2013年6月10日月曜日

グルベンキアンのオテロ

グルベンキアン財団は、ここポルトガルの文化界においては欠かすことのできない私立の財団である。グルベンキアンのコンサートシーズンは世界の名だたる音楽家が呼ばれており、この国ではかなりのいいレベルのマーケティングによって新聞の批評も、一般的にも悪くいう人はいない。
在ポルトガル音楽家にとってグルベンキアンオーケストラは、憧れの存在であり、何かと基準になるものである。
オーケストラはヨーロッパではトップクラスに入るという評判である。少なくとも、正団員の給料はヨーロッパのトップクラスである。合唱団は、いわゆるセミプロで、団員の平均年齢は低い。
先日、財政難でオペラ上演ができないサオ・カルロスオペラ座にとってかわり、グルベンキアンオーケストラによって、コンサート形式ながらヴェルディのオテロが上演された。自分にとってグルベンキアンは近くて遠い存在で、なかなか足を運ぶ機会に恵まれなかったが、今回は生徒の一人に誘われて運良く公演に立ち会うことができた。
普段の評判から、どんなに素晴らしいオテロが聴けるかと期待していたが、なんてことはない平凡な上演であった。確かに楽譜上のオテロを好意的に実現化しようとした演奏ではあったが、ここはオペラ伝統のど真ん中にある作曲家、ヴェルディである。
普段、シンフォニックのレパートリーを中心に活躍しているグルベンキアンオーケストラにとっては新鮮であったかもしれないが、ヴェルディのオテロはオペラ界にとってはエース級の、オペラのレパートリーでは第一列に並ぶ、名曲中の名曲である。オーケストラも合唱団も、もしくは指揮の先生も、経験不足を披露するだけの公演になってしまった。
一体何が原因なのか、普通に聴きなれた、誰もがイメージするヴェルディの響きではなかった。あの、暗い響き、ドラマチックな重量感、コントラストとなる宗教的な、敬虔な教会音楽の響き 女性的なやわらかな響き、軽い、イタリアの風景が香るような響き、そういったものが半分も聴けなかったように思える。
歌手陣は、旧ソ連出身の両主役は、決して悪くはなかった。両者とも、かなり歌い慣れている役であったのはすぐわかった。声量も、音楽的にも良い部類に入るが、オテロ役は高音域のフレーズは中音域のと同じようなバイタリティーで歌えない、という欠陥があり、デスデモナ役は、技術的に未熟な歌手ではあるが、充分に「心」を歌える歌手ではあった。
合唱団は、短期間で学んだものと思われる。やはり、ヴェルディのオペラになると、身体にメロディーを染み込ませるくらい、ヴェルディの旋律が自分の言葉にならないといけない。声も、このレパートリーの合わせて一ランク上に実力が上がるくらい、コンディションを整えていかないといけない。これらはやはり、いくら譜面を見ながらでのコンサート形式とはいえ、何ヶ月もかけてじっくり熟成していく必要があっただろう。
オーケストラは、メンバーは国際的な顔ぶれだが、当然ポルトガル人出身の演奏家もいるはずである。しかし、このオーケストラはあの独特な、明るく熱い、ラテンの響きが全くしない。なぜだろう。ヴェルディの旋律をまるでコープランドのフレーズと変わらないような演奏をする。
オテロは、3時間以上の時間を要する、大きなオペラだが、いわゆる「正しいテンポ」で演奏されたフレーズは少なかった印象だ。オーケストラの経験不足は承知のうえとしても、指揮者先生の見解なのか、または近代的なホールの音響のせいなのか、自分にとってはヴェルディの響きではなかった。
自分はオペラ座専属の音楽家であるが、経済的危機にあるサオ・カルロス劇場は捨てたものではない、と感じた。
新聞の批評家や一部のお客さんはもうここ数年痛烈にサオ・カルロスの上演を批判するが、それは政治の盾として使われる感のある、国立劇場を通じて政治家批判しているようにしか思えなくなってきた。何事も、国の政治家がすることは納得いかない、というのがポルトガルの国民性である。
しかし、このグルベンキアンの上演を聴く限り、一音楽家の耳にとっては、サオ・カルロス劇場の方が上質である。

0 件のコメント: