2013年12月13日金曜日
「ウリジナル」の話
韓国人と話をしたことのある人は、遅かれ早かれ「韓国起源」の話に遭遇するはず。
自分にとっては雑談の中で話を弾ませるネタのような感覚だが、どうやらかなり真剣な話題にもなりうるらしい。
韓国起源のテーマがとても重要な人にとっては、領土問題になると特にややこしくなるのは、目に見えている。
彼らがそのような話をする時は、例えばユダヤ人やイエスキリストは韓国人だったとかという、聞く側の、非韓国人にとってはとても信じ難い話も真剣にし、全く冗談抜きである。
ある日、子供を連れて公園で遊んでいたら、向かいのベビーショップのオーナーというおばちゃんから声をかけられた。
普通の世間話であったが、ひょんなことからドラえもんの話になり、急に「ドラえもんは韓国の作品だ」と話し始めた。
彼女は見た目からして100%のポルトガル人であるが、韓国人と同じように真剣に話していた。
こういう時、どういう反応をすべきなのか。
おばちゃんに対して、真っ向から反論すべきか。
自分にとってドラえもんは当然日本のものであるが、本当に信じている人に何を言っても仕方が無い、と思い黙って聞いていた。
ドラえもんがどうとかは、はっきり言ってどうでもいいことであるが、そうでない人もいるはず。
おばちゃんが次回、日本人に向かって同じことを話す時、どういう反論を受けるのか。
おばちゃんが心の底から信じるように吹聴した韓国人も、あっぱれである。
2013年11月12日火曜日
指揮のマスタークラス
エヴォラでの仕事も5年目になり、そろそろクラリネットのクラスの伴奏以外にも、意義のある仕事が欲しい、というのが正直な気持ち。
クラリネットとの仕事はたまたまそうなっただけで、何も特別意図があって自分から選んだ仕事ではない。
大学での自分の居場所は、そこしかない、ということだ。
ふと思い立って、指揮のマスタークラスのプレゼンテーションをつくって、いろいろな大学に提出することにした。
基本的な指揮のテクニックは自分に教えられる技量はあるかどうかなどわからないが、なにせ長い間、習ってきた身である。
少なくとも初期の、指揮の第一歩を踏み出せるような、講習会ならできるのではないか。指揮を習いたい、と音楽の学生なら一度は思うことだから、受講者の数に困ることはないはずだ。
指揮を教える人も、この地ポルトガルにはそういないはず。
勤め先のエヴォラから早速いい返事をもらって、エヴォラの音楽フェスティバルの一環として取り入れてもらえた。
課題に誰もが知っているような曲、初心者には少々難しいような曲も計7曲用意して、3時間のプログラムでのぞんだ。
自分が学生のときはまずなかった、楽譜をプロジェクターを使って映したり、CDから実際の演奏の例も、アップルを活用して用意した。
期待通り、受講者はこの大学の規模にしては上々の15人ほど集まり、3時間では到底終われないくらいの密度で、課題の曲は半分しか消化できなかったが、特に大きな問題も発生せずにできたと思う。
これから受講者に希望を出してもらって、大学のカリキュラムに組み入れてもらえれば自分のクラスを持てるようになるのだが。
そう願いたいところである。
2013年11月5日火曜日
ウィーンの国立オペラ
ウィーンのオペラ、国立歌劇場はまさに自分の「家」であった。
ウィーンに来たばかりの頃は、とにかく時間を持て余していたので、できる限りオペラに通い、20シリングだったかの立ち見席で本物のウィーンフィルの響きに接した。
カレーラスやドミンゴが出演する演目は、立ち見席でも1晩並ばないといけなかったので聴けなかったが、たいていのオペラのレパートリーと呼ばれるものは観たはずである。
89年だったか、日本の歌舞伎座がヨーロッパツアーをしていて、ウィーンでも1週間公演をした。そこで同時翻訳のためのミニラジオを整理するような、雑用のアルバイトの話があって、やることになった。当時17歳、生まれて初めての、お金をもらうアルバイトである。
オペラ座の地下かなんかの一室で、6、7人のグループで何千かのイヤホンの整理をひとつひとつした。オーストリア人も混じった、雑談ばかりのかなり楽しい時間だった記憶がある。
ひまができると、オペラの中を歩いて回った。客席にいったり、あらゆるところを歩き回った。公演もただで見せてもらったので、生まれて初めて、歌舞伎を見せてもらった。公演が終わると、スタッフの一員として舞台裏に行けた。仲間について歩いて、舞台上を横切ったら小道具の人に怒鳴られた。
舞台上は、役者しか足を踏み入れてはいけない神聖な場所である、と。
びっくりして、なんてことをしてしまったんだ、と恥ずかしかったが、このことは今でも忘れなく、舞台上を歩くたびに思い出される出来事だ。 ヨーロッパのオペラにそういうしきたりがあるとは聞いたことがないが、すばらしい心だと思う。
ウィーンのオペラ座には、それからオペラを勉強することになってからまた頻繁に通いだしたが、結局スタッフとして一度も働くことなくしてウィーンを去ってしまった。
自分にとって、オペラとはウィーンのオペラ座のことである。オペラのレパートリーとは、ウィーンでやっていたものであり、歌手の基準はウィーンで聴いてきたものである。
オーケストラも、ウィーンで聴いてきたものが、自分の中で普通のもの、あたりまえのものである。本当は、ウィーンのこのオペラ座で人生の仕事をするのが夢、なのかもしれない。
2013年10月31日木曜日
Cappello di paglia + la fille du régiment
さて、我がサオ・カルロス劇場では、夏休み明けから上記の2題目の上演があった。
一つ目のオペラ、麦わら帽子と訳すのだろうか、ニーノ・ロッタのオペレッタ風の作品である。
あくまで古典的な作風ながら、軽いタッチで書かれたオペラで、聴きやすい、一般聴衆の受けがいい演目ではないだろうか。
2つ目は、言わずと知れた巨匠ドニゼッティのオペラで、連帯の娘と訳される、あのパヴァロッティが何度も出てくる高音のドを見事に歌ったことで知られているはずだ。
いづれにしても、国全体の財政が破綻している状態で、存続すら危ぶまれている中での上演である。不評の場合は閉鎖、ということにはまさかなるまいが、
上演する側にはそれくらいの覚悟でやるべきだろう。
そういう中、来年から、ピナモンティ氏が劇場監督として復帰することになった。
彼は、何を隠そう自分がサオ・カルロス劇場に呼ばれ赴任することになった、張本人である。
2004年、電話で何度も話をし交渉をした。交渉と言っても、自分にとっては本当に契約できるのかの確認のみであったことを思い出す。 実際仕事が始まると、自分にコンサートの指揮のような大きな仕事は与えられなかった。さて、今回はどうなるのであろうか。 今まで通り、スタッフの一員としての仕事が続くのか、より大きな仕事が回ってくるのだろうか、それとももしかして。。。
2013年9月23日月曜日
Racismとステレオタイプ
ZONという、ポルトガル大手のインターネットサービス業者が変な広告を出した。
日本人の俳優を使って、ZON社のテクノロジーがいかに優れているか、というコメディめいた宣伝である。
ヨーロッパにおける日本人のステレオタイプは、メガネ、カメラ、チビに笑みを浮かべるといったところだろうが、
ここではスーツ姿の髪をきちんと整えた、企業のおっさんというイメージだ。
そしてZONの製品がどれだけ優れているかという会話を日本語でするコマーシャルなのだが、
広告ポスターには、"aplovado""impledível"といった、rとlを置き換えられた、間違った綴りの文字が踊っているのである…。
日本人は"r"を発音できない、というのはヨーロッパやアメリカでの通説で、こういう類の冗談はどこでもされるものだ。
しかし、これが宣伝に使われるとなると、問題があるように思える。
新たな顧客を得るのに、特定の民族、文化を少々のものとはいえ、小馬鹿にして注目を得ようというのは、どうか。
racismを日本語では人種差別、という訳になるが、ニュアンスは複雑で少なくともヨーロッパにおけるracismは、
人種差別という行為、意識よりもっと深いものがあるような気がする。
自分は、育った文化からヨーロッパの歴史に属していないので、どこからどこまでがracismと区分されるのか、よくわからない。
しかし、このZONの広告は、racismと呼べるのであろうか。
SOSRacismoという、この問題についての専門であろう団体に聞いて見たところ、racismではない、という回答がきて、少々びっくりさせられた。
なぜそうでないのか、はっきりとした理由はあげられていなかった。
もしかして、ヨーロッパにおけるracismの感覚は、アジア人を対象にするには含まれていないのかもしれない。
アフリカ出身者、ユダヤ人、ゲイなのどステレオタイプをあげれば、差別に直結するものだと思うのだが。
2013年8月2日金曜日
セイア(seia)
今年もまた、ポルトガル中部の山の方で休暇を取ることにした。
今回で山とは何か、幼い息子にとって本格的に体験できることになった。
山は素晴らしい眺めで、村は数多くある。たいていの村は古代ローマ時代から存在し、遺跡も立派に残っている。
山間部には小川が何カ所に流れ、周辺の自然は素晴らしい。それは虚構ではない、人の文化や感情を超えた、異次元のもので、それに接することができるのは実に幸せだ。
観光については、異国人としての生活が長い自分には、どういう視点で人に伝えたらいいかわからないし、普遍的な歴史の知識も恥ずかしいくらい乏しい。自分には、旅行先では人と、当地の食事に目が行くばかりである。
この時期、夏に休暇には国内の人口より多いと言われる、国外在住のポルトガル人の帰省が目立つ。戦後、特に旧植民地の独立戦争後から始まったと言われる、出稼ぎは主にルクセンブルグ、フランス、ドイツ、スイスを目的地に、ヨーロッパではごく普通に職業として成り立つ一般家庭、または企業の掃除人、レストラン勤務などの、いわゆる底辺の職業を自ら選んで、本国の平均収入の何倍も稼いだ。
その第一世代、ブラジル式にいえば「一世」は、年金受領の年齢に達し、祖国へ戻って、立派な家を立て大きな車を乗り回す、といった夢を実現させている。それは小さな出世物語であり、未だにヨーロッパの最貧国の一つに数えられるポルトガルの国に対して誇示する、成金物語である。彼らの館は、何処かにそういう表現があるので、自分の目にもすぐ区別できる。
