシック音楽史では、理論による和声学は20世紀の初めウィーンの大先生によって「終焉」を宣言されており、これ以上の進化は求められないといわれてしまっていた。自分自身ウィーンでクラウス・ガンター教授やヘルヴィッヒ・クナウス教授といった偉い先生の方々に師事させていただいたが、そこでも和声学は19世紀末までの音楽を中心に説明され、その「宣言」以降の和声の発達は語られないままであった。どうも音楽史の流れは20世紀以降混乱しきっていて未だアカデミックに整理されていない気がする。それほど某大先生の影響力はすざましいものであった。

それでもバルトーク、ショスタコーヴィッチやメシアンのような天才を始めとする作曲家は、無調音楽全盛の時期に独自の和声進行を発展させていったが、それを理論化するにはタブー視されているのか、作曲科や音楽理論科出身ではない自分は深入りしなかったこともあるが、少なくともウィーンではあまり語られなかった。

3度を2回上に重ねた「三和音」は神聖なものであり、その上にもう一つ3度音を重ねた長短7度の和音をはじめ、すべての四和音はいずれも三和音に即帰する和音である。先のウィーンの「大先生」の音調作品によく出てくる9度の和音以降はオルガンバス上の進行の中で起こる偶然性、または「ビ・トナール(複調)」の理論、それ以上はただ一言「クラスター」という程度で片付けられている。

ボッサ・ノーヴァでは7度の和音は全く違う働きをし、9度や11度にままならず、13度の和声までひんぱんに登場していて、それも盛んに長短の和声を巧みに使いすばらしく機能しているではないか。三和音も忘れたころに出てくるが、その即興性の豊かさには和声進行の限界は感じられない。実際、「黒いオルフェ」の音楽の一つ、「カーニバルの朝の歌」などは様々な現代にいたるアーティストによって演奏されており、聴くところみな独自の自由な、色彩豊かな和声進行を創作している。

2009年12月22日火曜日

不況の時代の高速道路

ポルトガル全国内の高速道路を管理している会社「BRISA」の社内パーティにてヴァイオリニストとの演奏に招かれた。観光の名所「シントラ」のど真ん中にある、市指定建築物と思われる「ポンバル宮殿」での催しだった。アウトバーンの高い使用料を払わさせている、あの会社のトップを集めたパーティーとあって、かなり豪華なものだった。

宮殿は18世紀のものと思われる美しい建物で、門をくぐってすぐ大きな石畳の庭があり、らせん階段を上って館内に入る。19、20世紀初めの家財や絵画は美術館で目にするような驚くほど素晴らしいものばかりで、高さ2メートルはあるかという、フリーメイソンのモティーフがちらばる置き時計も見られる。床にはどこもぎっしりペルシャ風のじゅうたんが敷かれている。40平方メートルはあろう部屋が4,5室あり、僕らの演奏に使われた30席ほどの「客席」があるホール、さらに階段を登って歓談室、会食用の小ホールへと続く。中庭を通じて向こう側の建物はやはり2階あり、下の階はレストランの調理場を思わせる大きなキッチン、上の階は何部屋もあるが、どうやら使用人専用に使われているようだ。要するに建物内の仕切りも19世紀のままで、メイド・使用人用と家の主人が暮らす場所は分離されている。

話を聞くと、この格調高い「ポンバル宮殿」は、「BRISA」のトップの一人の私財だという。要するに社長氏の「御自宅」だ。驚かされたのが20名ほどの使用人で、まさか年中雇用ではなく、このパーティーのために集められたのだろうが、みな蝶ネクタイ付きのユニフォームを着ており、白手袋をはめてキビキビ仕事をしている。スタッフ全体が、テーブルのサービスとはまさに神に仕える行為である、という哲学を持っているかのようだ。キッチンには作業着を身に付けたメイドさんがおり、姿は見えなかったが料理人チームも別にいるかもしれない。その様子はまさに5つ星ホテルのようでもあり、映画「風と共に去りぬ」に出てくるような使用人付きの家そのものだ。門外にはネクタイ、スーツ姿の「見張り役」が4人もいた。

オーストリアでも住みこみ使用人付きの家は少なからずあるが、ポルトガルでは使用人が制服を着ていたりしてさらに厳格な貧富の差があるように感じる。中流階級の家庭でも「小使用人」の雇用を望む人が多いが、家の掃除は自分で行うものと教えられてきた人間にとってはヨーロッパ19世紀の名残にしか思えず、そういう考えはどうもなじまない。

この富裕層の方々は、ひと昔の慣習を今でもそのまま実践している人たちで、現今の不況には全く無縁に見える。もっとも、お金が多少不足したら雇用者に払わなければいいわけで、この催しの一人の使用人だった自分のギャラについては「一月後」と難なく言い渡されてしまった。この階級の人たちの「後払い」の習慣は最近よく聞く話である。

このパーティーが会社の経費として落されているのかわからないが、どうせならヴァイオリンとピアノのデュオではなく、弦楽オーケストラでも雇ってほしかった。個人の価値観の違いもあるが、そこに経済不況への対策が映し出されているような気がして、この先不安な気持ちになる。

