2014年12月11日木曜日
サオカルロス劇場とパオロ・ピナモンティ
今日の新聞上の最新ニュースで、わがサオカルロス劇場の事実上の最高責任者、ピナモンティ氏が退任した、とあった。
これはシーズンが始まってまもない時期の、突然の事件で、困ったことになってしまった。
自分は毎日劇場に通っているが、劇場内では、自分は仕事上の役目からして音楽のことのみ考え、楽譜に向かうことしかしていなく、数多い劇場の人たちと世間話することはめったにない。
というわけで、今日のニュースは全く知らず、家に帰ってネット上で初めて知った。そういえば、我がカルロス劇場のニュースは、普通はネット上から知る。一見不思議なことだが、これは現実である。
そもそも、国の唯一のオペラ劇場であるわがサオカルロスは、政治力が非常に強いところであって劇場監督の人事などは、必ず政治家の息がかかっている。
現在、ポルトガルの政治は波乱の状態で、最近、元首相のスキャンダルが目の当たりにされ逮捕され刑務所に送られたように、とても安定したものではない。
それに伴い我が国立劇場もあおりをくらうのは目に見えていて、来年あたりの政権交代の際には劇場のやり方、もしかして責任者も一新する、ということは誰もが承知のことである。
この時期にピナモンティ氏が退任、となるとその次の手があるかもしれず、これからの動きはちょっと心配ものではある。
ピナモンティ氏の退任には、当然政治家からの強い圧力があった。氏は、マドリッドのザルズエラ劇場の芸術監督も兼任しており、2つの異なる契約のもとでの仕事を禁ずるスペインの法律に反するもの、としてスペインのジャーナリストに取り上げられてしまった。
とほぼ同時期に、ポルトガル国内の政治家からも氏の契約についての明細書を求める動きが国会であり、報酬について、契約内容など、いろいろなことが新聞上に書かれた。
政府発信のネット上では、ピナモンティ氏の契約書が誰にでも閲覧できる状態にある。これは正常のことであるとはおもえないが。。。
プライバシーの問題はないのだろうか。驚きものである。
2014年10月21日火曜日
SAMURAI ÉVORA
相変わらずエヴォラには大学の方へ教えに向かうが、最近、この1年くらいはいつも同じレストランで昼食をとっている。
それも、最近なんだか昼休みが楽しみになってきたくらいだ。
というのは、伝統的なアレンテージョの料理を味わえるエヴォラにいながら、中国人経営の、すし+アルファのレストランに通うことになってしまったから。
大学からは城壁を沿って通って歩いて5分、客席が200はあろうかという大型レストラン、名前はSAMURAI。
例によって、数多い中国人経営のレストランは日本人には敬遠されていて、一般的には日本で馴染み深いお寿司とは程遠いものを出されるのが、ヨーロッパでの通常のイメージではないだろうか。
そういったわけでしばらくこの店も、店の名前や、けばけばしい店内装飾から、まず行かない店と思っていたが、ある時誘われて行ってしまった。
ビュッフェ式の、食べ放題。握り寿司は、サーモン、まぐろ、タイ、バターフィッシュ、えび。巻の方は数多くあり、半分以上はカラフルな、フルーツも使った制作もの。
その他にも、鉄板焼き用のコーナー、チャーハンや焼きそば、手羽先のような通常の中華料理店にあるメニューのビュッフェ、フルーツ中心のデザートもある。
値段は飲み物なしで、昼9,90,夜は12,90ユーロ。
レストランは非常に繁盛している。いつもエヴォラの別のところではまずお目にかからないくらいの数の人がいる。しかし、どんなに人が多くても、品を切らすことがない、立派な店だ。
肝心のお寿司のほうだが、ネタは新鮮で、マグロは日によって質が違うが、一度素晴らしく美味しい物にあたったこともある。
握りに付いているシャリ、ご飯は味、やや固めの炊き具合といい、全く申し分ない。
自分には嬉しい事に、ここには醤油にむかし回転寿司であった、甘口のしょうゆがある。
日本にいた時分はもう一昔、26年前のことだが、当時何度か行った回転寿司ではいつも甘口醤油を選んでいた。
ヨーロッパで、しかも海岸から離れた、エヴォラで食べる、中国人のすしが、むかしの回転寿司を思い出させるとは、決して想像できないことだった。
何度も通っていたので、ある日、店のオーナーさんから声をかけられた。
何か、ネタであったほうがいいと思うの、ありますか。
なにか、お寿司でおかしいと思うことありますか。
自分たちには伝統的な料理ではないので、いつも改善したいと思っている。
。。
自分ごときにこのようなこと聞いてくるなんて、素晴らしい心構えだ。
このような謙虚な、レストラン経営の中国の人たちは自分のイメージに全くなかった。
ネタについては、色々提案したが、その中でそれまでなかったかっぱ巻き、がメニューに取り入れられたようだ。
ほんとうはたまごが欲しかったのだが、たまごは作るのに時間がかかり、割にあわないという。
http://www.tripadvisor.com.br/Restaurant_Review-g189106-d3529113-Reviews-Samurai-Evora_Evora_District_Alentejo.html
2014年10月19日日曜日
RYL MUSIC!!