その息子たち、「二世」は、小さい子供「三世」を連れ、2000、3000キロの距離をわざわざメルセデスに乗って親の館に帰ってくる。 この周辺のレストランは、主にこういうemigrante(移民)といわれる、在外ポルトガル人を客にしている。要するに、伝統的メニューでありながら、中央ヨーロッパの趣味を取り入れ、そして誇り高き移民のエゴを充たすサービスをしないといけない。 それは自分にとっては大変な好都合である。 セイアの真ん中にある、borgesというレストランはそういった要素を充たす、いいレストランであった。 食べたのは、オーストリアでよく食べた、stelzeに似た豚肉料理。ポルトガル料理といっても違和感のない、好感の持てるメインディッシュであった。 聞くところによると、このborgesのオーナーは元フランス在住のポルトガル移民であるという。 なるほど。 レストラン内は、非常に上品な装飾で、サービスも本格的である。いつ行ってもまず間違えのないレベルだろう。
今夏の滞在先はセイアseiaという、serra da estrelaという国有自然保護地のある山岳地区にある小さなまちで、そこからは車で1000、2000メートル級の山の村へ30分以内で行ける。
もともと、山の村には憧れていることもあるが、3歳半になる息子は普段、週末に どこにいく? という問いに「山(自宅は海から徒歩5分にある)」と決まって答える。
今回で山とは何か、幼い息子にとって本格的に体験できることになった。
山は素晴らしい眺めで、村は数多くある。たいていの村は古代ローマ時代から存在し、遺跡も立派に残っている。
山間部には小川が何カ所に流れ、周辺の自然は素晴らしい。それは虚構ではない、人の文化や感情を超えた、異次元のもので、それに接することができるのは実に幸せだ。
観光については、異国人としての生活が長い自分には、どういう視点で人に伝えたらいいかわからないし、普遍的な歴史の知識も恥ずかしいくらい乏しい。自分には、旅行先では人と、当地の食事に目が行くばかりである。
この時期、夏に休暇には国内の人口より多いと言われる、国外在住のポルトガル人の帰省が目立つ。戦後、特に旧植民地の独立戦争後から始まったと言われる、出稼ぎは主にルクセンブルグ、フランス、ドイツ、スイスを目的地に、ヨーロッパではごく普通に職業として成り立つ一般家庭、または企業の掃除人、レストラン勤務などの、いわゆる底辺の職業を自ら選んで、本国の平均収入の何倍も稼いだ。
その第一世代、ブラジル式にいえば「一世」は、年金受領の年齢に達し、祖国へ戻って、立派な家を立て大きな車を乗り回す、といった夢を実現させている。それは小さな出世物語であり、未だにヨーロッパの最貧国の一つに数えられるポルトガルの国に対して誇示する、成金物語である。彼らの館は、何処かにそういう表現があるので、自分の目にもすぐ区別できる。
その息子たち、「二世」は、小さい子供「三世」を連れ、2000、3000キロの距離をわざわざメルセデスに乗って親の館に帰ってくる。 この周辺のレストランは、主にこういうemigrante(移民)といわれる、在外ポルトガル人を客にしている。要するに、伝統的メニューでありながら、中央ヨーロッパの趣味を取り入れ、そして誇り高き移民のエゴを充たすサービスをしないといけない。 それは自分にとっては大変な好都合である。 セイアの真ん中にある、borgesというレストランはそういった要素を充たす、いいレストランであった。 食べたのは、オーストリアでよく食べた、stelzeに似た豚肉料理。ポルトガル料理といっても違和感のない、好感の持てるメインディッシュであった。 聞くところによると、このborgesのオーナーは元フランス在住のポルトガル移民であるという。 なるほど。 レストラン内は、非常に上品な装飾で、サービスも本格的である。いつ行ってもまず間違えのないレベルだろう。
2013年7月23日火曜日
バイク no2
自宅のあるオエイラス市から、サオ・カルロス劇場のあるリスボンのシアド区までは20km、時間にして車では渋滞の中1時間10分、カスカイス線の電車の利用では40分、そして今シーズン中利用した125ccのスクーターでは30分。
台湾製のスクーターは、昼夜問わず、暑い日にも寒い日にも、風の強い日にも、大雨小雨の日にも走り続け、結局故障もなく皆勤した。大型のスクーターで、やや重い印象はあったが走りは良く、渋滞の中でも例の車と車の間を通り抜ける、違反であるが警察には停められないという、走行も完璧にこなせた。もちろん高速も走ったし、橋も渡った。市内の駐車(バイクなので駐輪か?)の問題も全くなかった。
一年で9000キロ走って、問題も起こさず事故になりそうな状況もなく、完全に合格のはずがクビになった。
バイクは人ではないが、もし話ができるのであれば、なぜクビになったが、全く納得がいかないところだろう。
スクーターはあまりに運転がたやすくできて、つまらなくなってきたのだ。
自動車免許で運転可能な125ccのクラスでも、ギヤチェンジが必要な本格的なバイクがある。幸いにも、スクーターを売りに出したら一週間足らずで売れたので、新たにそのお金でバイクを買うことにした。中古にいい値段のがあり、さらに新たにヘルメットを買えるくらいのお釣りが出た。
早速買ったホンダのバイクを乗ってみると、ギヤチェンジの感覚に慣れるまで、なかなかスムーズにいかない。そもそもスクーターが簡単すぎて飽きていたので、今はそこらのドライブだけでとても楽しい。
台湾製のスクーターは、昼夜問わず、暑い日にも寒い日にも、風の強い日にも、大雨小雨の日にも走り続け、結局故障もなく皆勤した。大型のスクーターで、やや重い印象はあったが走りは良く、渋滞の中でも例の車と車の間を通り抜ける、違反であるが警察には停められないという、走行も完璧にこなせた。もちろん高速も走ったし、橋も渡った。市内の駐車(バイクなので駐輪か?)の問題も全くなかった。
一年で9000キロ走って、問題も起こさず事故になりそうな状況もなく、完全に合格のはずがクビになった。
バイクは人ではないが、もし話ができるのであれば、なぜクビになったが、全く納得がいかないところだろう。
スクーターはあまりに運転がたやすくできて、つまらなくなってきたのだ。
自動車免許で運転可能な125ccのクラスでも、ギヤチェンジが必要な本格的なバイクがある。幸いにも、スクーターを売りに出したら一週間足らずで売れたので、新たにそのお金でバイクを買うことにした。中古にいい値段のがあり、さらに新たにヘルメットを買えるくらいのお釣りが出た。
早速買ったホンダのバイクを乗ってみると、ギヤチェンジの感覚に慣れるまで、なかなかスムーズにいかない。そもそもスクーターが簡単すぎて飽きていたので、今はそこらのドライブだけでとても楽しい。
バイクの世界に「はまる」と抜けられないらしいが、この調子だとバイクの免許も必要になってくるかもしれない。
2013年7月4日木曜日
カーシート
3歳半になる息子は、今までクルマに乗るときには、常に後ろ向きのベビーシートを使っていた。
ポルトガルはどうかといえば、1歳を過ぎたあたりから普通は前向きのシートに座らせ、普通の店ではリアフェイスシートは12ヶ月までで、それより大きいのは見当たらない。
それは6ヶ月になる頃に使い始めたので、それからずっと、日々の通学に使い、
シートに乗るときも、シートベルトをやっと大人と同じように締めるのも、うれしそうだった。
これで息子もまた、ひとつ大きくなった気がする。
というのは、スエーデンのサイト(carseat.seやkindseat.com)でベビーシートの安全性について書かれてあり、少なくとも4歳までは、進行方向の後ろ向きに設置できるベビーシート使うべき、とあったからだ。
そこには、後ろ向きに座るシート(リアファイス)の長点がヴィデオ付きで説明されてある。
正面衝突などでの事故時、前向きに座る子供は、4歳くらいまで首がしっかりしないので、
事故のインパクトで首を剥離骨折などをするそうである。
実際に事故にあってしまった体験談や、ダミーを使ったシミュレーションがサイト内で見れた。
なぜスエーデンかといえば、リアフェイスのシートが推奨され、数多く販売されかなり普及しているそうだ。
ポルトガルはどうかといえば、1歳を過ぎたあたりから普通は前向きのシートに座らせ、普通の店ではリアフェイスシートは12ヶ月までで、それより大きいのは見当たらない。
事故は起こらなければいいに越したことはないのだが、そこはいつ、何が起こるかわからない人生である。
後悔はしたくない、の一心でそのサイトでネット販売されていた、6歳、25キロまで使えるというリアフェイスのシートを買った。
決して安い買い物ではなかった。
それは6ヶ月になる頃に使い始めたので、それからずっと、日々の通学に使い、
長い旅行に出たり、そこで食べたり飲んだり、車酔いして吐いたりして、
何度もカバーを外して洗濯したり、汚れをとったりした。
黒のシートカバーの色は洗濯や日光で薄れてきた。
このように、息子の成長と共にしてきたのである。
しかし、ここ最近になって大きな問題が起きてきた。シートベルトを止める例の金具のシステムがなぜか壊れて、
プラスティックのカバーが外れて、しっかり閉じなくなってきたのだ。
息子が思い切り引っ張ったりすると、はずれる。
実際に事故に遭遇してしまったときは、そのような壊れた状態では安全性も何も、元も子もないではないか。
早速問い合わせたcarseat.seによると、その金具の部分は、注文で100ユーロはかかる、そのうえ品切れだ、という。
このシートは4歳まで使う予定であったが、このようにベルトが何度も外れてしまう状態を見て、
ついに前向きのシートに変える決心をした。
今日、学校から帰ってくた息子に 新しいいす、ためしてみるか? と聞くと
sim,quero!(パパの日本語は理解するが、返事はポルトガル語で返ってくる)
というので食事後、ママとドライブに出た。
シートに乗るときも、シートベルトをやっと大人と同じように締めるのも、うれしそうだった。
ようやく、進行方向に目を向けながら乗れて、第一印象は はやい! だった。
これで息子もまた、ひとつ大きくなった気がする。
2013年6月13日木曜日
有言実行
自分は高校に一年しか行っていないが、その当時同級生でいろいろ話し相手だった友達が今、司法書士として事務所を開いている。
最近になって、フェイスブックを通じてコンタクトを取れるようになったのだが、彼はブログを毎日書くことを今年の目標としている。
それは、個人事務所を持つ彼自身の宣伝目的や、新たな人脈を得るなどのメリットがある、という。
あと最近、彼が書いていたことは、金融業界の人物の生き方の一つとして、自分の理念、考え、目標などをとにかく周りの人間に直接伝え、ブログにさえもそのことを書く。そうやって、いわるゆ「有言実行」で徐々にそれを実現させていく、という。
「今日、どこで何を食べた」「何処かに行ってきた」などというブログは誰に対しても影響力がない、ということで書かないそうである。
自分自身、いままで人生でやりたいことは誰かに伝えることもなく、ただ頭の中で念じてきた。自分の生活の糧になっている、人生で唯一打ち込めてきたこと、音楽では、自分の技術を磨くことばかり考えてきた。それは自分の感覚の中だけで発展してきたもので、他人と分かち合うこともなく、今まできた。