2009年12月6日日曜日

黒いオルフェ

テレビのザッピングをしていたら、「MEZZO」でブラジルの映画をやっていた。タイトルを見ると、「Orfeu negro(黒いオルフェ)1959年作」とある。カラーでそんなに古い映画には見えない。見ているうちにわかったが、例のギリシャ神話「オルフェオとエウリディース」のブラジルの貧困階級のカーニバル版だ。「アモール」役の子供もいるし、昔はやっていた仮面ライダーの悪役のような衣装を着た「Morte(死)」の役もいる。エウリディースは確かに死ぬが、一度も生き返らない。残念。

リオ・デ・ジャネイロの海岸線が背後に見え、カーニバル時期の音楽が鳴り渡る。単純なセリフに演技も未熟ながら、何かしっかり魅せられるものがあって、最後まで見た。感動した。

何が素晴らしいのだろう。音楽は本当に素晴らしい。永遠に鳴り響く打楽器のリズムは疲れを知らない。ミニマル・ミュージックのように同じに聞こえてところどころ変化がある。打ち合わせたようにテンポも変化する。歌もどういう決まりがあるのか、リズムに合わせて急に出てくるがきまぐれではなく、絶妙のタイミングで歌いだす。歌もいわゆるユニゾンの合唱だが、心と歌のバランスというか、ゆとりというか、なんて成熟されたものだろう。

ダンスも天才的だ。足さばきはサッカー選手のリフティングを見ているようだ。よく思われているようなハチャメチャな、ただ熱狂的という踊りではない。音楽もそうだが、どこかにシステムと規律があって、何といっても踊りには心がある。それは映画のための演技には見えない。

彼らの持つ才能を存分に見せられる。たぶんその強烈な才能に感動させられるのだろう。

話の内容そのものはナイーヴで、例の「オルフェオ」の内容に照らし合わせてなるほどな、と感じるくらいで、ブラジルそのものとはあまり関係がないのかもしれない。それにしても50年前のリオの様子、人々の表情が映し出されているいい映画だった。

次の日インターネットで検索してみたところ、当時いろいろ賞を取った有名な映画らしい。オルフェ役の「俳優」はフルミネンセのサッカー選手だったといういわくつきだ。

2009年12月3日木曜日

チャイニーズ「トン・シン」

普段見かける中華料理店は最低のサービスに、本当は食べれないのではという料理を出すというのが定番だが、観光の名所「べレン」、べレン文化センターの向かい側にある、テージョ川を優雅に眺められるレストラン「トン・シン」はひと味違っている。

まず入って驚くのは、その大きさ。300席はあるのではないかという広さで、そしていつ行ってもガラガラ、お客さんは多くて10人。デコレーションはよく中国製品ショップで見るようなけばけばしいプラスティック。冷暖房完備されていて、窓は大きく、斬新な建築物の文化センターも、目の前をゆっくり走る電車も鑑賞できる。昼間にはあのジェロニモ修道院も見える。要するに高級さを前面に出そうとしているのは一目でわかり、それだけでも一般の中華料理店とは異なる。

サービスの人は毎回顔ぶれが違う。「この前食べた・・」は通用しない。メニューは種類が豊富で、ページ数が多く、目を通すにも時間がかかる。「北京ダック」もある。二分の一のダックもメニューにあるので、2人連れでも気楽に注文できる。前日に予約する必要もない。

北京ダックは目の前でシェフがさばいてくれる。器用に、あっという間にきれいに皿に盛られるのを見ると、無表情な料理人の相当の腕前が察せられる。皮だけではなく、ロゼ色の肉もしっかりつけて切ってくれる。ソースはおそらく既製品だが、ダックによくあう。ビールもおいしい。

以前あった豪華な水槽の熱帯魚も、おおきなザリガニも消えていて、ずっとガラガラのこのレストランはいつまで存在してくれるのかわからないが、レストラン前には、いつもメルセデス・クラスSが止めてあり、少々不気味ながらまだまだ通えるかもしれない。値段は普通の中華より少々上。

2009年11月25日水曜日

モンテモールでのコンサート

先週末はアレンテージョ州のモンテモール・オ・ノーヴォ、または新モンテモール、というところでオーケストラのコンサートだった。19世紀そのままのようながたがたの石畳の道が続く静かな町だが、800人収容のホールには8割方集まった。クルヴォ・セメードホールは20世紀初めに建てられたもので、音響も素晴らしく是非こういう企画を末長く続けてもらいたいもの。

ジナジオ・オーケストラは今回もいい演奏をした。いつも思うが、ヨーロッパ水準の質を持っていると思う。本番では個々のアドレナリンが働くのか特に見違えるような響きになる。彼らは正真正銘のプロの音楽家で、このオーケストラにはよく言われる務めを果たすべき役人のような演奏者はいない。練習から本番まで、今回も順調に進んでくれた。歌手たちも素晴らしく、当地の合唱団サン・ドミンゴスもよく歌ってくれた。

曲目はハイドンからマスネーまでの数々のオペラの名曲アリアの色彩豊かなもので、2つウィーンのオペレッタの曲が入った。一つはヨハン・シュトラウス、「こうもり」からアデーレのアリア、もうひとつはレハールのメリー・ウィドウからのデュエット「唇は黙し」。

フランツ・レハールは20世紀を代表する作曲家のひとりでははないだろうか。生前ナチスに好まれた作曲家ということもあり、戦後はあまり注目されなくなったひと時代前の音楽という感が強い。初期の「メリー・ウィドウ」も素晴らしいが、ウィンナオペレッタの最後の作品といわれるオペレッタ「ジュディッタ」。なんてすばらしい音楽だろうか。豊かなハーモニー、心から湧き上がるようなメロディー。オーケストレーションはプッチーニのように厚い響き、個々の楽器を際出せるような繊細さも合わせて持っている。そして出身地であるハンガリー音楽の要素を決して失わない。

