2014年4月17日木曜日
4月16日
4月16日は自分にとって、特別な日である。
季節的なこともあるが、この日は、毎年決まって快晴になる。
誰の誕生日でも、結婚記念日でも、何でもない。
1988年にウィーンに向けて飛び立った日である。
言うまでもなく、当時16歳だった自分の人生の分岐点になった。
毎年飛び立った日のことを思う、大切な日である。
飛び立つ機内で窓の外を眺めながら、
「10年は日本に帰らない」
などと唱えていたものである。
当時の自分は、実績も実力もなく、到着先での今後の予定も所属先もないような状態で、
まさに自らの希望だけに頼っていたものだったが、自信満々のティーンエイジャーにとっては怖いもの無しだった。
むしろ、未知の世界にて今後の生活に対する好奇心でいっぱいであった。
ウィーン到着後の身の回りでは、期間を決めて明確な目標を定めて留学してきた人ばかりのように思えた。
周りの誰もが、恐ろしく完璧に楽器を演奏していた。
自分にはウィーンでも、さらに日本でも受け皿がない状態だったので、それに気がついてきたときは大きな不安に襲われた。
(何かをしないと、とんでもないことになるかも。。)
できることは、7時間ピアノに向かってとにかく「何か」をすること、言葉の勉強をすること、本を読むこと、新しい音楽を聴くこと、それくらいのことだけであったので、とにかくしばらくそうすることにした。
ウィーン到着後、すぐにいろいろな事情があり頼っていた先生から離れてしまったので、ピアノの先生がいない状態も半年以上続いた。
指揮を学びたいと言っても、何をどうしていいのか、まったくわからなかった。
その後、幸運にも、いろいろな人たちとの出会いのなかで、はげまされ、たくさん助けられ、助言もいただき、少しづつ先に進むことができた。
その方達には、本当はもっと感謝の気持ちを、今でもずっと伝えないといけないはずだ。
しかしその反面、何のあてもないも自分を利用したり、惑わせようとしたりする人物にもたくさん出会った。
自分の将来をかけて信用していたはずのピアノの先生方であったり、異国の地でのさびしさをまぎわらすための対話相手をさせられたり、オペラの立ち見席で出会っただけの、旅費を浮かせようとして宿泊を願ってくる旅行者であったり、ほかにも様々な理由で友人や恩人を装って利用しようとする人は少なからずいた。
そんな中で、完全無防備だった自分は、なぜか、危険な状態になる前になにかから守られて、ごく普通に生き延びることができた。
苦く、つらい時期だった。幸運だったとしか言いようがない。
どんな人にたいしても、日本人であろうがなかろうが、社会的地位があろうがなかろうが、良い人を装っていようが、利益を持ちかけてこようが、
「人を見る、見透かす」という習慣を数多くの失敗の中から得ることができた。
これが、生き延びるための、唯一の手段だったのかもしれない。。
ウィーンに向けて発ってから、念頭にあった10年どころか、26年も経過した。
今はもう、「生き延びて」いるだけではない。
自分がもともといたところに帰る必要もない。
26年前は今の自分の姿を、全く想像もできなかった。
いままで生きてきて、本当によかった。
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