これからも、さらに技術を磨いて行きたい。技術とは何か、といえば、指揮のテクニックが一番。実は最近も自分の中では大きな、革新的なことを研究していた。あとは自分に元々欠けている、コミュニケーション能力、といった人と人との関係をどんどん向上させて行きたい。
あと近いうちに実現して欲しいのは、壊滅的状況のイスタンブールのオペラの歌手をリスボンに呼ぶこと。オーケストラとのコンサートをまた実現させること。指揮のマスタークラスを多くの大学で開催すること。マルティニクで再度仕事すること。合唱監督としての仕事をすること。アンゴラでの企画を実現させること。また一度は日本で、指揮者として仕事してみたい。
自分には夢は小さいものから大きいのまで、まだまだ尽きない。
これから、金融業界の人たちのように有言実行で生きてみようか。
2013年6月10日月曜日
グルベンキアンのオテロ
グルベンキアン財団は、ここポルトガルの文化界においては欠かすことのできない私立の財団である。グルベンキアンのコンサートシーズンは世界の名だたる音楽家が呼ばれており、この国ではかなりのいいレベルのマーケティングによって新聞の批評も、一般的にも悪くいう人はいない。
在ポルトガル音楽家にとってグルベンキアンオーケストラは、憧れの存在であり、何かと基準になるものである。
オーケストラはヨーロッパではトップクラスに入るという評判である。少なくとも、正団員の給料はヨーロッパのトップクラスである。合唱団は、いわゆるセミプロで、団員の平均年齢は低い。
先日、財政難でオペラ上演ができないサオ・カルロスオペラ座にとってかわり、グルベンキアンオーケストラによって、コンサート形式ながらヴェルディのオテロが上演された。自分にとってグルベンキアンは近くて遠い存在で、なかなか足を運ぶ機会に恵まれなかったが、今回は生徒の一人に誘われて運良く公演に立ち会うことができた。
普段の評判から、どんなに素晴らしいオテロが聴けるかと期待していたが、なんてことはない平凡な上演であった。確かに楽譜上のオテロを好意的に実現化しようとした演奏ではあったが、ここはオペラ伝統のど真ん中にある作曲家、ヴェルディである。普段、シンフォニックのレパートリーを中心に活躍しているグルベンキアンオーケストラにとっては新鮮であったかもしれないが、ヴェルディのオテロはオペラ界にとってはエース級の、オペラのレパートリーでは第一列に並ぶ、名曲中の名曲である。オーケストラも合唱団も、もしくは指揮の先生も、経験不足を披露するだけの公演になってしまった。
一体何が原因なのか、普通に聴きなれた、誰もがイメージするヴェルディの響きではなかった。あの、暗い響き、ドラマチックな重量感、コントラストとなる宗教的な、敬虔な教会音楽の響き 女性的なやわらかな響き、軽い、イタリアの風景が香るような響き、そういったものが半分も聴けなかったように思える。
歌手陣は、旧ソ連出身の両主役は、決して悪くはなかった。両者とも、かなり歌い慣れている役であったのはすぐわかった。声量も、音楽的にも良い部類に入るが、オテロ役は高音域のフレーズは中音域のと同じようなバイタリティーで歌えない、という欠陥があり、デスデモナ役は、技術的に未熟な歌手ではあるが、充分に「心」を歌える歌手ではあった。
合唱団は、短期間で学んだものと思われる。やはり、ヴェルディのオペラになると、身体にメロディーを染み込ませるくらい、ヴェルディの旋律が自分の言葉にならないといけない。声も、このレパートリーの合わせて一ランク上に実力が上がるくらい、コンディションを整えていかないといけない。これらはやはり、いくら譜面を見ながらでのコンサート形式とはいえ、何ヶ月もかけてじっくり熟成していく必要があっただろう。
オーケストラは、メンバーは国際的な顔ぶれだが、当然ポルトガル人出身の演奏家もいるはずである。しかし、このオーケストラはあの独特な、明るく熱い、ラテンの響きが全くしない。なぜだろう。ヴェルディの旋律をまるでコープランドのフレーズと変わらないような演奏をする。
オテロは、3時間以上の時間を要する、大きなオペラだが、いわゆる「正しいテンポ」で演奏されたフレーズは少なかった印象だ。オーケストラの経験不足は承知のうえとしても、指揮者先生の見解なのか、または近代的なホールの音響のせいなのか、自分にとってはヴェルディの響きではなかった。
自分はオペラ座専属の音楽家であるが、経済的危機にあるサオ・カルロス劇場は捨てたものではない、と感じた。
新聞の批評家や一部のお客さんはもうここ数年痛烈にサオ・カルロスの上演を批判するが、それは政治の盾として使われる感のある、国立劇場を通じて政治家批判しているようにしか思えなくなってきた。何事も、国の政治家がすることは納得いかない、というのがポルトガルの国民性である。
しかし、このグルベンキアンの上演を聴く限り、一音楽家の耳にとっては、サオ・カルロス劇場の方が上質である。
2013年5月20日月曜日
小学校時代、奪われた子どものこころ。
幼少の頃の思い出だが、通った大阪の小学校はひどいところであった。
学校には当然しきたりや、習慣などがあったが、不可解なものが多かった。当時、なぜこういうことをしないといけないのだろう、という疑問がかなりあった。
親や先生に質問をぶつけても、大人になればわかる、という答えで片付けられたものである。
大人になった今、思い返すことがあるが、実に無意味なことを強要させられたものである。
これは、果たして一般的なものであるのか知らないが、自分の頭の中からぜひとも去って欲しい、屈辱的な体験であった。
自分はこういう疑問に未だに答えられないでいる。要するに、通っていた小学校は、ひどいところであった、他の学校だったらまだマシだっただろう、という結論で済ませている。
毎朝、子供は登校したら校庭に向かわなければいけない。朝礼、という不思議な、今どう考えても意味がわからない、儀式じみたものがある。
朝礼では、一体何をするところであろうか。
朝礼の始まりには行進曲の音楽がかかり、足と手を振ってその場で音楽に合わせて足踏みをしないといけない。それも、前に朝礼台と言われる高いところに立って監視している先生の、「1、2、1、2」の怒鳴り声に合わせて、正確に足踏みをしないといけない。「1」とは、左足を地面に下ろす瞬間の号令、「2」は右足。手は、指を閉じ伸ばして、腕はまっすぐ90度の角度に振らないといけない。こういったことは、かなり力をいれて教えられ、先生方はかなり真剣に、模範例を見せていた。できない子供やふざけている者はかなり怒られた。
いつも同じ音楽の行進曲が終わると、「休め、気をつけ、礼」と怒鳴られ、当然声に合わせ、皆同時に同じ動きをしないといけない。
「礼」はともかく、「気をつけ」とは何なのだろう。なぜ「休め」が間にはいるのだろうか。
旧軍隊のしきたり、ということなんだろうが、日本は終戦後そもそも戦闘力を放棄したはずではなかったか。
子供なら当然するような質問に答えは一切なく、この動きも、散々繰り返し説明を受け、ただただ身につけていかないといけなかった。
そして列は、背の小さいものから順番に縦に並ぶ。自分は常に、クラスの五本の指に入る、背の低い子であった。両手を伸ばして、前のものに両肩に触れるか触れないかの距離で合わせ、それもずれないように立たないといけなかった。繰り返すが、これらのことをできないものはこっぴどく怒られていた。
自分は、怒られまいと、目立った動きをしまいとかなり気をつけていた。自分が今でもやろうと思えばできるこれらの動き、はずかしべき旧軍隊か何か知らないが、号令に対する動きは、怒られるのがいやで結局身についてしまったものである。
朝礼は、そんな行進曲だけで終わるものではなく、校長先生の話が始まる。それは、単なる雑談だったように思う。強かった南海が今なぜ弱くなってしまったか、程度の話を覚えている。
子ども側にはそういう朝礼を拒否する権利などあるわけない。これは強要であって、それも教育上好ましいものでも、必要なものでもないものである。小学生のような、幼い子を前にしていったい何をしているのだろうか。
小学校も年長になると、子供感覚でも不可解なことが増えてきた。学校は私服だったが、冬でも半ズボンを履かないといけない、という暗黙の了解があった。それが、子供にふさわしい、子どもらしい格好という説明があった。
そして、ある時、体育会系の一先生による、学校全体で行われた「なわとび」がさかんに行われた。
これも、当然子ども側には拒否権はない。いろいろな技を磨き、検定試験を受けて、ポイントを稼いで皆という皆、最高点「名人」を目指して練習する。
自分は当然、練習に励み、「三重跳び5回」というのをこなし、名人になった。そして検定委員というものになったが、楽しみしていた検定日にはそれに必要な色付きハチマキを何処かに忘れてしまい、例の体育会先生にこっぴどく怒られて資格を剥奪されてしまった。
今一社会人として生活していて、これらの体験ははっきり言ってトラウマである。行進曲に合わせて足踏みをすることも、「気をつけ」を上手にすることも、なわとびを披露することもない。学校は「気をつけ、礼」が苦痛であったし、行進曲にあわせて手を振るのは、当時子供の感覚でも屈辱的であった。知りたいのは、「なぜ」これらのことをしないといけなかったのだろうか。できれば、幼年時代にはこういうことから避けて通りたかった。
2013年5月19日日曜日
Quarta Feira, a taberna, エヴォラ
そろそろ三歳4ヶ月になる息子は、ここ最近になって目に見える変化が出てきた。
オムツは、保育園のしっかりした管理のおかげか、ほぼ必要なくなってきた。
車の中では、2時間乗っても酔ったりして吐かなくなった。
一泊の小さい旅行先でも、すぐ熱を出さなくなった。
そして、親以外の大人と、親の手助けなしでコミュニケーションを取れるようになってきた。自分から質問したり、会話を始めたりする。
レストランでは自分から飲み物の注文をして、親をびっくりさせる。
そういうわけで、先日、嫁の連日の休暇を利用してエヴォラ市まで、自分の仕事を兼ねて家族揃って行ってきた。
夜に行って来たレストランは、トリップアドヴァイザーでエヴォラ市内堂々一位に輝いている、taberna quarta feiraである。家族経営の小さいレストランで、50過ぎのおっちゃんが舵取りをしている。ここでは美味しいものしか出さない、という自信と気迫を感じさせる、エネルギーにあふれるオーナーである。
おっちゃんは見るからに、小さい子連れの、こちらの様子が心配だったようだ。騒がしくして他の、みるからに旅行者のお客さんの気に障ることがないよう、親もヒヤヒヤであった。早速おっちゃんは息子に話しかける。
「なまえは?」
息子が瞬時に正しく、はっきり返答したので正直びっくりした。それも、普段自分をさして使っている「あだ名」ではなく、本名を。いつから自分で言えるようになったのか?