レハールの作品は音楽家の腕を磨いてくれる。どのように歌うのか。ルバートの場所、どの音にアクセントをつけるか、和声はどこに向かうのか。全て楽譜に明確に書かれている。すべて理解し、心から歌わないと未熟さをさらけ出すことになってしまう。

豊かな自然に囲まれたアレンテージョ。闘牛の牛も近くで育てられているような田舎でのウィンナオペレッタの名曲はどのように響いたのであろうか。

2009年11月17日火曜日

ウィーンの市電

長い間を過ごしたウィーンの回想。時々、今でもフラッシュバックのように思い出すことがある。必ずしも悲しい出来事や暗い話ばかりではなかったが、なにしろ青少年時代からずっと、16から31歳までを過ごした土地である。本当に様々な体験をした。

異常な出来事。ウィーンで生活したことのある人なら誰でも、人種、国籍関係なく信じられない言動や行動に遭遇する。運が悪い日には身の上に起こる。普通に、何気なく、毎日ではないが、日常的に起こる。

それは今、3000キロメートル離れた地で生活していて特に「おかしい」と思える。しかしウィーンでは当たり前に、普通に起こっていた。政治レベルだけでなく、そぐそこの、身近なところで。

去年の話だったか、ちょっとしたウィーンの市電車内での出来事を収録されたヴィデオがYOUTUBEに投稿されニュースになった。実際目撃したわけではないが、よくありそうな話で興味深かった。

環状道路に沿って長年走ってきた市電、1番だったか、が廃止になり、その最後の走行を記念に携帯ヴィデオで収めた人が多々いた。その市電の40歳手前の車掌、普段は「扉が閉まりますZUG FAEHRT AB!」を告げる役目の人間が何を思ったか、満員のお客さんに車内放送でスピーチを始めた。ただその独断であろう行為でさえ本当は信じられないことだ。スピーチそのものは軽いノリながら、その市電路線の長い歴史を語るもので、雰囲気作りを思えばまだよかった。

しかしその車掌はそのスピーチを「SIEG HEIL!」で締めたのである。しかもそれに拍手するお客さんが多数いた。それに「抗議」している年配のお客さんが2,3人いて、その人に対して車掌は「冗談で言っただけです」と弁明していた。

SIEG HEIL??

それはウィーンでは普通、許容範囲の悪ノリだった。ただヴィデオに撮られ「大きくニュースになった」ので、その車掌は解雇された。

ウィーンは違う WIEN IST ANDERS?30万人もの精神異常者が存在するといわれる。

2009年11月13日金曜日

「飛鳥」II

以前のブログで「飛鳥」レストランのことを書いたが、実は「飛鳥」チェーン店がリスボン市内に何か所かに存在する。「オエイラス・パーク」にそのひとつがある。「オエイラス・パーク」は最近ヨーロッパのどこにでもあるような巨大なショッピングセンターで、レストランもファーストフードチェーン店を中心に20件ほど並んである。要するに大衆が気軽に低価格で素早く食事できるのがポイントであり、そこにオリジナルの日本食レストランを置くのは革新的なことだと思うが、「飛鳥」ではチャーハン、焼きそばを中心にメニュー5-7ユーロ程度で出していて、人も結構列になって並んでいる。ここでも「飛鳥」本店同様、欧州風のアレンジはない。そこにはカレーライスやカツカレーも置いてある。ルーの辛さはかなり控えめで、具はニンジン一本だけだが、味や色はまさに日本風のカレーでこれがなかなかおいしく食べられる。その場でカツを揚げてもらえるカツカレーのほうがお勧め。ご飯もしっかりついていて、みそ汁、ドリンク付きで7,5ユーロはかなりいい値段ではないだろうか。

2009年11月4日水曜日

予防接種証明書

エヴォラ大学の仕事の契約書がまだ届いていない。話をききにいくと、とにかく遅れているのだという。国立機関の就職に必要な書類の一つに「予防接種証明書」がある。インフルエンザの接種ではなくて、いわゆる日本でも幼年時に受けているものだが、こちらポルトガルにはそれが記載されたカードが存在する。日本やオーストリアでも犬の場合は狂犬病の予防接種の証明書は存在するのだろうが、人間にはない。腕の注射の痕を見せれば済むのだが、提出すべき書類ではないので通用しない。結局近日中に病院に接種を受けに行くことにした。この時期、A型ウイルスが氾濫している病院に行くのは全くタイミングが悪いのだが、契約に必要だというのだから仕方がない。聞くところによると、学生も予防接種は義務付けられいるという。日本人、というか外国人留学生もわざわざカードの発行のためだけに注射を受けに行っているのだろうか。

2009年10月28日水曜日

レストラン「飛鳥」

昨日はリスボン、ポンバル広場からクルマで2分のところにある日本食レストラン「飛鳥」に行ってきた。行く目的は当店のラーメン。改めて思ったが、ヨーロッパでまじめに日本で食べるようなメニューを出している店は本当に少ない。

普通ラーメンといってインスタントのめんや、食べて悲しくなるようなスープを出すところや、中華レストランで出るような、ただスープにめんが入っているだけの「ヌードル・スープ」に遭遇すること多々あるものだが、ここ「飛鳥」ではスープもまさに特製で、変なくせもなく洗練されている。メニューには7,8種類のヴァリエーションがあり、どれも麺とのバランスも最高に良し。めんは生めん。

