マルティニークはカリブ海に浮かぶ、自然に囲まれた常夏の美しい島だ。フランスの海外県であり、通貨はユーロで走る車はフランスのナンバーである。
縁があって、この島に10日ほど、滞在してきた。ヴェルディのレクイエムを上演するという、大掛かりなプロダクションである。主に、120人ほどの合唱団の監督を任された。
バナナ、パイナップルなどのフルーツの産地で有名で、経済的に観光業とともにこの島をわずかながら潤いでいるようだ。ポルトガルでいえば、マデイラ島が似たような位置にいる。
マルティニークの食事は、特別美味しいものではない。肉類は決まって時間をかけて調理してあり、揚げ物は時間をかけているので硬くなっている。煮付けられた鳥肉はまだ馴染みやすいもので、コロンボと呼ばれるカレーのルーがよく使われる。特別辛くない、優しいスパイスであった。豆類の煮たもの、白いご飯が常に「おかず」であった。
ことし、4月に入っても肌寒い日が続いていたヨーロッパに比べ、このマルティニークでは27,8度ある、心地よい夏の気候だ。夜でも気温は下がらず、生まれて始めて日中の気温差に悩ませることがなかった。このプロダクションのために、ヨーロッパから100人ほど訪れていたが、体調を崩した人はいなかったのではないか。夜に外に出ても、肌寒いと感じることはなく、朝方も適当に涼しく、まさにちょうどいい気温である。
海はやはり格別で、水温も心地よく、こういう海岸ならいつ行っても良さそうだ。幸いクルマを貸してくれていたので気軽にいつでもどこにでも行動できた。
合唱団は、マルティニーク当地の3つの教会合唱団に加え、フランス、トゥールーズから助っ人が50人ほどよばれ、結構大きな合唱団になった。加えて、リハーサルはかなり限られていたので、かなり効率良く仕事を進めて行く必要があった。
それぞれの合唱団は時間をかけて練習してきたのだが、細部のまとめはやはり一つ一つ話していけないといけない。2つのアカペラの、どの合唱団にとっても難しい番号は念入りに練習する必要がある。結局コンサート当日でも、本番前1時間ほどの本格的なリハーサルが必要になってしまった。コンサート合計3度あったが、本番は本当に良かったと思う。ずべての合唱団はアマチュアだが、それぞれにとって印象深い経験だったのではないだろうか。
リハーサルは当然フランス語である。自分のフランス語の勉強は、特に必要性がなく、後回しになってようやく7年ほどまえに集中講座を受けたのみである。しかも、リヨンに4週間滞在した当時もかなりあやしいものだった。しかし、読むには、ほとんど理解できるくらいであるので、聞く方に慣れれさえすれば、何とかなると思っていた。ポルトガル語でも、イタリア語でも、ヒヤリングは最初のうちはちんぷんかんぷんでも、時間が経つに連れできるようになるものである。
それでも、少々の会話はできたし、リハーサルではなにせ専門的分野なので、ポルトガルでやっているのとだいたい同じようにできた。ポルトガルでもまったく不自由なしにできるわけではないし、あまり違和感なしにできた。
それでも、1体1の会話になると、ゆっくりしゃべってもらってもわからないことが多かった。特にクレオールと呼ばれる、マルティニークの話す言葉は難解であった。とにかく話すのが早く、なかなか自分の脳は追いつかなかった。いつか理解できるものなのだろうか。
マルティニークの人たちの、ホスピタリティー精神は素晴らしい。お世話にするなら、とことん手助けしてくれる。自分自身、ホスピタリティーとは無縁の生活をしているので、新鮮な、心が洗われた気分になった。
マルティニーク歴史は悲しいものだ。大方の人達が昔の奴隷主義の犠牲者の子孫である。要するに、アフリカ大陸から無理やり駆り出され、マルティニークのような島に集められ、アメリカ大陸での仕事、というか奴隷として使われるのを待機していたのだろう。思えば、当時には普通に行われていたとはいえ、今現在、この人たちへの保障はあるのだろうか。また、ヨーロッパ人到着前にいた原住民は激しく抵抗したらしく、数年に渡る戦いですべての命を失ってしまった。ヨーロッパのテクノロジーの前に屈したのだが、住民全員虐殺された、とは今の常識では考えられない、狂気である。
日本でも終戦前、総一億人して戦う、などと言われていたらしいが、実際にはおこなわれなかった。よって、日本の歴史は続いたのだが、マルティニーク原住民の語り継がれたものは、いわゆる人の記憶から失われたのだろうか。何れにせよ、今現在のマルティニークにはそれにまつわる話しというのは、存在するのだろうか。
滞在は9日だったが、また近い将来行くことになるかもしれない。年中、こういう初夏の気候なら、何年でも滞在したい場所である。
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