長い間あたためていた計画、アソシエーションを設立すること、がようやく実現した。
名前は、同じ志を持つ共同設立者との頭文字をとって、RYL MUSIC となった。
事務的な手続きは大体終わり、これから組織づくりをして、3ヶ月内に公開しないといけない。
あと、人が4,5名くらい必要で、さてどうしようか。ホームページももういつでも立ちあげれるはずが、どうも扱い方がわからない。。
コンピュータ関係の誰かに、助けを求めないと。
アソシエーションの設立によって、色々なコンサートの企画ができれば、と思う。
アイディアは、尽きることなくあるのだから。
2014年8月1日金曜日
心(臓)の成長
TGAの患者である息子は、親にとって申し分のない健康な状態で、4歳7ヶ月を迎える。
旧学期も終わり新しい住居で、9月からは学校も変わるという、新たなサイクルが始まろうとしているようだ。
体は決して大きくないどころか、1m超えるか超えないかで、クラスの同年代のどの女の子より小さい。
体が小さいのは、決して心配事ではない。むしろ、安心しているくらいである。
親にとってさいわい、運動の方も、ボール遊びもルールを使う、他人と競うようなものは嫌いなようで、水泳も嫌い、で激しいものはしないで済んでいる。走り回るのが唯一の運動だ。
学校で見る空手はやってみたいようだが、これは柔道やほかの組み手競技と並んで、できたら一度もしてもらいたくない、避けて通ってほしい種目である。
術後の心臓の方は、恐れていた血管狭窄や大動脈弁逆流といった後遺症はなく、状態はとてもいいらしい。
いや、逆流はまったくないわけではない。元々弱い方の、肺動脈弁を体全体に血液を送り出す大動脈弁として代用して使っているので、いいわけがない。距離にして、心臓から肺までと、心臓から体全体へとどれくらいのメートルの差があるのだろう。送り出す血流の圧力のちがいと言ったら、そんな数値など、知らない方がいいかもしれない。
逆流はなし、という診断は受けたことがない。いつも微々たるもの、最小、などで、心臓の雑音もどの医者でも聞き取れるくらい、ある。
要するに、成長につれて、体が大きくなるにつれて、血流の圧力も増し、親の心配も大きくなっていくのだ。気持ちとして、息子の心臓は、人の倍の早さで年齢を重ねている、と思うというか、人に説明するときにそうやってしている。歴史が浅い、ジャテネ(発明者のジャテネ先生は現在の生きておられる方である)手術、その改訂型であるルコント手術では、成人になってからの例が、まだない。しかし、40をすぎてからは、何らかの大きめな手術が必要になってくるかもしれない。そのころには、人工の大動脈弁、一生分使えるようなもの、になっているのであろうか。西暦2050年の話しである。
息子はそういったわけで、本来よりもかなり、甘く育てられているかもしれない。親としては、生まれてすぐ、死と崖っぷちの状態になり、奇跡の手術を通って綱渡りの幼児期を過ごした、または現在進行形である息子を、特別扱いしないわけにはいかない。
しかしながら、そういう息子だからこそ、心のほう、健康に育ってもらいたいと、日々気を使っている。いつでも対話できる、親でいたい。苦しいときには、受け皿になれるような、信頼関係を持ちたい。世の中で、どこでも肘を張って生きていけるような、強い心を持った男になってほしい。
そういう息子にとって、また親にとっても、これから新たなサイクルが始まろうとしている。妹の誕生が迫っているのだ。
親にとっては、願わくば、心身体完全な、わが赤ちゃんとの生活が始まる。生後1ヶ月を病院でなく、自宅で迎えるというのは、親にとっても初めての経験になる。
正直、怖くてしょうがない。4年前の、息子の誕生に起こった悲劇と奇跡の生還、なんてことはもうこりごりである。
2014年7月16日水曜日
ブラジル風ネッシュリング
指揮者のジョン ネッシュリング氏が、リスボンに登場した。
8年前の、サンパウロでの指揮者コンクールに参加して賞をとった時の審査員長、ということで再会を結構楽しみにしていたのだが、
挨拶に行くと全く自分のことは憶えていないような。
自分のことを手短に説明しても、まるっきり憶えていないよう。