今回注文したのは「味噌ラーメン」で、薬味にやわらかいメンマや焼き豚薄切り3枚、もやし、ねぎもごまも乗ってでてきて、満足。味や量に物足りないところはなし。かまぼこはないが、なくていい。ぜいたくを無理して言えば、麺はずいぶん絡まったまま出てきて、適量をつまみだすのはなかなか難しく、そこらへんの配慮はない。普通そういうときはめんをスープの中で泳がせれば済むのだが、ここではそういう余裕がないくらいぎっしり混雑している。めんの質がつるつるしていなく、すべらないのも混雑の原因だが、ここヨーロッパではめんをすべらして食べることはしない(ほうがいい)ので、評価の対象にならず。焼き豚は特においしい。食器はプラスティックだが、デザインも好感が持てるもので全く気にならない。量もしっかりあってそれで8ユーロ。スープも最後までしっかりいただいた。

インチキものを出している日本人経営のレストランがあるところもあれば、ここ「飛鳥」はポルトガル人シェフの経営。客席から見える調理場にも日本人らしき料理人は見当たらなかった。間違いなく日本でしっかり修行してきた人で、こちらでもヨーロッパ人用の変なアレンジなしに、おそらく日本で仕事されてきたときのレシピのままで続けられている。一時期、麺の質が落ちたときがあったが、昨日は改善されていて、歯ごたえのある素晴らしい生めんだった。このシェフ、もしかしておそろしいくらい仕事しているのではないだろうか。

それでも一つだけ、変なアレンジがあった。デザートに当店自家製の小倉アイス、抹茶アイスがあるのはいいのだが、小倉にはチョコレートソース、抹茶アイスにはストロベリーソースがかかって出てきた。アイスそのものはとてもおいしいのに、こういうアレンジは失格。もったいない。

日本で深夜すぎに食べるようなラーメンはこういうものかな、と思った。いや、たぶん比べものにならないくらいおいしい。久しぶりにレストランでおいしいものをいただけた。食事が恋しくて日本に帰りたい時は、ここに来れば解消する。

2009年10月14日水曜日

選挙

前の日曜日、嫁の投票につきあって会場に着くと、ふと「在ポルトガル外国人投票者用」の案内が目についた。いままで一度も選挙に参加する機会がなかったが、別に政治に関心がない人間ではない。税金をあれだけ払っていてどうして選挙権がないのか、ということを誰かに訴えたい。係の若い人に質問すると「投票できるはずです」と言うので驚いた。もしかして選挙できるのかもしれない。急に訪れたかもしれない投票の機会に心が躍った。どこのだれに投票すべきか迷う。
そこで投票に必要な住民番号を聞かれたが持ちあわせていないので、別室に導かれて調べてもらったが、身分証明証の番号から名前が出てこない。係の人がいろいろ電話で聞いたあげく、結局日本はポルトガルで選挙権を持てる国に属していない、という説明を受けた。
選挙権を持つ国はEU加盟諸国、旧ポルトガル領国、ノルウェーやスイスに限られていた。とはいえ、その国のパスポートを持たない人に選挙権を与えるのは、ほんの数年前には考えられなかったことで、わずかな希望の光がさしてきた気がした。一生選挙に参加できないと思っていたが、意外に投票できる日は近いのかもしれない。

2009年10月2日金曜日

フェスタ・ド・アヴァンテ

グローバル化された現代社会の中で賑わう「日本人初の」「日本人としてO人目」という、外国で活動している人の業績に関する表現。当本人はそういうデータは退屈でしょうがないのではないかと思うが、読んでいる人には「日本人でそこまでやって、すごいなあ」となるのかもしれない。先日天下のベルリンフィルの第一コンサートマスターに就任した樫本氏は「日本人として2人目」という。彼は生粋の日本人だが、実は生まれも育ちもヨーロッパだ。今までも国際的な活躍をされてきたが、さて彼自身「日本人」の枠に入っているという意識はあるのか、疑問なところ。日本のサッカー選手がイタリアでゴールを決めれば、「日本人としてO人目」となり、アメリカでホームランを打てば、「日本人第O号」となる。イチローの退場は日本人では7年振りらしい。あげくの果てには、日本語もろくに話さないドイツの著名音楽家家系のハーフのヴァイオリニスト、トモ・ケラー氏までが「日系人として初のウイーンフィル楽員」などと書かれる。「OO氏以来何年ぶり」のノーベル賞受賞の「日本人」教授は、アメリカ在住数十年のアメリカ国籍所持者。フランス・シトロエン社には、「日本人で唯一」のカー・デザイナーがいるそうだ。

去る9月4日の、毎年数十万人の観衆を集める第33回フェスタ・ド・アヴァンテでは、史上初めて「日本人アーティスト」が舞台に立ったはず。舞台上では、90人のオーケストラにも、70名の合唱団にも30人のスタッフの中でも唯一の日本人。野外の2,3万の観衆の中に、どれだけ日本人がいたのかわからないが、この同国共産党主催の「フェスタ・ド・アヴァンテ」の性格上、日本人特別対象のコンサートではない。指揮者は日本人である理由はないのだし、演目に「さくら」「隅田川」が入ることもない。当然のこと、日本国大使が興味を持って来られることもなかった。今現在が16世紀だったら話は別だろうが、今回のコンサートの当事者の使命は、クラシック、オペラ音楽を幅広い聴衆層に提供するという基本的なことで、スタッフ間に間違いなく成功させなければならないというすごい緊張感があった。そのコンサートを指揮していた自分には「日本人である」という意識は全く、どこかに吹っ飛んでいた。そういう雑念に惑わされずに仕事できたことは、当然のことながら、正直うれしい。

