離日してから25年になるが、いじめはその当時の学校でも同じことが話題に登っていたので、今も昔も何も変わっていないのだろう。
1対1の人間として、体が大きかったり、立場が上だったり、いろいろな力関係の違いから殴られる側はじっと我慢するだけで、なにも立ち向かえない。屈辱的であり、やられっぱなしのくやしいものである。
こういう理不尽な関係が同年代同士に発生するのが、いじめといわれるのではないか。本質的には、体罰と称するものと、いじめは同じと断言できる。自分より弱い立場にあるものにすりこむように存在感を示しつける。いじめっこは、自分のせいで苦痛を感じている相手という一種の鏡によって、自分のバイタリティーを確認することができる。体罰先生は、フィジカル的な苦痛、ショックによって、望むべく即変化をなす生徒を見るたび、自分自身の功績を感じる。
自分が通った小学校では、殴る、叩くという程度の体罰は愛の鞭でも何でもなく、ごく普通の罰であり、日常的に当たり前に行われていた。
プラスチック製の糊の容器を、頭を殴る体罰専門に使っていた小学校の先生もいれば、東京タワーと名前のついた、耳の横の髪の毛を上に引っ張るという、オリジナルな体罰を持っている先生もいた。耳を引っ張る体罰を持つ別の先生は度がすぎたのか、ある生徒の耳を裂いてしまい問題になり、養護クラス担当に左遷された。
自分は小学校運動会の開会式で宣誓をしたことがあったが、その公開練習で体育専門かなにかわからないが、顔を見るのも存在そのものも嫌だった先生に無言で手をひっぱたかれた。指をピンと伸ばしていないからだと、気づかされた。
中学では体罰の度を越した、暴力を振るう先生に2年連続でクラスの担任として当たってしまった。この人は奇声をあげ、自分の機嫌によって、思い切り殴ったり平手を打ったりする異常な先生であった。女子バスケ部の顧問としてその体罰主義は花を咲かせたらしく、その出来事はよく自慢話として聞かされた。あまりにきつかったので、生理が止まった子がいた、と嬉しそうに話していた。
一年だけ行った高校では、細い竹の棒を常持している数学の先生がいた。棒は、鞭として人を叩くのに使われるのである。つい居眠りをしていた女の子が、思い切り何度も殴られていた。
別の体育系の先生は、試験に遅刻した生徒の胸ぐらをつかんで投げ倒し、至近距離で怒鳴りつけていた。当時、試験をする必要性を感じなかった自分は、その出来事を文章にして試験用紙にすべて書くことにした。
自分自身、こういう暴力先生達に実際に殴られた経験はなかった。ただ、いつかこういう被害にあうのだろうかと常に恐怖心にかられた。暴力現場を目撃するのは非常に苦痛であり、またその光景は脳裏から離れないくらい、ショッキングなものであった。
自分は運動が好きで、できればサッカーや、野球といったメジャーなスポーツに取り組みたかったのだが、常に体罰、というより暴力主義が避けられないのは目に見えていたので、しなかった。家畜のように殴られたり蹴られたりは絶対にされたくなかった。
体罰先生は、自分なりに許容範囲があって、それを越したものに罰を与える。
いじめる側は、自分なりの何らかの基準に外れているものをいじめの対象にする。
考え方であったり、言動であったり、身なりであったり、からだつきであったり、なにか変なものを持っている人間を、自分との力関係を確認後、いじめの対象にすると決める。
一歩外に出れば、自分の価値観と違う、いわゆる変なものを持っている人間は、世界には限りなくある。空間が狭くなればなるほど、その「変な人間」はその世界の価値観に当てはまらず、差別を受け、生きにくくなる。
ところで、差別というのは、いじめと全く同じである。習慣、宗教、人種、身なりの違い、で何らかの力関係で立場が弱い、とされる側は、生きていく上でいろいろと制限を受ける。そのなかで、何かいじめる側に好都合なことがある場合にだけ、その報酬としてすこしずつ自由が認められる。
この世界に、差別といういじめを受けている人、団体、民族、国は、無数にあるのではないだろうか。ジプシーを呼ばれた、ヨーロッパ中で何世紀にわたって憎まれてきたロマ人はいったい、どれだけの屈辱的な話をもちあわせているのであろうか。アフリカで野獣のように文字通り引っ張り狩られて、船に乗せられアメリカ大陸の開発の人力として使われた、黒人奴隷よりはげしい屈辱を受けた人たちはいないのではないだろうか。
今までの人生の大半を異人として生きてきた自分は、幸いにも豊かな国際社会の時代に生まれたので、今まで受けてきた差別やいじめは、自分や家族の生命を脅かすほどでもなかった。自分が生まれた国である日本は、文化的にも、経済的にも、どのような国にも負けない、恐るべき大国である。日本人である自分は、そういうイメージに守られてきたのも事実である。
しかし、数多く耳にした明らかな人種差別的発言、異なる言語を母国語とするものとして、異なる習慣を持つものとして、異なる考え方をする人間として排他されることが実際にあることは、深く悲しく、それらに十分傷つけられた。
醜い差別、偏見は、なくなってしまうに越したことはないが、残念ながら、地球が存在する限りなくなるものではないと断言できる。欧州サッカーで人種差別主義、racismをなくそう、などというキャンペーンをやっているが、限りなく表面的なものにしか思えない。
この世の中では、人はある種に属する、要するにどこかに存在する価値観で生きる決意、自分の立場を認識して守っていかないといけない必要があるようである。
異国人として生きるということは、自分たちや自分の国のためではなく、今生活をしている国のため、そのひとたちにアドヴァンテージを与えるという姿勢で、生きてくべきである。それは人より多く仕事をし、人より貧しい生活をすることを意味する。
それが差別やいじめから逃れられる、生きる道だと信じる。
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