しかも、話し相手にしないよ、というサインを出されたのか、「憶えている」という嘘もつかれてしまった。
残念で、悲しかった。
自分とは、せいぜいそれくらいの、無意味な存在であると思い知らされた瞬間を味わってしまった。
彼は、たしかに偉大な人物である。
音楽家の家系で、あのシェーンベルクの直系の親戚だという。
語学に達者で、何言語かを流暢に話すという。
5年ほど滞在していたリスボンでは、ポルトガルのポルトガル語を話す、唯一と言っていいブラジル人であったという。
聞いたことはないが、彼の書いた文章からして、ドイツ語も完璧らしい。
サンパウロの一角、決して治安のいいところではないプレステス駅の周辺を音楽区にする、という雄大な野望を持っていた人物。
荒廃状態であった旧プレステス駅は、南米最高のコンサートホールに姿を変えた。完璧な音響だけではなく、建築物としても見事である。
これは、いうまでもなく、ネッシュリング氏の力で実現した。
彼のオーケストラ、OSESP、サンパウロ州交響楽団は、彼の言葉によると、世界各国の大オーケストラに劣らない、タレントの集まりである。
アメリカの交響楽団のような金管を持ち、ヨーロッパの交響楽団の木管、そしてロシアの弦楽、そしてなにより、ブラジルの固有の文化が数多く産んだ、打楽器のタレント集団。
オーケストラは、未だに未熟な自分が言うことではないが、実際指揮してみて彼がそこまで言うくらいの、世界有数の音楽家の集まりとは思えなかった。
響きはたしかにすばらしかったのだが、どのレパートリーでも、隅々まで熟知しているような感じはしなかったような。
ネッシュリング氏は、その後、政府によってオーケストラから去ることになったという。あれほどまで精力を尽くした楽団から去ることになるのは、無念だったであろう。
現在は、新たにサンパウロのオペラの音楽監督になった。
この不況の世の中で、劇場の予算を拡大できるのは、彼くらいだろう。なぜ、そのようなことが可能なのだろうか。
ぜひ、彼のオペラ劇場で仕事をしてみたいと密かに思っていたのだが、全く顔も憶えてもらえていないことでは、とても叶いそうもない。
2014年7月1日火曜日
リスボンの無法地帯
リスボン市内、特に劇場のあるバイシャとよばれている地区は、アップダウンが激しく、狭く、一方通行が多くさらにはデコボコの石畳の道、とあって車で通るには勇気がいる。
ここ数年は川沿いの区間がずっと工事で、あまりにも混雑していて、平日、休日に関係なく常時渋滞が当たり前の地区だ。
そこの地区に駐車するとなれば、更に勇気がいる。
まずなかなか駐車スペースが見つからないのは当然として、見つかっても1時間2ユーロは軽くかかる、高い駐車料金だ。
平日は朝8時から夜の2,3時まで有料とある。
この都市は、駐車の際、一番近くの販売機まで走って時間限定が印刷されたチケットを入手し、フロントガラス越しに見えるように車の中に置く、というシステムをつかう。
しかしここは、ドイツやオーストリアと違って、市のあちこちに無法地帯、要するに有料駐車地区でもタダで駐車できるところがあるのだ。
チケット点検に来る人間が足を踏み入れない地域のことだ。
道でクルマを駐車スペースに誘導している人たち、見たからにして路上生活者か、それに近い生活をしていると思われる人たちは、一見金をたかってくるだけの印象があるが、
実は彼らはこういう無法地帯に精通している、貴重な存在なのだ。
彼らは、まさしく路上のことは王様のようになんでも知っている。
彼らに今チケットを置くべきなのかどうかを聞くと、必ず答えを持っていて丁寧に教えてくれる。この人達とは、実は顔見知りになっておいたほうがいいのだ。
情報代として、1ユーロをこっそり渡すのは言うまでもない。必ずといっていいほど、礼の言葉が返ってくる。
ただし、こういう人たちに対して横柄な態度を取ったり、小銭を渡さなかったりすると、逆にスリ団に車の中の様子をパクられる危険性が出てくる。
警察はこういう仕組みをよくわかっているはずだが、彼らが捕まえられたりはまずしない。
リスボンは、まだこういう文化がある都市である。
この先、必ずなくなっていくであろう、文化である。残念といえば、残念だ。
2014年4月17日木曜日
4月16日
4月16日は自分にとって、特別な日である。