長年フェスタ・ド・アヴァンテの主催者であり、ジャーナリストで政治家であられるルーベン・デ・カルヴァーリョ氏が先日、ポルトガルの週刊高級紙「エスプレッソ」に当コンサートについての記事を書いた。メディア、各新聞社がこのコンサートのことに全く触れていないのは極めて遺憾であるとし、この大規模な「ポルトガル人」の企画による演奏会にもっと目を向けるべき、とあった。そこには僕の名が「日本人指揮者」として紹介されてあった。カルヴァーリョ氏からはとてもいい言葉を頂いていて、新聞上にわざわざ名を出していただいたことには、非常に感謝している。

今までの自身の経歴で「日本人初」をあげたらきりがない。リスボン、サオ・カルロス劇場の専属の仕事は疑いなく日本人初、ドイツのプファルツ劇場での指揮、そのいくつかの引っ越し公演の指揮は、日本人で初めてだったかもしれない。さかのぼれば、そもそもウイーン音楽大学の修士学位は何人の日本人が取得しているのだろうか。あれだけの数の日本人留学生がいるウイーンの指揮科も、ゲスト研修生がほとんどなので、正規の学生は自身の5年在籍に重なった2人、過去にも数えるくらいしかいなかったはずだ。南米の指揮コンクールには入賞者はおろか、参加者の中にも日系人を除く日本人は今までいなかった。

世界には「日本人」として貴重な貢献をされている人たちもいることは忘れてはいけないと思う。だが、誰もが自分の意志で、どこででも生活できるようになったこの世の中、もう外国での「日本人枠」を取ってしまってもいいのではないだろうか。この「日本人枠」に限れば、外国で日本人がいないところで仕事すればあっという間に「日本初」がいっぱいでてくる。自分にとっては「日本枠」が存在しなくなり、内容そのものにもっと目を向けてもらう日がいつか来たら、と切望してやまない。




2009年9月23日水曜日

Castella do Paulo

リスボン市内、コメルシオ広場から歩いてすぐのところに、20席ほどの規模の「パウロのカステラ」がある。長崎の老舗カステラ店で修業されたという、パウロ・ドゥアルテという名のシェフが経営されているカフェだ。店のあちこちに、日本人の奥様の筆跡と思われる文字が書かれていて、置いている品は、間違いなくリスボン唯一のもの。長崎カステラに始まり、あんぱん、メロンパン、クリームパン、カレーパンなど日本ではよく見かける菓子パン類が1ユーロ前後と手ごろな値段で売られている。メニューには印刷されたポルトガル語のほか、手書きで日本語と英語が加えられている。そこには案内文として、ご夫婦ともども、ポルトガル語と日本語で、彼らのお菓子作りへの思いが綴られている。店の装飾や雰囲気からも、この経営者の真摯な情熱と仕事への愛情が伝わってくる。味のほうも、まさに手作りといった、アットホームなもので、非常に好感度が高い。昼食時にはランチメニューも出しているようなので、今度行ってみるつもりだ。5つ星。

2009年9月12日土曜日

NOVO BONSAI

昨晩、リスボン市内にある日本料理レストラン「NOVO・BONSAI」にて、かなり残念な体験をした。5,6年前から何度か行ったことのある店で、経営者御夫婦も顔見知り程度で、面識ある。とにかくサービス、料理のレベルの割には値段の高い店だが、20席ほどの狭い店は満員状態。ヨーロッパの根強いスシブームに乗せてもらっているのでしょう。

スタッフは姿の見えぬ料理人1人+カウンターのすし職人1人+ウエイター2人の全員日本人なので、そこそこ安心できそうな錯覚があるが、実は数年前、10ユーロの昼食メニューにうどんと称して、安物のきしめんが出てきたので敬遠してきた。

昨日はその悪い印象が、見事に証明された。もう2度と行くまい。

今回は、まだ日本食を食べたことがないという、年配の友人家族(ポルトガル人)4人が一緒だったので、僕がすべてメニューを決めることになった。とりあえず「お勧め品」の枝豆を、早速注文する。いまだに夏の暑い日だったし、冷ややっこも、と思ったが、7ユーロとある。そこで学生アルバイト風のウエイトレスさんに質問。「この値段ですが、大きさは?」「ほんのちょっとです」早口で、いかにも日本人とは接したくなさそうな、ヨーロッパではよく見かける日本人の女の子。「中華スーパーでは1ユーロもしないじゃないですか」と不遜ながら愚痴ると、「そういうのは生で食べられません。とうふはこちらで作っているものなので」。ということなので、3皿注文。なるほど、「自家製」というだけあって、かなり柔らかなおいしいお豆腐、その上には3cmの幅もありそうな立派な鰹節がたっぷりのっている。でもそれだけ。ネギも、おろし生姜もなし。

その他、前菜にはナスの味噌田楽も頼んで、これはサイズも大きく、なかなかおいしかった。ただ、スプーンと小さいフォークがしっかりと味噌だれに浸かってしまっていて、使う両手も必然的に油でギトギトになる。そこは手前のおしぼりで解決。

