2013年3月14日木曜日

フランダースの犬

今の世の中では、情報に関して困ることはない。
家の中でゆっくり、知りたいものをインターネットで検索したいだけできる。

新聞や週刊誌も、一昔前までは欠かさず配達してもらったりしてきたが、今はその必要がなくなった。常に最新情報が手元に入る。

思えば、ウィーンに着いたばかりの頃は、ソウルオリンピックが開催されていて、楽しみにしていた競技の結果など、知るのに時間がかかったものである。というのも、日本大使館に日本から直送の朝日新聞が置いてあって、常に4、5日遅れだったからである。

テレビも、番組表など見なくても、ユーチューブが現れて以来、サッカーの試合でも、昔の映画でもなんでも探せばすぐ映像が見つかるくらいになった。ここ15年くらいでえらい変わってきたことだ。



3歳の息子は、パパとは日本語で会話する。というより、パパは息子とは日本語以外話さない。息子はテレビにかじりつく、ということはしないが、そのかわりにPCのユーチューブは大好きで、ずっとお世話になっている。そこではパパはなるべく日本語のものを探すのだが、最近ふと「フランダースの犬」の映画版をみつけた。

そういえば、自分が小さいときに放映されていた「フランダース」のあらすじなど、全然思い出せなかった。思い出すのは、おとこのこが大きい犬を連れて歩く、ヨーロッパのどこかの話ということだけだ。

早速息子と最初から観はじめたが、我が3歳児は最初のうちは犬を目で追ってコメントしていたものの、やがて飽きて席を立った。パパは、今になってどういう話しか初めて知ったような感じだったので、気になって最後まで観た。

男の子は唯一の育ての親のおじいさんを亡くし、生活の糧の仕事も失う。風車の放火の疑いをかけられ、人から信頼を失う。唯一望みをかけていた絵のコンクールには落選し、家賃も払えなくなって家から追い出される。雪が積もった路上にいるわけにいかず、せめて犬だけは知人宅に預けようと、幼なじみの裕福な女の子の家をたずねる。男の子は一人で教会に向かい、一度目にしたかったルーベンスの絵を見ながら、寒さと飢え?で動けなくなる。追ってやってきた犬と力尽き、最後は天使がおりてきて共に昇天する。

これは子供が観る内容ではないではないか。人生とは、不運はあれど、必ず幸運も顔のぞかせる、言わずと知れた山あり谷ありのものだ。要するに、不幸が積み重なり、そのまま命を落としてしまうとは、普通の人生において真実とかけ離れているし、そもそもお話にするような内容ではない。ましては主人公は人間社会から守られるべき、10歳前後の男の子であり、話の終わりには命を落としてしまう。心から憤慨してしまった。こんなものを自分は子供のときに観ていたのか?

原作は舞台のフランダースには行ったことのないイギリス人、作品は19世紀後半ということで、風刺的に書いた一種のギャグだったのか、おそらくまともな作品ではないだろう。

早速検索してみると、舞台のフランダースではこの駄作といえるお話を知っている人はいないという。日本のアニメは成功作となって、愛される古典の一つになっている。

しかし、なぜ人はこのようなものを「愛する」のだろうか?

全く理解できない。

あるサイトには、日本人特有の感性で、こういう破滅型(だったか?)の話、死を美化する話は受けがいい、とあった。

日本人特有の感性?

自分は日本人だが、幼い男の子が孤児になり、生きる場所も信頼できる人も失い、凍えて命を落とす話のどこに、美しさを感じるのであろうか。美しさは、人間の愛と共存するのか、男の子がどういう形であれ、人または神の愛情により救われるのであれば美しい話と思えたかもしれない。

自分にとっては、大掛かりで制作したアニメ映画なら、ウソでもそういう救われる話であってほしかった。

というわけで、このフランダースの犬の続き、もう息子には絶対見せない。

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