季節的なこともあるが、この日は、毎年決まって快晴になる。
誰の誕生日でも、結婚記念日でも、何でもない。
1988年にウィーンに向けて飛び立った日である。
言うまでもなく、当時16歳だった自分の人生の分岐点になった。
毎年飛び立った日のことを思う、大切な日である。
飛び立つ機内で窓の外を眺めながら、
「10年は日本に帰らない」
などと唱えていたものである。
当時の自分は、実績も実力もなく、到着先での今後の予定も所属先もないような状態で、
まさに自らの希望だけに頼っていたものだったが、自信満々のティーンエイジャーにとっては怖いもの無しだった。
むしろ、未知の世界にて今後の生活に対する好奇心でいっぱいであった。
ウィーン到着後の身の回りでは、期間を決めて明確な目標を定めて留学してきた人ばかりのように思えた。
周りの誰もが、恐ろしく完璧に楽器を演奏していた。
自分にはウィーンでも、さらに日本でも受け皿がない状態だったので、それに気がついてきたときは大きな不安に襲われた。
(何かをしないと、とんでもないことになるかも。。)
できることは、7時間ピアノに向かってとにかく「何か」をすること、言葉の勉強をすること、本を読むこと、新しい音楽を聴くこと、それくらいのことだけであったので、とにかくしばらくそうすることにした。
ウィーン到着後、すぐにいろいろな事情があり頼っていた先生から離れてしまったので、ピアノの先生がいない状態も半年以上続いた。
指揮を学びたいと言っても、何をどうしていいのか、まったくわからなかった。
その後、幸運にも、いろいろな人たちとの出会いのなかで、はげまされ、たくさん助けられ、助言もいただき、少しづつ先に進むことができた。
その方達には、本当はもっと感謝の気持ちを、今でもずっと伝えないといけないはずだ。
しかしその反面、何のあてもないも自分を利用したり、惑わせようとしたりする人物にもたくさん出会った。
自分の将来をかけて信用していたはずのピアノの先生方であったり、異国の地でのさびしさをまぎわらすための対話相手をさせられたり、オペラの立ち見席で出会っただけの、旅費を浮かせようとして宿泊を願ってくる旅行者であったり、ほかにも様々な理由で友人や恩人を装って利用しようとする人は少なからずいた。
そんな中で、完全無防備だった自分は、なぜか、危険な状態になる前になにかから守られて、ごく普通に生き延びることができた。
苦く、つらい時期だった。幸運だったとしか言いようがない。
どんな人にたいしても、日本人であろうがなかろうが、社会的地位があろうがなかろうが、良い人を装っていようが、利益を持ちかけてこようが、
「人を見る、見透かす」という習慣を数多くの失敗の中から得ることができた。
これが、生き延びるための、唯一の手段だったのかもしれない。。
ウィーンに向けて発ってから、念頭にあった10年どころか、26年も経過した。
今はもう、「生き延びて」いるだけではない。
自分がもともといたところに帰る必要もない。
26年前は今の自分の姿を、全く想像もできなかった。
いままで生きてきて、本当によかった。
2014年3月24日月曜日
ヴィラ・ロボスのバッキアーナ
先日、カステロ・ブランコという町の大学に招かれて、ヴィラ・ロボスのバッキアーナ第5番、日本ではブラジル風バッハとよばれる曲を指揮する機会があった。
エイトール・ヴィラロボスは、好きな作曲家の一人である。
しかしながら、彼の曲はなかなか一般的な演奏会のプログラムに取り入れられることはまだなく、自分もこれまで作品に触れる機会は多くなかった。
それでも今まで出会った作品はどれも、名人によって書かれた、傑作ばかりだ。
人生はまだ長いし、いつか1000曲はあるというが、全ての作品に触れてみたい、と思わせられる音楽である。
音楽学的な見方はどのようなのかわからないが、このブラジル人作曲家の技法は、ヨーロッパではなかなか取り入れられなかった、ジャズ、またはボッサノヴァの和声学的な要素を絡ませて独特である。
おそらく、あの複雑なボッサノヴァの和声の動きを自由に譜面に書けたのだろう。
こちら、ポルトガルではヴィラロボスの音楽は、間違いなく愛されている。
どこか、独特な悲しい旋律が空間に漂う感じなどは、ポルトガルのファドの音楽にも似ている気がする。