あらかじめ、息子にジュースをおっちゃんに頼んでごらん、と言っていたのでおっちゃんが近づいたら自分で注文していた。はすかしがらず、はっきりしゃべれて親として満足である。自分がこれくらいの年齢の時、こういう大人との会話はできなかったのではないか?
このレストランには、メニューがなく、料理は頼まずにして出てくる。自分にとっては、いわゆるtable d'hote の初体験である。
まず、パンにつけて食べる、オーブンで温めたチーズ、わずかに炒めた、大きめのワイン風味のシャンピニオン、が前菜に出てきた。食べ終わると、見事な黒豚の煮付けがでてきて、その美味しさに幸せな気分にさせられた。特に、自分から注文したものでなく、どういうものを食べるのかあらかじめ想像せずに、突然美味しそうな料理を出されると嬉しさは倍増である。
いずれも、この地方のごく普通の郷土料理をいい素材を使って、丁寧に調理している感じである。飲むワインは、最初に出された赤ワインを断って白にしてもらったのだが、それも自分は普段にはまず飲まない類の、上品なものであった。
息子はそのメインディッシュも、付け合わせで出てきたアスパラガスとキノコ類のミガス、この年代の子たちの好物の揚げポテトもしっかり食べた。もともと食べる方は親を悩ませたことがないくらい、しっかり食べる子だが、美味しいものは必ず見分けて食べる子でもある。デザートとして出てきた、たくさんの新鮮なイチゴには、いつまで食べるのかと思わせるくらい何度も手を伸ばした。ケーキも出てきたが、果物そのままの方が好きなようである。
とてもいい夕食であった。レストランでの家族連れの食事は、気を使うもので息子の状態によって悲惨な結果、座っていられなくなったり、全く料理に手をつけなかったり騒ぎ出したり、となることがある。でもここ、quarta feira(水曜日の意味)では、息子は全く退屈せず、親は落ち着いていられた。
見事な食事もさながら、レストラン内の雰囲気、オーナー氏のホスピタリティー、といいまた機会がある時に来たい、と思わせるところであるのは確実だ。
息子は終始機嫌が良く、別れにはオーナーのおっちゃんと大きな笑顔でハイタッチしていた。
2013年5月5日日曜日
カリブ海のマルティニーク
マルティニークはカリブ海に浮かぶ、自然に囲まれた常夏の美しい島だ。フランスの海外県であり、通貨はユーロで走る車はフランスのナンバーである。
縁があって、この島に10日ほど、滞在してきた。ヴェルディのレクイエムを上演するという、大掛かりなプロダクションである。主に、120人ほどの合唱団の監督を任された。
バナナ、パイナップルなどのフルーツの産地で有名で、経済的に観光業とともにこの島をわずかながら潤いでいるようだ。ポルトガルでいえば、マデイラ島が似たような位置にいる。
マルティニークの食事は、特別美味しいものではない。肉類は決まって時間をかけて調理してあり、揚げ物は時間をかけているので硬くなっている。煮付けられた鳥肉はまだ馴染みやすいもので、コロンボと呼ばれるカレーのルーがよく使われる。特別辛くない、優しいスパイスであった。豆類の煮たもの、白いご飯が常に「おかず」であった。
ことし、4月に入っても肌寒い日が続いていたヨーロッパに比べ、このマルティニークでは27,8度ある、心地よい夏の気候だ。夜でも気温は下がらず、生まれて始めて日中の気温差に悩ませることがなかった。このプロダクションのために、ヨーロッパから100人ほど訪れていたが、体調を崩した人はいなかったのではないか。夜に外に出ても、肌寒いと感じることはなく、朝方も適当に涼しく、まさにちょうどいい気温である。
海はやはり格別で、水温も心地よく、こういう海岸ならいつ行っても良さそうだ。幸いクルマを貸してくれていたので気軽にいつでもどこにでも行動できた。
合唱団は、マルティニーク当地の3つの教会合唱団に加え、フランス、トゥールーズから助っ人が50人ほどよばれ、結構大きな合唱団になった。加えて、リハーサルはかなり限られていたので、かなり効率良く仕事を進めて行く必要があった。
それぞれの合唱団は時間をかけて練習してきたのだが、細部のまとめはやはり一つ一つ話していけないといけない。2つのアカペラの、どの合唱団にとっても難しい番号は念入りに練習する必要がある。結局コンサート当日でも、本番前1時間ほどの本格的なリハーサルが必要になってしまった。コンサート合計3度あったが、本番は本当に良かったと思う。ずべての合唱団はアマチュアだが、それぞれにとって印象深い経験だったのではないだろうか。
リハーサルは当然フランス語である。自分のフランス語の勉強は、特に必要性がなく、後回しになってようやく7年ほどまえに集中講座を受けたのみである。しかも、リヨンに4週間滞在した当時もかなりあやしいものだった。しかし、読むには、ほとんど理解できるくらいであるので、聞く方に慣れれさえすれば、何とかなると思っていた。ポルトガル語でも、イタリア語でも、ヒヤリングは最初のうちはちんぷんかんぷんでも、時間が経つに連れできるようになるものである。
それでも、少々の会話はできたし、リハーサルではなにせ専門的分野なので、ポルトガルでやっているのとだいたい同じようにできた。ポルトガルでもまったく不自由なしにできるわけではないし、あまり違和感なしにできた。
それでも、1体1の会話になると、ゆっくりしゃべってもらってもわからないことが多かった。特にクレオールと呼ばれる、マルティニークの話す言葉は難解であった。とにかく話すのが早く、なかなか自分の脳は追いつかなかった。いつか理解できるものなのだろうか。
マルティニークの人たちの、ホスピタリティー精神は素晴らしい。お世話にするなら、とことん手助けしてくれる。自分自身、ホスピタリティーとは無縁の生活をしているので、新鮮な、心が洗われた気分になった。
マルティニーク歴史は悲しいものだ。大方の人達が昔の奴隷主義の犠牲者の子孫である。要するに、アフリカ大陸から無理やり駆り出され、マルティニークのような島に集められ、アメリカ大陸での仕事、というか奴隷として使われるのを待機していたのだろう。思えば、当時には普通に行われていたとはいえ、今現在、この人たちへの保障はあるのだろうか。また、ヨーロッパ人到着前にいた原住民は激しく抵抗したらしく、数年に渡る戦いですべての命を失ってしまった。ヨーロッパのテクノロジーの前に屈したのだが、住民全員虐殺された、とは今の常識では考えられない、狂気である。 日本でも終戦前、総一億人して戦う、などと言われていたらしいが、実際にはおこなわれなかった。よって、日本の歴史は続いたのだが、マルティニーク原住民の語り継がれたものは、いわゆる人の記憶から失われたのだろうか。何れにせよ、今現在のマルティニークにはそれにまつわる話しというのは、存在するのだろうか。
滞在は9日だったが、また近い将来行くことになるかもしれない。年中、こういう初夏の気候なら、何年でも滞在したい場所である。
縁があって、この島に10日ほど、滞在してきた。ヴェルディのレクイエムを上演するという、大掛かりなプロダクションである。主に、120人ほどの合唱団の監督を任された。
バナナ、パイナップルなどのフルーツの産地で有名で、経済的に観光業とともにこの島をわずかながら潤いでいるようだ。ポルトガルでいえば、マデイラ島が似たような位置にいる。
マルティニークの食事は、特別美味しいものではない。肉類は決まって時間をかけて調理してあり、揚げ物は時間をかけているので硬くなっている。煮付けられた鳥肉はまだ馴染みやすいもので、コロンボと呼ばれるカレーのルーがよく使われる。特別辛くない、優しいスパイスであった。豆類の煮たもの、白いご飯が常に「おかず」であった。
ことし、4月に入っても肌寒い日が続いていたヨーロッパに比べ、このマルティニークでは27,8度ある、心地よい夏の気候だ。夜でも気温は下がらず、生まれて始めて日中の気温差に悩ませることがなかった。このプロダクションのために、ヨーロッパから100人ほど訪れていたが、体調を崩した人はいなかったのではないか。夜に外に出ても、肌寒いと感じることはなく、朝方も適当に涼しく、まさにちょうどいい気温である。
海はやはり格別で、水温も心地よく、こういう海岸ならいつ行っても良さそうだ。幸いクルマを貸してくれていたので気軽にいつでもどこにでも行動できた。
合唱団は、マルティニーク当地の3つの教会合唱団に加え、フランス、トゥールーズから助っ人が50人ほどよばれ、結構大きな合唱団になった。加えて、リハーサルはかなり限られていたので、かなり効率良く仕事を進めて行く必要があった。
それぞれの合唱団は時間をかけて練習してきたのだが、細部のまとめはやはり一つ一つ話していけないといけない。2つのアカペラの、どの合唱団にとっても難しい番号は念入りに練習する必要がある。結局コンサート当日でも、本番前1時間ほどの本格的なリハーサルが必要になってしまった。コンサート合計3度あったが、本番は本当に良かったと思う。ずべての合唱団はアマチュアだが、それぞれにとって印象深い経験だったのではないだろうか。