しかしこの時点で飲み物がまだ到着していない。せっかくの枝豆も、ビールが出てきたときにはもう食べ終わってしまっていた。

さてメインには、本当は70近い友人にぜひしゃぶしゃぶを食べてもらいたかったのだが、33ユーロとある。そこで例のアルバイトさんに聞く。「しゃぶしゃぶはどんな感じですか」「鍋物で、ご自分でテーブルで調理していただきます」。自分は大阪人なので、しゃぶしゃぶ料理の説明は受ける必要ない。「しゃぶしゃぶは分かるんですけど、どんな感じで出てくるのですか」「普通、初めての方にはお勧めしません」と続けられるので、「なぜですか」と返すと、「好きじゃないようです。でも食べたいんなら、注文してください」。と、ほら、ほら、とジェスチャー付きで言われてしまった。小声でかなりルーズな話しぶりは、この料亭並みの値段には相応しくない。

そこで隣のテーブルで娘さん家族と、お客さんに化けて食事されている、オーナーご夫妻に話しかけることにした。同じ質問をする。「先生、しゃぶしゃぶはどんな感じですか。」「えっ」「たれは何ですか。ごまだれですか。」「はい。ごまだれと、ポン酢と二つ付きます」。ドイツ人とのハーフの娘さんが、代わりに答えてくれる。「でもしゃぶしゃぶ用の肉は使っていないですよ」といわれるので、そこで一番気になっていたことを聞く。「肉は何グラムありますか」。これにはオーナーご夫婦、娘さん、ウエイトレスさん誰も答えられなかった。33ユーロで、100グラムだったらどうしよう?というのが頭にあったので、どうしても聞かないといけなかった。みな沈黙したので、失礼だったかなと思ったが、あとで嫁に聞いても、当然な質問だと言ってくれた。オーナーが「しゃぶしゃぶは食べてみたらわかる」と言ってくれたのだが、頼まないことにした。

結局定番のてんぷら、とんかつ、お寿司と無難な線で済ませることに。とんかつは、ウインナーシュニッツェル並みに薄く、大きさは手のひらサイズ。千切りキャベツと、一切のトマト、あと大さじ1のウスターソースがついてくる。味は、いたって普通で、ごはんもみそ汁もつかず、これで13ユーロ。

てんぷらは、エビ1尾、白身の魚、ナス、カボチャ、サツマイモ1切ずつ、インゲン豆1本。たれには大根おろしが付いてこず、当然ごはんもこない。これでまた13ユーロ。てんぷらの衣は分厚く、どちらかと言うと中華料理の衣のよう。これをてんぷらと名付けていいのだろうか。

ちらしずしは、サーモン4切れ、マグロ4切れ、超薄切り厚焼き卵2切れ、スズキ薄切り2切れ、タイ薄切り2切れ。とび子少々。これで16ユーロ。これで1人前では大人には全然さびしい。

あと「お勧め品」の一つ、タコ焼きも頼んだ。冷凍品かな、と思ったが、これも自家製らしい。6個付き、この店自慢の鰹節がしっかりかかっているが、青ノリはない。タコはほぼみじん切りになっていて、生地はホットケーキのよう。ネギもなし。あの山芋入りの、口にとろける大阪のたこ焼きとは別物だった。

友人たちはそれでもまあまあ満足していた。

思えば、ウイーンの日本料理店はどれもレベルが高かった。Krügerstr. の天満屋では、日本の料亭に劣らない繊細な料理が出る。値段はNOVO・BONSAI並み。ANAホテルの雲海は高かったが、品格があって接待によくつかわれた。ナッシュマルクトの「小次郎」では、今まで一番おいしいお寿司をいただいたと今も思っている。冗談みたいな超大盛りのチラシを出していただいたことには、本当に感謝している。

NOVO・BONSAIは量も少なく、材料も鰹節以外は乏しく、サービスも小さい店の割には遅く、悪い。味はそこそこだが、正直言って家で自分で作ったほうがおいしいと思った。日本食はブランドになっていて、おしゃれで通う人もいるから、それでも店に来てくれるひとがいるかもしれない。でも、日本人が来て、がっかりするようなサービスをする日本料理店はいただけないと思う。リスボンの別の日本料理+お寿司屋さん「とも」も同じように、信じられないサービスをする。この店も、NOVO・BONSAIも、申し訳ないがもう2度と行きたくない。


2009年8月18日火曜日

べースボール

テレビ&インターネットの契約会社を変えたので、テレビのチャンネルが110に増えた。スポーツ番組を生中継しているアメリカのチャンネルを見つけて、昨日生まれてはじめて、大リーグの生中継を見た。野球そのものを見るのも、本当に久しぶりだった。選手はみな超大型で、どのバッターも、とにかくバットを思い切り振り回す。状況に合わせた打撃、というのはない。打っても守っても走る場面は、アトレティックな感じはしない。”セコい”プレーは一切なし。ピッチャーは速いテンポで、いろんな球種をただ思い切り投げている。アメリカの人が見たいプレーというのは、強靭で、シンプルで、勇敢。ボールを当てられたら、必ずやり返す。ぶつけられた側のチームのピッチャーが、まだ1球も投げていないのに審判から警告を受けていた。アンフェアプレーには1点失う、とか即退場で1人減らして8人でプレー続行、といった、よくあるペナルティー式のルールにしたほうが健常的なのでは。