大学の学生たち、8人のチェリストたちは全員、曲に愛情を持って入り込んでいるのがよくわかった。
2時間ほどのリハーサルに、すぐ本番というものだったが、皆で曲をだんだん把握していく、というプロセスをとてもスムーズにできて、なんだか優等生グループを前に教える先生のような気分になった。
チェロの重厚であって、かつ透明な合奏の上にヴォカリッゾで歌われる、ソプラノのパートは、元ウィーン歌劇場の合唱団員で、現在は当地、カステロ・ブランコに住むマヌエラ・コスタにお願いした。
この歌手は、1999年にオーストリア・アイゼンシュタットのエスターハージ城で一緒にオペラの仕事をした、元仲間である。
短い時間ではあったが、本当に有意義な時間を過ごせた。久しぶりに指揮する、という緊張感を味わえたし、なによりも、ヴィラ・ロボスの音楽に触れられてただただ幸せであった。
2014年2月15日土曜日
ゴーストライターについて、その2
今回のこの「事件」、佐村河内氏と彼のゴーストライター、新垣氏にまつわるニュースは、大変苦しんでいるであろう当事者には申し訳ないが、
一人のちっぽけな音楽家である自分にとって興奮するくらい、おもしろくてたまらない。
なんだか、この一連の話しに、音楽家、または芸術家、または人としての生き方のヒントがたくさん詰まっている気がする。
曲そのものについては、ユーチューブで聴ける限り、普通にしっかり、アカデミックに書けているものと思う。別に目新しいことはなく、斬新な音楽ではないと思う。
というか、この事件があったので10分、20分聴いてみただけである。自分には別にこの音楽そのものには興味がない。この音楽によって、ある社会現象が起こったことの方に、大いに興味がある。
どういう手段であれ、この「作曲家」は前人未到といっていいくらいの、大ヒットを飛ばしていたからである。
20年足らずで、「自分の」作品のみで億単位の額を稼いだ、現代作曲家の名を挙げてみる。
90年代に「交響曲第3番」でイギリスのヒットチャート10位になった、ポーランドの前衛作曲家、グレツキか。この人は、長年大学教授の職にあった。
数多くのオペラの依頼作品によって、プール付きの家を持てるようになったという、シュニトケか。この人は、とうに亡くなっている。
4、50もの映画音楽で主な収入を得ていたという、武満か。この人も90年代に亡くなった。
名を得てから、徹底した商業主義的な作法に徹した、ペンデレツキーか。
ブーレーズもかなりの収入を得ているだろうが、そもそも彼は音楽歴史上の稀な天才の一人である。
ブロードウェイのロイド・ウェッバーや、映画のジョン・ウイリアムスのジャンルになると、もっと桁違いの額を稼いでいるだろう。
今回の話しで一番気になることは、ゴーストライターの新垣氏の経歴である。
作曲科を卒業し、その後主な生活の糧として天下の桐朋で、和声学の先生をしているらしい。
例のオリンピック関係で有名な、義手の少女ヴァイオリニストが通っていた音楽教室のピアノ伴奏者をしていた、というくらいだから結構ギリギリの生活をしているはずだ。
ゴーストライターとして18年で700万もらっていたというから、一年当たり40万足らずというと、ヒットした曲に比例しない、かなり少ない額ではあるが、
彼にとっては助かる副収入になっていたはずだ。
興味深いのは、彼には大変失礼な表現ながら、桐朋の非常勤講師にすぎない人物が、CDで18万枚も売れるヒットを生み出した事実だ。
彼の書くような音楽でも、優れたマーケティングによって、大ヒットになりうる夢のようは話しは、自分のような小音楽家にとって大きな励みになるではないか。
彼は、自分の曲が大衆に親しまれたことに、非常に興奮したことだろう。
と同時に、作者である自分自身の名前が公表されず、影武者として生き、生活の糧を小さな音楽教室の伴奏者、要するにお手伝いさん、として稼いでいる事実は受け入れ難いことであったはず。
事件後新聞には、その分野の識者による、この新垣氏の音楽の、「本当はどうなのだろうか」という評価がいくらか見れた。
大野和士氏は、言わずと知れたヨーロッパで第一人者として活躍する、巨匠である。現在リオン(リヨン、と通常表記されるフランスの都市)の音楽監督である。
