2014年2月15日土曜日

ゴーストライターについて、その2

今回のこの「事件」、佐村河内氏と彼のゴーストライター、新垣氏にまつわるニュースは、大変苦しんでいるであろう当事者には申し訳ないが、 一人のちっぽけな音楽家である自分にとって興奮するくらい、おもしろくてたまらない。
なんだか、この一連の話しに、音楽家、または芸術家、または人としての生き方のヒントがたくさん詰まっている気がする。
曲そのものについては、ユーチューブで聴ける限り、普通にしっかり、アカデミックに書けているものと思う。別に目新しいことはなく、斬新な音楽ではないと思う。 というか、この事件があったので10分、20分聴いてみただけである。自分には別にこの音楽そのものには興味がない。この音楽によって、ある社会現象が起こったことの方に、大いに興味がある。
どういう手段であれ、この「作曲家」は前人未到といっていいくらいの、大ヒットを飛ばしていたからである。
20年足らずで、「自分の」作品のみで億単位の額を稼いだ、現代作曲家の名を挙げてみる。
90年代に「交響曲第3番」でイギリスのヒットチャート10位になった、ポーランドの前衛作曲家、グレツキか。この人は、長年大学教授の職にあった。 数多くのオペラの依頼作品によって、プール付きの家を持てるようになったという、シュニトケか。この人は、とうに亡くなっている。
4、50もの映画音楽で主な収入を得ていたという、武満か。この人も90年代に亡くなった。 名を得てから、徹底した商業主義的な作法に徹した、ペンデレツキーか。 ブーレーズもかなりの収入を得ているだろうが、そもそも彼は音楽歴史上の稀な天才の一人である。
ブロードウェイのロイド・ウェッバーや、映画のジョン・ウイリアムスのジャンルになると、もっと桁違いの額を稼いでいるだろう。
今回の話しで一番気になることは、ゴーストライターの新垣氏の経歴である。 作曲科を卒業し、その後主な生活の糧として天下の桐朋で、和声学の先生をしているらしい。
例のオリンピック関係で有名な、義手の少女ヴァイオリニストが通っていた音楽教室のピアノ伴奏者をしていた、というくらいだから結構ギリギリの生活をしているはずだ。 ゴーストライターとして18年で700万もらっていたというから、一年当たり40万足らずというと、ヒットした曲に比例しない、かなり少ない額ではあるが、 彼にとっては助かる副収入になっていたはずだ。
興味深いのは、彼には大変失礼な表現ながら、桐朋の非常勤講師にすぎない人物が、CDで18万枚も売れるヒットを生み出した事実だ。 彼の書くような音楽でも、優れたマーケティングによって、大ヒットになりうる夢のようは話しは、自分のような小音楽家にとって大きな励みになるではないか。 彼は、自分の曲が大衆に親しまれたことに、非常に興奮したことだろう。
と同時に、作者である自分自身の名前が公表されず、影武者として生き、生活の糧を小さな音楽教室の伴奏者、要するにお手伝いさん、として稼いでいる事実は受け入れ難いことであったはず。
事件後新聞には、その分野の識者による、この新垣氏の音楽の、「本当はどうなのだろうか」という評価がいくらか見れた。
大野和士氏は、言わずと知れたヨーロッパで第一人者として活躍する、巨匠である。現在リオン(リヨン、と通常表記されるフランスの都市)の音楽監督である。 ヨーロッパの音楽界を知っている人であれば、彼の経歴がずば抜けてすごいのは一目瞭然である。彼は、正真正銘の、ヨーロッパ、世界の音楽の伝統を引き継いていく人物である。
そういう人物である大野氏が、この偽ベートーベンについて意見を言っている記事を見つけた。 この事件の前に、人からぜひ一度聴いてほしいもの、として紹介されたらしい。
音楽は典型的な劇伴で、作曲の勉強をした人ならだれでも書ける程度のもの、という批評であった。
これは、個人的には少し驚かされた。なぜこういう発言をされたのだろう。 大野氏は、この事件のことで憤慨されているのかもしれないが、作曲者の新垣氏、世間から冷たい目で見られているであろう人物にとっては、価値の無い音楽、と言われたのも同然であまりに気の毒である。 劇伴である、という短い批評だが、自分にはあまり良く意味が分からない。言ってしまえば、広く愛されている久石譲氏や、ジョン・ウイリアムス氏の映画音楽だって、ただの「劇伴」にすぎないのではないだろうか。
マーラーの音楽は?
しかしこの音楽は確かに劇伴として、全ろうの佐村河内氏というイメージの伴奏音楽として、大いに機能していたのである。
佐村河内氏のことだが、音楽の才能はまったくないとしても、自らの人格やら存在そのものを投げ打って、全ろうの作曲家、というイメージ作りに徹して、音楽を多くの人たちに聴いてもらうことに見事に成功した。 これは、すばらしい才能だと思う。
轟音のような耳鳴りのすき間からふり降りてくるメロディーを譜面に書くんだ、など天才的な発想ではないか。そういった同じ経験を持つ人などこの世にいないだろうから、大衆からどういう音楽だろう、と興味を持たれるのは当然だ。 この人が生み出したイメージそのものが主役となり、広く聴かれた音楽は、その架空の人物のイメージの伴奏音楽として人の心を打った、ということだろう。
佐村河内氏の存在そのものがお芝居、ちょうど今テレビで世界中ではやっている、リアリティーショーそのものであったのだから。
人というのは、音楽から何をイメージして聴いているのか。 響く音楽のうしろにきこえる作曲者の声。 音楽が描く、色彩豊かな絵。 音楽が伝える、ドラマ。
そもそも人は、楽器が発する響きを、浴びているだけではないのかもしれない。 音楽を聴きながら、その奥に潜んでいるものを想像し、探し、ファンタジーを描く、というプロセスを楽しんでいるのかもしれない。
これは、音楽を聴く全ての人が持つ、立派な権利である。
ベートーベンの「運命交響曲」にまつわる逸話、運命はこのように扉をたたく、は実際にあった話しなのだろうか。 ショパンの「革命」は、ワルシャワ革命に怒りを込めて作られた、とは本当の話しなのであろうか。 レニングラード交響曲には、侵略してくるナチ部隊の様子が書かれているという。ショスタコーヴィチは、本当にそう意図して書いたのか。 自身の死を予感して書かれたというモーツアルトのレクイエムは、実際はもしかして半分以上、弟子のスゥースマイヤーの創作ではないか。
本当のことはもう今となっては、わからない。 人びとはただ、そういうドラマチックなおとぎ話しとともに、それらの音楽を愛してきたのだ。

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