2009年8月3日月曜日

クルマ、クルマ、クルマ。

一般人にとって、身近に最先端のテクノロジーを感じられるのは、自分の車くらいではないだろうか。異文化の人たちが、何世代にわたって競い合っている「科学技術」の世界、その深い歴史には大変な情熱を感じさせられるし、その魅力には、誰もが瞬く間にはまってしまう。情熱に心を動かされている人には、環境汚染や、浪費などマイナスの要素は、その内に秘めたエネルギーによって、どこかに吹っ飛んで行ってしまっていたはずだ。

それが現在、人は環境汚染問題を逆手にとって、最先端の技術を表現すべく、「環境にやさしいクルマ」というキャッチフレーズで、新たな情熱のエネルギーに変えることを思い付いた。車の存在自体が、環境にやさしいはずはないのは、もうずっと、何十年も脳裏にあった、というか脳表まで染みついていたことなのに、人はその最新哲学の車に魅了され、乗っていれば、自然に緑が育つのだ、というひどい錯覚を起こし、未来の環境社会に向けて、一歩前進した感覚になる。

それは、まさしく「いい夢」を追っているにすぎないのであるが、その反面、そういう夢がそんなに身近にあり、気軽に自分の手の内に収まるというのは、なんて簡潔な、幸福への道ではないだろうか。

人はいい夢を追い続け、酔い、そんな夢のために繰り返し浪費し、一生を費やす。

自動車ビジネス業に頼りきっている世界の各国で、その新たなオーナー獲得作戦、名目ではCO2削減の環境対策で、古いクルマを、新しいのに買いかえさせる補助金制度を決めた。大きなCO2の削減になるかどうかは、よくわからないが、とにかく世界経済の活性化は間違いなく、自分にとっては、夢のような車が、20パーセント引きのバーゲンとなって、手を伸ばせば届くところにやってきてしまった。

CO2削減の被害車の我が「日産サニー」 、僕を長い間、どこの誰よりもずっと身近に支えてくれ、大きな希望をずっと、今、ここまで確実に運んできてくれた、何より激動の年月を共に刻んでくれた、忠実なクルマ、と決別する日が近づいてきてしまった。

11年間、150,000キロメートル。3カ国のナンバープレートを所得した。踏み入れた国は、オーストリア、ドイツ、ハンガリー、イタリア、スロヴァキア、ルーマニア、スペイン、フランス、ポルトガルの9つの国。

都市でいえばウイーン、サルツブルグ、リンツ、クラーゲンフルト、アイゼンシュタット、ブラティスラヴァ、ブダペスト、オラデア、インスブルック、ボルツァーノ、メラノ、ヴェロナ、ヴェネチア、ミュンヘン、ケルン、カイザースラウテルン、デュッセルドルフ、パリ、ボルドー、ポルト、リスボン、セヴィリャ、エヴォラ、コインブラ、ラ・コルーニャ。もちろん主要都市ばかりで、全然書き足りない。この日産サニーなしで、ここまで頻繁に行動できたかどうか、全く想像できない。どれだけのたくさんの思い出と、仕事への情熱が詰まっているか、計り知れない。

思い起こせば、かつて、自分と同じくらいの年齢の、フォルクスヴァ―ゲンに乗っていた人間にとっては、4年落ちの日産サニーは、夢のような機械だった。いろいろな電動ボタンが付いていて、ハンドルを握れば、まさに「コックピット」に自分がいる感覚になった。フォルクスヴァ―ゲンでは、ほぼすべて「手動」だったのだから。モーターの冷却器が、「風式」でなく「水式」であることも、期待通りの進化だった。

その夢のような機械は、同時に、自分の将来への希望を詰め込んだ乗り物だった。

今、新たな段落を迎えようとしている時期に、間もなくやってくるC4には、僕たちの明るい希望をしっかり乗せたいと思う。

「電動」は進化して、さまざまなところが「自動」になった。なぜワイパーや、ヘッドライトが自動で働いてくれるのだろうか。駐車の際は、勝手に警告してくれるので、周りの車にぶつける心配がない。かつて、駐車行為は運転技術のレベルを誇示する、いい機会ではなかったか。高速では右足を硬直させ続けなくても、希望の速度でずっと一定に走ってくれる。携帯電話は車内の5つのスピーカーに空間接続され大音量で再生してくれるので、着信すれば、何の動作もなしに、勝手にしゃべればいいだけになった。クラクションはなぜ2種類もあるのだろうか。

走りは静かで、快速で、アスファルトの上に4輪を転がしている感覚がない。ディーゼルで、燃費も排気量も少なく、今現在の最先端の科学技術に接しているようで、本当に心から魅了されてしまった。

C4のファンになって、都市間を移動するだけではなく、走行時間中に、最新技術をいつどこで確実に使えこなせるか、に興味が移ってしまった。雨も降ってほしいし、駐車もしてみたいし、ディーセル給油して得した気分になってみたい。とにかく、クルマに乗らないと使えないわけで、しばらくは乗車を避けて歩く、ということにはならなそう。

本当のCO2削減対策は、人が狭い行動範囲で、いい生活ができる社会を作ることだから、クルマに関しては、美しく、低コストで長持ちしそうなものを選んで、エコ運転などは考えず、快適にしっかり走るべき、と思う。160キロしか走れない電気自動車には、今のところ全然興味がわかない。