リハーサルは当然フランス語である。自分のフランス語の勉強は、特に必要性がなく、後回しになってようやく7年ほどまえに集中講座を受けたのみである。しかも、リヨンに4週間滞在した当時もかなりあやしいものだった。しかし、読むには、ほとんど理解できるくらいであるので、聞く方に慣れれさえすれば、何とかなると思っていた。ポルトガル語でも、イタリア語でも、ヒヤリングは最初のうちはちんぷんかんぷんでも、時間が経つに連れできるようになるものである。
それでも、少々の会話はできたし、リハーサルではなにせ専門的分野なので、ポルトガルでやっているのとだいたい同じようにできた。ポルトガルでもまったく不自由なしにできるわけではないし、あまり違和感なしにできた。
それでも、1体1の会話になると、ゆっくりしゃべってもらってもわからないことが多かった。特にクレオールと呼ばれる、マルティニークの話す言葉は難解であった。とにかく話すのが早く、なかなか自分の脳は追いつかなかった。いつか理解できるものなのだろうか。
マルティニークの人たちの、ホスピタリティー精神は素晴らしい。お世話にするなら、とことん手助けしてくれる。自分自身、ホスピタリティーとは無縁の生活をしているので、新鮮な、心が洗われた気分になった。
マルティニーク歴史は悲しいものだ。大方の人達が昔の奴隷主義の犠牲者の子孫である。要するに、アフリカ大陸から無理やり駆り出され、マルティニークのような島に集められ、アメリカ大陸での仕事、というか奴隷として使われるのを待機していたのだろう。思えば、当時には普通に行われていたとはいえ、今現在、この人たちへの保障はあるのだろうか。また、ヨーロッパ人到着前にいた原住民は激しく抵抗したらしく、数年に渡る戦いですべての命を失ってしまった。ヨーロッパのテクノロジーの前に屈したのだが、住民全員虐殺された、とは今の常識では考えられない、狂気である。 日本でも終戦前、総一億人して戦う、などと言われていたらしいが、実際にはおこなわれなかった。よって、日本の歴史は続いたのだが、マルティニーク原住民の語り継がれたものは、いわゆる人の記憶から失われたのだろうか。何れにせよ、今現在のマルティニークにはそれにまつわる話しというのは、存在するのだろうか。
滞在は9日だったが、また近い将来行くことになるかもしれない。年中、こういう初夏の気候なら、何年でも滞在したい場所である。
2013年3月14日木曜日
フランダースの犬
今の世の中では、情報に関して困ることはない。
家の中でゆっくり、知りたいものをインターネットで検索したいだけできる。
新聞や週刊誌も、一昔前までは欠かさず配達してもらったりしてきたが、今はその必要がなくなった。常に最新情報が手元に入る。
思えば、ウィーンに着いたばかりの頃は、ソウルオリンピックが開催されていて、楽しみにしていた競技の結果など、知るのに時間がかかったものである。というのも、日本大使館に日本から直送の朝日新聞が置いてあって、常に4、5日遅れだったからである。
テレビも、番組表など見なくても、ユーチューブが現れて以来、サッカーの試合でも、昔の映画でもなんでも探せばすぐ映像が見つかるくらいになった。ここ15年くらいでえらい変わってきたことだ。
3歳の息子は、パパとは日本語で会話する。というより、パパは息子とは日本語以外話さない。息子はテレビにかじりつく、ということはしないが、そのかわりにPCのユーチューブは大好きで、ずっとお世話になっている。そこではパパはなるべく日本語のものを探すのだが、最近ふと「フランダースの犬」の映画版をみつけた。
そういえば、自分が小さいときに放映されていた「フランダース」のあらすじなど、全然思い出せなかった。思い出すのは、おとこのこが大きい犬を連れて歩く、ヨーロッパのどこかの話ということだけだ。
早速息子と最初から観はじめたが、我が3歳児は最初のうちは犬を目で追ってコメントしていたものの、やがて飽きて席を立った。パパは、今になってどういう話しか初めて知ったような感じだったので、気になって最後まで観た。
男の子は唯一の育ての親のおじいさんを亡くし、生活の糧の仕事も失う。風車の放火の疑いをかけられ、人から信頼を失う。唯一望みをかけていた絵のコンクールには落選し、家賃も払えなくなって家から追い出される。雪が積もった路上にいるわけにいかず、せめて犬だけは知人宅に預けようと、幼なじみの裕福な女の子の家をたずねる。男の子は一人で教会に向かい、一度目にしたかったルーベンスの絵を見ながら、寒さと飢え?で動けなくなる。追ってやってきた犬と力尽き、最後は天使がおりてきて共に昇天する。
これは子供が観る内容ではないではないか。人生とは、不運はあれど、必ず幸運も顔のぞかせる、言わずと知れた山あり谷ありのものだ。要するに、不幸が積み重なり、そのまま命を落としてしまうとは、普通の人生において真実とかけ離れているし、そもそもお話にするような内容ではない。ましては主人公は人間社会から守られるべき、10歳前後の男の子であり、話の終わりには命を落としてしまう。心から憤慨してしまった。こんなものを自分は子供のときに観ていたのか?
原作は舞台のフランダースには行ったことのないイギリス人、作品は19世紀後半ということで、風刺的に書いた一種のギャグだったのか、おそらくまともな作品ではないだろう。
早速検索してみると、舞台のフランダースではこの駄作といえるお話を知っている人はいないという。日本のアニメは成功作となって、愛される古典の一つになっている。
しかし、なぜ人はこのようなものを「愛する」のだろうか?
全く理解できない。
あるサイトには、日本人特有の感性で、こういう破滅型(だったか?)の話、死を美化する話は受けがいい、とあった。
日本人特有の感性?
自分は日本人だが、幼い男の子が孤児になり、生きる場所も信頼できる人も失い、凍えて命を落とす話のどこに、美しさを感じるのであろうか。美しさは、人間の愛と共存するのか、男の子がどういう形であれ、人または神の愛情により救われるのであれば美しい話と思えたかもしれない。
自分にとっては、大掛かりで制作したアニメ映画なら、ウソでもそういう救われる話であってほしかった。
というわけで、このフランダースの犬の続き、もう息子には絶対見せない。
家の中でゆっくり、知りたいものをインターネットで検索したいだけできる。
新聞や週刊誌も、一昔前までは欠かさず配達してもらったりしてきたが、今はその必要がなくなった。常に最新情報が手元に入る。
思えば、ウィーンに着いたばかりの頃は、ソウルオリンピックが開催されていて、楽しみにしていた競技の結果など、知るのに時間がかかったものである。というのも、日本大使館に日本から直送の朝日新聞が置いてあって、常に4、5日遅れだったからである。
テレビも、番組表など見なくても、ユーチューブが現れて以来、サッカーの試合でも、昔の映画でもなんでも探せばすぐ映像が見つかるくらいになった。ここ15年くらいでえらい変わってきたことだ。
3歳の息子は、パパとは日本語で会話する。というより、パパは息子とは日本語以外話さない。息子はテレビにかじりつく、ということはしないが、そのかわりにPCのユーチューブは大好きで、ずっとお世話になっている。そこではパパはなるべく日本語のものを探すのだが、最近ふと「フランダースの犬」の映画版をみつけた。
そういえば、自分が小さいときに放映されていた「フランダース」のあらすじなど、全然思い出せなかった。思い出すのは、おとこのこが大きい犬を連れて歩く、ヨーロッパのどこかの話ということだけだ。
早速息子と最初から観はじめたが、我が3歳児は最初のうちは犬を目で追ってコメントしていたものの、やがて飽きて席を立った。パパは、今になってどういう話しか初めて知ったような感じだったので、気になって最後まで観た。
男の子は唯一の育ての親のおじいさんを亡くし、生活の糧の仕事も失う。風車の放火の疑いをかけられ、人から信頼を失う。唯一望みをかけていた絵のコンクールには落選し、家賃も払えなくなって家から追い出される。雪が積もった路上にいるわけにいかず、せめて犬だけは知人宅に預けようと、幼なじみの裕福な女の子の家をたずねる。男の子は一人で教会に向かい、一度目にしたかったルーベンスの絵を見ながら、寒さと飢え?で動けなくなる。追ってやってきた犬と力尽き、最後は天使がおりてきて共に昇天する。
これは子供が観る内容ではないではないか。人生とは、不運はあれど、必ず幸運も顔のぞかせる、言わずと知れた山あり谷ありのものだ。要するに、不幸が積み重なり、そのまま命を落としてしまうとは、普通の人生において真実とかけ離れているし、そもそもお話にするような内容ではない。ましては主人公は人間社会から守られるべき、10歳前後の男の子であり、話の終わりには命を落としてしまう。心から憤慨してしまった。こんなものを自分は子供のときに観ていたのか?
原作は舞台のフランダースには行ったことのないイギリス人、作品は19世紀後半ということで、風刺的に書いた一種のギャグだったのか、おそらくまともな作品ではないだろう。
早速検索してみると、舞台のフランダースではこの駄作といえるお話を知っている人はいないという。日本のアニメは成功作となって、愛される古典の一つになっている。
しかし、なぜ人はこのようなものを「愛する」のだろうか?
全く理解できない。
あるサイトには、日本人特有の感性で、こういう破滅型(だったか?)の話、死を美化する話は受けがいい、とあった。
日本人特有の感性?