ヨーロッパの音楽界を知っている人であれば、彼の経歴がずば抜けてすごいのは一目瞭然である。彼は、正真正銘の、ヨーロッパ、世界の音楽の伝統を引き継いていく人物である。
そういう人物である大野氏が、この偽ベートーベンについて意見を言っている記事を見つけた。
この事件の前に、人からぜひ一度聴いてほしいもの、として紹介されたらしい。
音楽は典型的な劇伴で、作曲の勉強をした人ならだれでも書ける程度のもの、という批評であった。
これは、個人的には少し驚かされた。なぜこういう発言をされたのだろう。
大野氏は、この事件のことで憤慨されているのかもしれないが、作曲者の新垣氏、世間から冷たい目で見られているであろう人物にとっては、価値の無い音楽、と言われたのも同然であまりに気の毒である。
劇伴である、という短い批評だが、自分にはあまり良く意味が分からない。言ってしまえば、広く愛されている久石譲氏や、ジョン・ウイリアムス氏の映画音楽だって、ただの「劇伴」にすぎないのではないだろうか。
マーラーの音楽は?
しかしこの音楽は確かに劇伴として、全ろうの佐村河内氏というイメージの伴奏音楽として、大いに機能していたのである。
佐村河内氏のことだが、音楽の才能はまったくないとしても、自らの人格やら存在そのものを投げ打って、全ろうの作曲家、というイメージ作りに徹して、音楽を多くの人たちに聴いてもらうことに見事に成功した。
これは、すばらしい才能だと思う。
轟音のような耳鳴りのすき間からふり降りてくるメロディーを譜面に書くんだ、など天才的な発想ではないか。そういった同じ経験を持つ人などこの世にいないだろうから、大衆からどういう音楽だろう、と興味を持たれるのは当然だ。
この人が生み出したイメージそのものが主役となり、広く聴かれた音楽は、その架空の人物のイメージの伴奏音楽として人の心を打った、ということだろう。
佐村河内氏の存在そのものがお芝居、ちょうど今テレビで世界中ではやっている、リアリティーショーそのものであったのだから。
人というのは、音楽から何をイメージして聴いているのか。
響く音楽のうしろにきこえる作曲者の声。
音楽が描く、色彩豊かな絵。
音楽が伝える、ドラマ。
そもそも人は、楽器が発する響きを、浴びているだけではないのかもしれない。
音楽を聴きながら、その奥に潜んでいるものを想像し、探し、ファンタジーを描く、というプロセスを楽しんでいるのかもしれない。
これは、音楽を聴く全ての人が持つ、立派な権利である。
ベートーベンの「運命交響曲」にまつわる逸話、運命はこのように扉をたたく、は実際にあった話しなのだろうか。
ショパンの「革命」は、ワルシャワ革命に怒りを込めて作られた、とは本当の話しなのであろうか。
レニングラード交響曲には、侵略してくるナチ部隊の様子が書かれているという。ショスタコーヴィチは、本当にそう意図して書いたのか。
自身の死を予感して書かれたというモーツアルトのレクイエムは、実際はもしかして半分以上、弟子のスゥースマイヤーの創作ではないか。
本当のことはもう今となっては、わからない。
人びとはただ、そういうドラマチックなおとぎ話しとともに、それらの音楽を愛してきたのだ。
2014年2月9日日曜日
ゴーストライター
耳が全く聞こえないという作曲家、いわゆる現代のベートーヴェンが週刊誌の告発を受けて、自ら他人に作曲してもらっていた、と明かした。
それだけでなく、代わりに作曲をしてもらっていた人、ゴーストライターからいろいろなことを公に告白されてしまった。
作曲どころか、音符も書けない。
ピアノもちょこっとしか弾けない。
耳は、どうやら普通に聞こえているそう。
要するに、ベートーヴェンどころか、全く普通の人だということが判明してしまったようだ。
ペテン師なる人の、化けが剥がれた瞬間である。
ペテン師のインチキの話しというのは、はたから見ると非常におもしろい、娯楽性にあふれるものである。
オウム真理教や統一教会、または創価学会に至る、各新興宗教に関するニュースは、みな娯楽性にあふれるものではないか。
ちょっと前の映画、いろいろなハッタリで生きていった、catch me if you canという映画で大いに楽しんでいたではないだろうか。