2009年7月15日水曜日

マルベラ

7月も半ばに入り、例年なら休暇に入るところだが、今年はリスボンにとどまることになりそう。去年の今頃はポルトガル北部のエスポゼンデという田舎町で、10日間仕事も兼ねて滞在したが、強烈な印象を与えてくれたのが、当地にあるの「マルベラ」Marbelaカフェ。世界最高級のケーキ、チョコレートを作っているところで、オリジナリティ、繊細さ、上品な色彩感、いろいろ試してみたが、驚きの一言。疑いなく、最高のもの。今まで、ウイーンのすべての伝統的カフェをはじめ、パリやリヨン、ミラノ、日本のおいしいといわれるところでいろいろ体験したが、この「マルベラ」はそれと品質的に同等、またはそれ以上のレベル、値段や家庭的な雰囲気を考えれば、全く比較対象にならないと思った。いつも混んではいるが、待たされることがないのがいい。

2009年7月9日木曜日

大学の仕事

エヴォラ大学での今年度の仕事がほぼ終わった。3週間足らずで、フランクのヴァイオリンソナタ、チャイコフスキー、プロコフィエフのヴァイオリンコンチェルト、ヒンデミットのトランペットソナタ、などという大曲をはじめ、結果的に20人近くの生徒、30曲をこなした。今回は自分自身のプレゼンテーションの意味合いが少なからずあり、また4、5月、仕事していなかった時間を取り戻すためもあって、こういう自己記録的な仕事になった。契約は6月に入ってやっと提示され、給料は1月より未払い。支払い手続きの書類を見ると、あらゆる人たちのサインで書面いっぱいにぎっしり詰まっている。そういうお偉い方々一人ひとりが、何日間、何週間不在だったりするだろうから、こういう手続きはいつまでたっても終わらないのは目に見えている。あげくのはて、そういう書類を運搬する係、その人が徒歩?でエヴォラ大学の諸校舎をめぐっているというのだから、そのおじさんがちゃんと仕事していないと、どうなるかは目に見えている。例えば、距離にして1キロくらいの音楽科から大学本社への運搬は、2週間かかっていた。各事務の人たちは慣れ切ってしまっているのか、みな平気な顔をして話してくれる。

2009年6月19日金曜日

ヴェルテルの悩み=仕事の意味

息苦しくて、収穫も多かった「ヴェルテル」も終わってはや1週間。仲良くなった「仕事仲間」とは、とりあえずこれでお別れ。わが友、バリトン歌手フアン・ホセ・ナヴァロとの日曜日の朝の稽古は、忘れないようにしたい。1カ月ぶりに再開の劇場と比べて、コルーニャでは、みなプライドにかけて、理想像を追っているのが目に見えていた。そういう追い求めているものが、自分自身にも存在しているのが、今回でよくわかった。

リスボンは、35度を楽に越す異常な暑さで、日本の夏を久々に思い出した。
ブログの更新は、これから先日届いた新しいミニ・コンピュータで。

2009年6月4日木曜日

巨匠の仕事

グラハム・ヴィック氏は世界に名だたる演出家。一瞬近づきがたい印象があるが、いざ仕事を始めると、ものすごく傲慢に見えて、誰に対してもすごい謙虚な姿勢で会話できる、不思議な人だ。演出にはあまり興味持たないことにしているが、人はアリのようにてきぱき動くし、作品は完璧に把握しているし、実に鮮やかな巨匠の仕事を見のがせるわけがない。まったく意外なことに、音楽に対する愛情、理解の深さは尋常でない。若い歌手には育てようという姿勢があり、ほぼ毎日なんと歌のレッスン。それも納得できる内容。ベテラン歌手に対しては、人生最高の理解者のように接する。演出は奇抜だが明確で、たいていは「そこらでよく見かける光景」に終始する。時々考え込む瞬間があるが、いったい何が頭の中を駆け巡っているのであろうか。ちなみに、結婚指輪?を小指にはめている。

2009年6月1日月曜日

ザイーデ

昨日はずっと晴れていて、暖かくて心地よい一日だったが、夜は必需のオペラの鑑賞。コロン劇場にて未完の「ザイーデ」、未完結編。2,3の美しいアリア。ナレーションが大活躍。トルコから帰ってきたばかりの目には、スルタン+ハレムの表現は異常に見える。トルコの旧異文化は、別世界の、今も昔もはるかに遠い存在なんでしょう。小さい劇場で、そんなに気張る必要はないけど、声量の乏しい人は、こういうところでもやっぱりさびしい。スルタン役のテノールのように、体格だけでキャスト決めているのでは?

2009年5月30日土曜日

不慮の事故

ここ数日のコルーニャは晴天&気温も高い。でも今夜10時に舞台稽古が終わると、霧がかかっていて肌寒く、明日の日曜の休日に限って雨が降る気配。練習は順調なのかわからないが、スター演出家の出現で、歌手の面々には緊張感が見え、練習後には愚痴も多くなってきた。
今日はずっと、舞台稽古の直前の事故が脳裏から離れなかった。リスボンの元同僚で事故の直後は、彼女ということがわからないくらいの恐ろしい叫び声が、ホールにずっと響いた。救急車が来てスキー選手の事故のような応急手当で、ひざを大怪我したもよう。彼女の不運は実に残念だが、舞台上はまさに工事現場そのものなので、いつわが身の上に起こるかわからない。実際、事故の3,4分前まで彼女と話していたのだし。