自分は日本人だが、幼い男の子が孤児になり、生きる場所も信頼できる人も失い、凍えて命を落とす話のどこに、美しさを感じるのであろうか。美しさは、人間の愛と共存するのか、男の子がどういう形であれ、人または神の愛情により救われるのであれば美しい話と思えたかもしれない。
自分にとっては、大掛かりで制作したアニメ映画なら、ウソでもそういう救われる話であってほしかった。
というわけで、このフランダースの犬の続き、もう息子には絶対見せない。
2013年2月8日金曜日
Dervixe、リスボンのトルコレストラン。
もうそろそろ4年前になってしまうが、イスタンブールでの合計6週間の滞在は忘れられないものである。アジア大陸が始まる、カディコイ区とでもいうのだろうか、にあるオペラハウスでの仕事をしていたので、タクシムというヨーロッパ側のホテルに滞在していた自分は毎日、2大陸間を行き来していた。
アジアの反対側の国、日本で生まれ、今ヨーロッパの反対側の国、ポルトガルに暮らしているものにとっては、実にスケールの大きな、感慨深い経験をさせてもらった。
カディコイには数多くのレストランがあるが、チヤという何件も別館を増やしているようなレストランは、実に格別だった。地元のトルコ人でさえ、食べたことのないレシピも提供しているような、グルメな店である。そこに毎日のように、ある日は一日に2度足を運んだのは、必然のことであった。
こちらリスボンでは、意外にトルコ料理を提供する店がなかなか見当たらない。ひとつショッピングセンターにあったレストランは、美味しい店であったが今は姿を消してしまった。
ひょんなことから、仕事先のオペラ劇場からクルマで10分のところにトルコレストランがあることを知った。デルヴィッシェ、という名の本格的なトルコ料理のレストランである。
中に入ると、その一階には一応席があるが、混雑時の非常用らしく、来客はみな階段を登って2階の40席ほどの広さのホールに向かう。例の、トルコ独特のソファーに座って低いテーブルで食事するようなスペースもある。しかし自分は一人で来るのでそこには向かわず、普通のテーブルの席に勧められる。
店内は様々なイスタンブールの街のポスターで溢れる。あれもこれも、自分が実際行ってきたもので、大抵はその建物の名前も自然に口にできた。
話によると、このデルヴィッシュは、ケバプ店をのぞけばリスボンにある、唯一のトルコレストランだそうだ。自分にとって、トルコ料理は素晴らしいジャンルだと思うのだが、一般のポルトガル人には口に合わないのか。
さて料理の方は、期待を裏切らない、清潔感のあふれる美味しいものであった。鶏肉、牛肉料理にベジタブル料理、ケバプ類、とメニューも充分豊富である。
昼食メニューはドリンク、カフェ込みで6ユーロと低料金で、よく言われる「質と料金のバランスquarità prezzo」は、自分には最高点である。
毎日通う劇場からは歩いてはこれそうもない距離だが、せっかくバイクで行動している身である。イスタンブールでの素晴らしい思い出を蘇させたく、これからしばらくの間、昼の2時間という長い休憩時間の間に、バイクを飛ばしてこのレストランに通うことにした。
アジアの反対側の国、日本で生まれ、今ヨーロッパの反対側の国、ポルトガルに暮らしているものにとっては、実にスケールの大きな、感慨深い経験をさせてもらった。
カディコイには数多くのレストランがあるが、チヤという何件も別館を増やしているようなレストランは、実に格別だった。地元のトルコ人でさえ、食べたことのないレシピも提供しているような、グルメな店である。そこに毎日のように、ある日は一日に2度足を運んだのは、必然のことであった。
こちらリスボンでは、意外にトルコ料理を提供する店がなかなか見当たらない。ひとつショッピングセンターにあったレストランは、美味しい店であったが今は姿を消してしまった。
ひょんなことから、仕事先のオペラ劇場からクルマで10分のところにトルコレストランがあることを知った。デルヴィッシェ、という名の本格的なトルコ料理のレストランである。
中に入ると、その一階には一応席があるが、混雑時の非常用らしく、来客はみな階段を登って2階の40席ほどの広さのホールに向かう。例の、トルコ独特のソファーに座って低いテーブルで食事するようなスペースもある。しかし自分は一人で来るのでそこには向かわず、普通のテーブルの席に勧められる。
店内は様々なイスタンブールの街のポスターで溢れる。あれもこれも、自分が実際行ってきたもので、大抵はその建物の名前も自然に口にできた。
話によると、このデルヴィッシュは、ケバプ店をのぞけばリスボンにある、唯一のトルコレストランだそうだ。自分にとって、トルコ料理は素晴らしいジャンルだと思うのだが、一般のポルトガル人には口に合わないのか。
さて料理の方は、期待を裏切らない、清潔感のあふれる美味しいものであった。鶏肉、牛肉料理にベジタブル料理、ケバプ類、とメニューも充分豊富である。
イスタンブールでは、チャイ、トルコの紅茶を何度なく飲むのが普通だが、この店には残念ながらないようだ。しばらく通って行くうちに出してもらえるかもしれない。
昼食メニューはドリンク、カフェ込みで6ユーロと低料金で、よく言われる「質と料金のバランスquarità prezzo」は、自分には最高点である。
混んでいる日もあるが、サービスは変わらず早い。いつも美味しくいただけるし、量は多くはないが仕事の終わりに空腹感に襲われることもないので、充分満足できる。
2013年2月2日土曜日
差別といじめ
最近、いじめや体罰についてのニュースが新聞上賑わっている。
離日してから25年になるが、いじめはその当時の学校でも同じことが話題に登っていたので、今も昔も何も変わっていないのだろう。
1対1の人間として、体が大きかったり、立場が上だったり、いろいろな力関係の違いから殴られる側はじっと我慢するだけで、なにも立ち向かえない。屈辱的であり、やられっぱなしのくやしいものである。
自分が通った小学校では、殴る、叩くという程度の体罰は愛の鞭でも何でもなく、ごく普通の罰であり、日常的に当たり前に行われていた。
プラスチック製の糊の容器を、頭を殴る体罰専門に使っていた小学校の先生もいれば、東京タワーと名前のついた、耳の横の髪の毛を上に引っ張るという、オリジナルな体罰を持っている先生もいた。耳を引っ張る体罰を持つ別の先生は度がすぎたのか、ある生徒の耳を裂いてしまい問題になり、養護クラス担当に左遷された。
自分は小学校運動会の開会式で宣誓をしたことがあったが、その公開練習で体育専門かなにかわからないが、顔を見るのも存在そのものも嫌だった先生に無言で手をひっぱたかれた。指をピンと伸ばしていないからだと、気づかされた。
中学では体罰の度を越した、暴力を振るう先生に2年連続でクラスの担任として当たってしまった。この人は奇声をあげ、自分の機嫌によって、思い切り殴ったり平手を打ったりする異常な先生であった。女子バスケ部の顧問としてその体罰主義は花を咲かせたらしく、その出来事はよく自慢話として聞かされた。あまりにきつかったので、生理が止まった子がいた、と嬉しそうに話していた。
一年だけ行った高校では、細い竹の棒を常持している数学の先生がいた。棒は、鞭として人を叩くのに使われるのである。つい居眠りをしていた女の子が、思い切り何度も殴られていた。
別の体育系の先生は、試験に遅刻した生徒の胸ぐらをつかんで投げ倒し、至近距離で怒鳴りつけていた。当時、試験をする必要性を感じなかった自分は、その出来事を文章にして試験用紙にすべて書くことにした。
自分自身、こういう暴力先生達に実際に殴られた経験はなかった。ただ、いつかこういう被害にあうのだろうかと常に恐怖心にかられた。暴力現場を目撃するのは非常に苦痛であり、またその光景は脳裏から離れないくらい、ショッキングなものであった。
自分は運動が好きで、できればサッカーや、野球といったメジャーなスポーツに取り組みたかったのだが、常に体罰、というより暴力主義が避けられないのは目に見えていたので、しなかった。家畜のように殴られたり蹴られたりは絶対にされたくなかった。
体罰先生は、自分なりに許容範囲があって、それを越したものに罰を与える。
いじめる側は、自分なりの何らかの基準に外れているものをいじめの対象にする。
考え方であったり、言動であったり、身なりであったり、からだつきであったり、なにか変なものを持っている人間を、自分との力関係を確認後、いじめの対象にすると決める。
一歩外に出れば、自分の価値観と違う、いわゆる変なものを持っている人間は、世界には限りなくある。空間が狭くなればなるほど、その「変な人間」はその世界の価値観に当てはまらず、差別を受け、生きにくくなる。
ところで、差別というのは、いじめと全く同じである。習慣、宗教、人種、身なりの違い、で何らかの力関係で立場が弱い、とされる側は、生きていく上でいろいろと制限を受ける。そのなかで、何かいじめる側に好都合なことがある場合にだけ、その報酬としてすこしずつ自由が認められる。
この世界に、差別といういじめを受けている人、団体、民族、国は、無数にあるのではないだろうか。ジプシーを呼ばれた、ヨーロッパ中で何世紀にわたって憎まれてきたロマ人はいったい、どれだけの屈辱的な話をもちあわせているのであろうか。アフリカで野獣のように文字通り引っ張り狩られて、船に乗せられアメリカ大陸の開発の人力として使われた、黒人奴隷よりはげしい屈辱を受けた人たちはいないのではないだろうか。
今までの人生の大半を異人として生きてきた自分は、幸いにも豊かな国際社会の時代に生まれたので、今まで受けてきた差別やいじめは、自分や家族の生命を脅かすほどでもなかった。自分が生まれた国である日本は、文化的にも、経済的にも、どのような国にも負けない、恐るべき大国である。日本人である自分は、そういうイメージに守られてきたのも事実である。
しかし、数多く耳にした明らかな人種差別的発言、異なる言語を母国語とするものとして、異なる習慣を持つものとして、異なる考え方をする人間として排他されることが実際にあることは、深く悲しく、それらに十分傷つけられた。
醜い差別、偏見は、なくなってしまうに越したことはないが、残念ながら、地球が存在する限りなくなるものではないと断言できる。欧州サッカーで人種差別主義、racismをなくそう、などというキャンペーンをやっているが、限りなく表面的なものにしか思えない。
この世の中では、人はある種に属する、要するにどこかに存在する価値観で生きる決意、自分の立場を認識して守っていかないといけない必要があるようである。
異国人として生きるということは、自分たちや自分の国のためではなく、今生活をしている国のため、そのひとたちにアドヴァンテージを与えるという姿勢で、生きてくべきである。それは人より多く仕事をし、人より貧しい生活をすることを意味する。
それが差別やいじめから逃れられる、生きる道だと信じる。
離日してから25年になるが、いじめはその当時の学校でも同じことが話題に登っていたので、今も昔も何も変わっていないのだろう。
1対1の人間として、体が大きかったり、立場が上だったり、いろいろな力関係の違いから殴られる側はじっと我慢するだけで、なにも立ち向かえない。屈辱的であり、やられっぱなしのくやしいものである。
こういう理不尽な関係が同年代同士に発生するのが、いじめといわれるのではないか。本質的には、体罰と称するものと、いじめは同じと断言できる。自分より弱い立場にあるものにすりこむように存在感を示しつける。いじめっこは、自分のせいで苦痛を感じている相手という一種の鏡によって、自分のバイタリティーを確認することができる。体罰先生は、フィジカル的な苦痛、ショックによって、望むべく即変化をなす生徒を見るたび、自分自身の功績を感じる。