ここにはすべての音楽家にとって、直面すべき問題が多々ある。
なぜ、ゴーストライターが20曲で70万円という、アルバイトで書いていた音楽、が18万枚も売れるヒットになったか。
自分に全く音楽に才能がない人間が、金を払って曲を作ってもらい、実際それを売って、作曲家として大金を稼いだこと。
現代のベートーベン氏なる人は、音楽界のマーケティングなるものを、完全に制覇していたことになる。
人が聞きたい音楽を世に出し、全ろうあであり、苦しみながら作品を書くという自分を作り上げ、20年近くも作曲家として生きてきた。
今さらながら、曲そのものに価値があるのかないかは、議論する意味がないと思う。
個人的には、ゴーストライターさんは当然、現代のベートーベンさんにも怒りは全く湧かない。
インチキで音楽家として生きているような人は、そうでない人より出会う機会が多いではないか。
理解できない、というより自分の怒りの先は、そういうCDやコンサートをしていた団体であり、彼らが手のひらを返したようにキャンセルしたり、販売をストップしたことだ。
なぜ?
こういう時こそ、CDなぞは一番売れるはずではないか。
これからの売り上げが、ゴーストライター氏の手に、または震災地の人々の手に渡るような、アイディアはなかったのか。
いずれも、普通に考える、資本主義では考えられない結末である。
世論がそう望むから、とでも言うのであろうか。
世論なぞは、所詮マスコミが自由にコントロールしているのではないか。
リスボンの日本人学校
リスボンにも日本人向けの学校がある。息子が5歳になる年、幼稚園の年長から通う予定だ。
息子が生まれたときから、日本語教育のことは心配していて、ポルトガルの学校に通うであろう息子の日常生活では必要のない日本語だが、
父親である自分は息子とは日本語だけで会話をするようにしている。母国語である日本語を話さずして、自分の子供と親子の関係を築くことはむずかしいのではないだろうか。
4歳になって息子は、とうに父がポルトガル語を理解するのは見透しており、返事はポルトガル語であり、特に最近は息子の口から日本語がでてこない。
日本語のみでの会話は今のところ無理強いしないが、まだ会話がとても成り立たない。
そういうわけで、この日本人学校にはちょっと期待を寄せている。
日本人学校、というが正確には補習校という名前がついていて、週に一回、土曜日の午前に国語と算数の授業をやってもらうという、ごく小さな集まりだ。
学年に多くて3,4人、少なくて0という、この街、リスボンにはヨーロッパの首都としてはめずらしく、日本人ファミリーが少ない。
先日、ある土曜日の家族の外出中に、偶然近くを通っていたので、アポ無しで下見を兼ねて覗いて見ることにした。
4歳になった息子は新しい学校だ、とウキウキしていたのもつかの間、建物内に入り、父兄方々が話をされているのを見るなり、パパの後ろにくっついて離れなくなってしまった。
父兄の方々を話しをする。息子のことを説明すると、直接「何さい?」と訊いていただいた。
すると、指を4本立てて見せた。 それだけのことだが、親以外で初めて息子が日本語の質問に反応するのを見て、いやにうれしくなってしまった。
後は何訊かれても、とにかく恥ずかしがって何も答えようとしなかったが、親としてはこれを機会に息子がどれだけ日本語を理解しているか、披露したくてしょうがなかった。
2014年1月3日金曜日
バーンスタインのキャンディッド
あけましておめでとうございます。
サン・カルロス劇場で仕事するようになって9年も過ぎようとしているが、年始一日にニューイヤーコンサートが開催されたのは今年が初めてだった。
テレビ局も入り、生中継での「キャンディッド」であった。
コンサート形式ながら、劇場のホールはほぼ満席になり、テレビのほうも上々だったようで、大成功に終わったようだ。
やはり音楽家として生きるのなら、年末年始、仕事をしておきたいのが本音だ。
ウィーンのニューイヤーコンサートとまではいかなくても、ポルトガルならではの演目をこれから毎年、恒例になるまで続けていってほしいものだ。
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