自分が通った小学校では、殴る、叩くという程度の体罰は愛の鞭でも何でもなく、ごく普通の罰であり、日常的に当たり前に行われていた。
プラスチック製の糊の容器を、頭を殴る体罰専門に使っていた小学校の先生もいれば、東京タワーと名前のついた、耳の横の髪の毛を上に引っ張るという、オリジナルな体罰を持っている先生もいた。耳を引っ張る体罰を持つ別の先生は度がすぎたのか、ある生徒の耳を裂いてしまい問題になり、養護クラス担当に左遷された。
自分は小学校運動会の開会式で宣誓をしたことがあったが、その公開練習で体育専門かなにかわからないが、顔を見るのも存在そのものも嫌だった先生に無言で手をひっぱたかれた。指をピンと伸ばしていないからだと、気づかされた。
中学では体罰の度を越した、暴力を振るう先生に2年連続でクラスの担任として当たってしまった。この人は奇声をあげ、自分の機嫌によって、思い切り殴ったり平手を打ったりする異常な先生であった。女子バスケ部の顧問としてその体罰主義は花を咲かせたらしく、その出来事はよく自慢話として聞かされた。あまりにきつかったので、生理が止まった子がいた、と嬉しそうに話していた。
一年だけ行った高校では、細い竹の棒を常持している数学の先生がいた。棒は、鞭として人を叩くのに使われるのである。つい居眠りをしていた女の子が、思い切り何度も殴られていた。
別の体育系の先生は、試験に遅刻した生徒の胸ぐらをつかんで投げ倒し、至近距離で怒鳴りつけていた。当時、試験をする必要性を感じなかった自分は、その出来事を文章にして試験用紙にすべて書くことにした。
自分自身、こういう暴力先生達に実際に殴られた経験はなかった。ただ、いつかこういう被害にあうのだろうかと常に恐怖心にかられた。暴力現場を目撃するのは非常に苦痛であり、またその光景は脳裏から離れないくらい、ショッキングなものであった。
自分は運動が好きで、できればサッカーや、野球といったメジャーなスポーツに取り組みたかったのだが、常に体罰、というより暴力主義が避けられないのは目に見えていたので、しなかった。家畜のように殴られたり蹴られたりは絶対にされたくなかった。
体罰先生は、自分なりに許容範囲があって、それを越したものに罰を与える。
いじめる側は、自分なりの何らかの基準に外れているものをいじめの対象にする。
考え方であったり、言動であったり、身なりであったり、からだつきであったり、なにか変なものを持っている人間を、自分との力関係を確認後、いじめの対象にすると決める。
一歩外に出れば、自分の価値観と違う、いわゆる変なものを持っている人間は、世界には限りなくある。空間が狭くなればなるほど、その「変な人間」はその世界の価値観に当てはまらず、差別を受け、生きにくくなる。
ところで、差別というのは、いじめと全く同じである。習慣、宗教、人種、身なりの違い、で何らかの力関係で立場が弱い、とされる側は、生きていく上でいろいろと制限を受ける。そのなかで、何かいじめる側に好都合なことがある場合にだけ、その報酬としてすこしずつ自由が認められる。
この世界に、差別といういじめを受けている人、団体、民族、国は、無数にあるのではないだろうか。ジプシーを呼ばれた、ヨーロッパ中で何世紀にわたって憎まれてきたロマ人はいったい、どれだけの屈辱的な話をもちあわせているのであろうか。アフリカで野獣のように文字通り引っ張り狩られて、船に乗せられアメリカ大陸の開発の人力として使われた、黒人奴隷よりはげしい屈辱を受けた人たちはいないのではないだろうか。
今までの人生の大半を異人として生きてきた自分は、幸いにも豊かな国際社会の時代に生まれたので、今まで受けてきた差別やいじめは、自分や家族の生命を脅かすほどでもなかった。自分が生まれた国である日本は、文化的にも、経済的にも、どのような国にも負けない、恐るべき大国である。日本人である自分は、そういうイメージに守られてきたのも事実である。
しかし、数多く耳にした明らかな人種差別的発言、異なる言語を母国語とするものとして、異なる習慣を持つものとして、異なる考え方をする人間として排他されることが実際にあることは、深く悲しく、それらに十分傷つけられた。
醜い差別、偏見は、なくなってしまうに越したことはないが、残念ながら、地球が存在する限りなくなるものではないと断言できる。欧州サッカーで人種差別主義、racismをなくそう、などというキャンペーンをやっているが、限りなく表面的なものにしか思えない。
この世の中では、人はある種に属する、要するにどこかに存在する価値観で生きる決意、自分の立場を認識して守っていかないといけない必要があるようである。
異国人として生きるということは、自分たちや自分の国のためではなく、今生活をしている国のため、そのひとたちにアドヴァンテージを与えるという姿勢で、生きてくべきである。それは人より多く仕事をし、人より貧しい生活をすることを意味する。
それが差別やいじめから逃れられる、生きる道だと信じる。
2013年1月28日月曜日
李清氏のこと、最終回。
このなんでもない、個人ブログへの検索ヒットは一度書いた、李清氏のことと、息子の病気のことが一番多いようだ。ブログは元々自分の音楽家としての仕事のことを中心に書くつもりで開設したのだが、ネタがあまりないこともあり少々雑談的なものになってしまった。
息子の病気については、同じ悩みを持つ人、手術後の経過について不安で仕方がない人に勇気づけるものであってほしいと思う。この種の病気は一生つきあっていくものであるが、三歳の息子の日々の成長ぶりは生後すぐの手術のことは忘れさせるものである。
本来なら失っていたはずの命が、手術を行った医師団スタッフ、サンタクルス病院により救われたことは、奇跡のように思える。感謝しても仕切れない。もちろん、神様にも感謝しているのだが、ルイ・アンジュス先生を始めとするスタッフにはその100倍の感謝の気持ちを抱いている。
李清氏について検索している人が多いところを見ると、先生はまだまだ、現役で活躍されているようだ。今の、オペラの分野にいる自分には遠い存在になったが、ウィーンでの彼に関する思い出は、まだある。
彼の思い出はごくわずかだが、強烈である。前回に書いたことも少々重複する。
今から25年前、留学先のウィーンにて、李先生には2か月弱、計10回ほどレッスンを見てもらったが、当時16歳の自分にはピアノを弾く技術の習得そのものより、音楽、人生に関する「話し」のほうが重要だったかもしれない。自分の頭の中にある、わずかな知識で世の中とはやく勝負してみたかった。いやな生徒であったはずだ。
もともとオーケストラの指揮がしたかった自分には、ピアノという楽器はオーケストラの代用でしかなく、音色そのものも、音楽リスナーとしてピアノソロ曲も別に好きなものでなかった。今の昔も、自分にとってピアノとは、数ある、愛すべきすばらしい楽器の一つにすぎない。
そのことを李先生に話すと、「ピアノが嫌いなのか!」とびっくりされた。というより、生徒に面と向かってピアノが嫌い(というニュアンスで伝わってしまった)といわれたことに、大変憤慨された。実際、李清グループのレッスンを希望している生徒さんは、ピアノに憧れ、ピアノの音色に魅了され続けている人たちであるはずだ。
李先生は「ピアノと私」という著作本がある人である。先生も含めて、そういう人にとっては、なぜそんなピアノが嫌いな人がまだピアノを弾いているのか、信じられないことだろう。
李先生とは全く話が合わなかった。親とも相談し了承を得て、ウィーン到着後2か月ほどで先生の元を離れることになった。先生からは、あっさりと「これでもう僕の世話になることはないからな」と念を押された。
実はその後、李氏が会長の、パン・ムジカ・オーストリアでアルバイトをさせてもらったことがある。なぜ彼のもとで仕事をしたいと思ったのだろうか。先生から離れて7、8年経った時である。自分の中で、苦い過去への和解の意味があったかもしれない。
仕事といっても、ドイツ語でレッスンされるオーストリア人先生方と、日本から来られた生徒方への、同時通訳のアルバイトである。旅行ガイドと並んで、当地留学生によくある類いのアルバイトである。
通訳専門の人にとって、同時通訳というのは時給10万円とも言われる、本格的に体力、精神力の消耗が激しいものらしいが、この程度のレッスンの通訳は、要するに「適当」に扱われる。時給は100シリング、つまり千円くらいだったかもしれない。
李会長から、この仕事を始めるにあたって「講習会の成功の鍵は通訳が握る」という説明を受けた。受講者の先生への印象は、通訳のやり方、態度によって大きく左右される、という。
当時の自分は、先生のレッスン中に話すドイツ語は全て理解していたし、日本語にして生徒さんに伝えるのも全く不自由しなかった。パンムジカ主催の講習会での、たしか4回くらいのレッスンの「お仕事」も普通に終わったが、この一回きりでもう二度とアルバイトに呼ばれることはなかった。
その後、李先生に電話でその理由を聞いた。「受講者の印象が良くなかった」、つまり通訳として失格になってしまった。
李氏は音楽家である前に一人の経営者である。先生と自分のあいだの微妙な状態、当時16歳の自分との、長期的なつながりを前提とした20万円という現金での「契約」を、2か月足らずで終わらせた、そういう一時期の気まずい関係も、わずかなお金をも必要としている当時24歳の一学生への配慮も、全く躊躇することなく首を切ったのである。
自分にとっては、2度目の、同時に最後の先生とのお別れになった。
考え方次第だが、確かにこの先生がいなかったら今の自分はなかったかもしれない。
しかし、この李清さんとは、それっきりご無沙汰である。
息子の病気については、同じ悩みを持つ人、手術後の経過について不安で仕方がない人に勇気づけるものであってほしいと思う。この種の病気は一生つきあっていくものであるが、三歳の息子の日々の成長ぶりは生後すぐの手術のことは忘れさせるものである。
本来なら失っていたはずの命が、手術を行った医師団スタッフ、サンタクルス病院により救われたことは、奇跡のように思える。感謝しても仕切れない。もちろん、神様にも感謝しているのだが、ルイ・アンジュス先生を始めとするスタッフにはその100倍の感謝の気持ちを抱いている。
李清氏について検索している人が多いところを見ると、先生はまだまだ、現役で活躍されているようだ。今の、オペラの分野にいる自分には遠い存在になったが、ウィーンでの彼に関する思い出は、まだある。
彼の思い出はごくわずかだが、強烈である。前回に書いたことも少々重複する。
今から25年前、留学先のウィーンにて、李先生には2か月弱、計10回ほどレッスンを見てもらったが、当時16歳の自分にはピアノを弾く技術の習得そのものより、音楽、人生に関する「話し」のほうが重要だったかもしれない。自分の頭の中にある、わずかな知識で世の中とはやく勝負してみたかった。いやな生徒であったはずだ。
もともとオーケストラの指揮がしたかった自分には、ピアノという楽器はオーケストラの代用でしかなく、音色そのものも、音楽リスナーとしてピアノソロ曲も別に好きなものでなかった。今の昔も、自分にとってピアノとは、数ある、愛すべきすばらしい楽器の一つにすぎない。
そのことを李先生に話すと、「ピアノが嫌いなのか!」とびっくりされた。というより、生徒に面と向かってピアノが嫌い(というニュアンスで伝わってしまった)といわれたことに、大変憤慨された。実際、李清グループのレッスンを希望している生徒さんは、ピアノに憧れ、ピアノの音色に魅了され続けている人たちであるはずだ。
李先生は「ピアノと私」という著作本がある人である。先生も含めて、そういう人にとっては、なぜそんなピアノが嫌いな人がまだピアノを弾いているのか、信じられないことだろう。
李先生とは全く話が合わなかった。親とも相談し了承を得て、ウィーン到着後2か月ほどで先生の元を離れることになった。先生からは、あっさりと「これでもう僕の世話になることはないからな」と念を押された。
実はその後、李氏が会長の、パン・ムジカ・オーストリアでアルバイトをさせてもらったことがある。なぜ彼のもとで仕事をしたいと思ったのだろうか。先生から離れて7、8年経った時である。自分の中で、苦い過去への和解の意味があったかもしれない。
仕事といっても、ドイツ語でレッスンされるオーストリア人先生方と、日本から来られた生徒方への、同時通訳のアルバイトである。旅行ガイドと並んで、当地留学生によくある類いのアルバイトである。
通訳専門の人にとって、同時通訳というのは時給10万円とも言われる、本格的に体力、精神力の消耗が激しいものらしいが、この程度のレッスンの通訳は、要するに「適当」に扱われる。時給は100シリング、つまり千円くらいだったかもしれない。
李会長から、この仕事を始めるにあたって「講習会の成功の鍵は通訳が握る」という説明を受けた。受講者の先生への印象は、通訳のやり方、態度によって大きく左右される、という。
当時の自分は、先生のレッスン中に話すドイツ語は全て理解していたし、日本語にして生徒さんに伝えるのも全く不自由しなかった。パンムジカ主催の講習会での、たしか4回くらいのレッスンの「お仕事」も普通に終わったが、この一回きりでもう二度とアルバイトに呼ばれることはなかった。
その後、李先生に電話でその理由を聞いた。「受講者の印象が良くなかった」、つまり通訳として失格になってしまった。
李氏は音楽家である前に一人の経営者である。先生と自分のあいだの微妙な状態、当時16歳の自分との、長期的なつながりを前提とした20万円という現金での「契約」を、2か月足らずで終わらせた、そういう一時期の気まずい関係も、わずかなお金をも必要としている当時24歳の一学生への配慮も、全く躊躇することなく首を切ったのである。
自分にとっては、2度目の、同時に最後の先生とのお別れになった。
考え方次第だが、確かにこの先生がいなかったら今の自分はなかったかもしれない。
しかし、この李清さんとは、それっきりご無沙汰である。
2013年1月20日日曜日
Brisa do Rio, タヴィーラ、アルガルベ。
アルガルベ州とでも言うのだろうか、ポルトガルの最南に位置する地方は、ヨーロッパ大陸の最南地のひとつでもある。サグレス市の海岸線に立てば天気がいい日は海の向こう側、アフリカ大陸が肉眼で確かに見える。
向こう側は、モロッコのはずで、あの特徴的なモスクの建物の尖った部分がはっきり確認できる。アラブ人による、全くの別世界が海の向こうにあるのだ。あんなのがみえたら、それはいつか行ってみたくなるに違いない。そんな意識がポルトガル人の大航海時代につながっていったのだろうか。
時代をさかのぼると、海の向こうの別世界は実はこちら側にも普通に存在していた。イベリア半島の半分は、モーロと呼ばれる、れっきとしたイスラム教のアラブ人が何世紀というかなり長い間支配していた。その名残は現在も存分にあり、建築物だったり、アラブ語の冠詞であるalがついた地名は無数にある。algarveもしかり。イギリス人旅行者を意識してか、地名をallgarveに変えよう、という真面目な動きがあったが、歴史の事実からして、おかしい話である。
アラブ人は結局イベルア半島から追い出されたのだが、ポルトガルの歴史上では、コンキスタ、征服は勇ましい物語として残されている。アラブの世界の中で、幸福な生活していた人の多くの悲劇もあったはずだ。アルフレード・カイルのオペラ、「ドンナ・ブランカ」はたしかそういう悲劇の一つのようだ。もっとそれにまつわる悲劇を知りたい。
機会があってタヴィーラ、というアルガルベにある都市に何日か滞在した。そこも多くのイギリス人が休暇に来るところであって、ニュースでにぎわったイギリス人夫婦の幼い娘が失踪したところもこちらである。
タヴィーラは小さい町だが、しっかりとしたレストラン街がある。10以上ほどのレストランが狭い一地区に集まっている。インターネット情報を頼りに、ある30席ほどの小さいレストランに入った。
ブリーザ・ド・リオという名のレストランは、ポルトガルのよくある家庭、伝統料理をややモダンにアレンジした、旅行者でにぎわうところではよくありそうなレストランである。
幼い息子も連れていたので、19時前という早めの時間帯に入ったのでがらがらであったが、次第に満席になった。来る客は外国人も含めて常連客のようだ。
ここは自分にとって一番のレストランの一つの、イスタンブールのチヤに雰囲気が似ていた。すなわち、一流のおいしい物が食べられる正統派のレストランである。料理はアサリのカタプラーナという煮込み料理だったが、すばらしくおいしかった。
手順は簡単そうで、なかなうまくいかないのが料理だと思うが、アサリはともかく、たっぷりあったソースの中にあった豚肉は、こんなに完璧に調理されるものなのかと驚かされた。ソースは恥ずかしくなるくらい、パンですくっていただいた。味のバランスといい、料理を堪能する、とはこのことかと思わされる。
向こう側は、モロッコのはずで、あの特徴的なモスクの建物の尖った部分がはっきり確認できる。アラブ人による、全くの別世界が海の向こうにあるのだ。あんなのがみえたら、それはいつか行ってみたくなるに違いない。そんな意識がポルトガル人の大航海時代につながっていったのだろうか。
時代をさかのぼると、海の向こうの別世界は実はこちら側にも普通に存在していた。イベリア半島の半分は、モーロと呼ばれる、れっきとしたイスラム教のアラブ人が何世紀というかなり長い間支配していた。その名残は現在も存分にあり、建築物だったり、アラブ語の冠詞であるalがついた地名は無数にある。algarveもしかり。イギリス人旅行者を意識してか、地名をallgarveに変えよう、という真面目な動きがあったが、歴史の事実からして、おかしい話である。
アラブ人は結局イベルア半島から追い出されたのだが、ポルトガルの歴史上では、コンキスタ、征服は勇ましい物語として残されている。アラブの世界の中で、幸福な生活していた人の多くの悲劇もあったはずだ。アルフレード・カイルのオペラ、「ドンナ・ブランカ」はたしかそういう悲劇の一つのようだ。もっとそれにまつわる悲劇を知りたい。
機会があってタヴィーラ、というアルガルベにある都市に何日か滞在した。そこも多くのイギリス人が休暇に来るところであって、ニュースでにぎわったイギリス人夫婦の幼い娘が失踪したところもこちらである。
タヴィーラは小さい町だが、しっかりとしたレストラン街がある。10以上ほどのレストランが狭い一地区に集まっている。インターネット情報を頼りに、ある30席ほどの小さいレストランに入った。
ブリーザ・ド・リオという名のレストランは、ポルトガルのよくある家庭、伝統料理をややモダンにアレンジした、旅行者でにぎわうところではよくありそうなレストランである。
幼い息子も連れていたので、19時前という早めの時間帯に入ったのでがらがらであったが、次第に満席になった。来る客は外国人も含めて常連客のようだ。
ここは自分にとって一番のレストランの一つの、イスタンブールのチヤに雰囲気が似ていた。すなわち、一流のおいしい物が食べられる正統派のレストランである。料理はアサリのカタプラーナという煮込み料理だったが、すばらしくおいしかった。
手順は簡単そうで、なかなうまくいかないのが料理だと思うが、アサリはともかく、たっぷりあったソースの中にあった豚肉は、こんなに完璧に調理されるものなのかと驚かされた。ソースは恥ずかしくなるくらい、パンですくっていただいた。味のバランスといい、料理を堪能する、とはこのことかと思わされる。
2013年1月8日火曜日
トニ
ポルトガルの名門クラブ、ベンフィカ・リスボンの元名選手であり、元名監督であり、ポルトガル代表チームの元監督であり、テレビのスポーツ番組ではご意見番としてよく出てくる人物に何度も会って、食事も共にし、ベンフィカのカテドラル、シュターディオ・ダ・ルーシュでは隣に座って試合観戦をしたという、奇妙だが貴重な体験をしたことがある。
アントニオ・オリヴェイラ氏、または一般に知られているトニ氏はいわば国民的英雄である。劇場の同僚の家主さん、という関係でオペラに何度も家族同伴で来ていただいた。
上演後の歌手やスタッフの食事会にも気軽に同伴し、まさしく普通の人のごとく、誰とでもいろいろ雑談ができる気さくな、人格者である。
食事会までの徒歩での道のりでは、少年グループに見つけられ「トーニ、トーニ」とシュプレヒコールを受けていた。何度も共にしたレストランでは隣に座ったとき、いろいろな話を自らしてくれた。ベンフィカでは選手としても監督としても2年に一度は常にタイトルを獲得してきたこと、選手時代は常に最後の力を振り絞って走りまくっていたこと(中盤のディフェンダーであった)、出身地はコインブラで実はベレネンセスのファンであったこと、中国のクラブを指揮したこともある話など、ベンフィカのファンなら感動するようなことを普通に話していた。
サッカーの試合にも劇場の同僚と共に誘っていただいた。ベンフィカの本拠地、ルーシュには一緒に行こう、と言ってもらい地下鉄の駅で待ち合わせをした。駅に着くと、出口の向こうにトニが普通に立って待っていた。シュターディオンまではそこから徒歩10分だが、さすがにいろいろなファンに話しかけられたり、サインを求められたり、記念写真をお願いされたりして時間がかかったが、常に普通に対応していた。驚くことに、嫌がらせに来たり、野次を飛ばすような人は全くいなかった。
シュターディオンの入り口は混雑していて、一人一人ボディーチェックが行われていたが、トニと一緒にいたのでそれは免除させてもらった。シュターディオンではスポーツカーの座席を模した、あるいは同じ物を使った席に座り、グラウンドがまさしく舞台に見えるすばらしい眺めであった。
当時のベンフィカは成績が芳しくなく、下位相手に苦戦していたが、ここぞとばかり隣に座るトニに質問を浴びせてしまった。ただの一ファンである自分の意見にも丁寧に答えてくれた。ひょっとして、こういう体験を毎週させてもらったらサッカーの監督になれそうな気がした。
前半が終わる5分前に席を立ってブッフェに行こう、とこっそり言ってきた。未だガラガラのホールで食事に手を付け始めたが、しばらくすると人でいっぱいになった。意外なことに、みな静かに話をし、よく競技場の観客席でみかける興奮状態の変な人はいなかった。
試合が終わったあとも、駅まで一緒に歩いてくれた。またいろいろなファンに足を止められあまり話はできなかったが、まさに国民に愛されているのがよくわかり、それに気さくに応じるトニ監督の人の良さも、印象深かった。
その後アラブのどこかのチームの監督に呼ばれたようで、試合も見せてもらったのもオペラに来てもらったのもそれっきりになってしまったが、今でも時々テレビにコメンテーターとして出てくる。
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