2012年12月18日火曜日

ヨーロッパとポルトガル

ブログは、なぜか手持ちのipadではエラーがでて更新できないでいた。家のコンピュータでは問題なくできたはずなのだが、息子が常にそばにいるのでなかなか何かをゆっくり書くことができない。息子にとって、コンピュータ、すなわちユーチューブはヴィデオの宝庫であって、観たいものをその場で選んで観れる、そういう類いの「物」だ。テレビなんて全然観ない。自分が観たいヴィデオをいつでも、好きなときに選ぶ。言語なんてごちゃごちゃで、日本語やポルトガル語、スペイン語や英語などおかまいなし、トルコやアラブ語のヴィデオも観るときがある。自分が小さいときは、日々のテレビ番組の時間に生活を合わせていたような気がするので、立場が逆転している。

この国、すなわち「我が」国ポルトガルは異様な雰囲気になってきている。いままで自分の収入なんぞは国の豊かさや経済的な動きとは全く無関係で、経済危機など身近に感じることはないと思っていた。しかし、トロイカ政策やらでここ数年公務員対象に給料カットがはじまり、ここ2年給料の10パーセントにさらに年に2月分でていたボーナスも全額カット、となるとかなり身にしみてくる。最低の年、と思われた2011、2年より来年さらに大幅な税金アップとなると、生活費をまかなえなくなってくる人はどうするのだろうか。ポルトガル人はオーストリア人などと違って蓄えをするような生き方をしてきた国民ではない。家賃や光熱費など、払えなくなってきたら払わないままほおっておく、そういうスタンスである。

かなりの蓄えのある人にとっては、投資のフリーパス状態の大チャンスである。いつの日か、人がまた正常に給料がもらえる日が来て払える物を払えるようになるのだろうが、その未来の日に儲けるのは今日、投資する人たちである。これがもともとこの国の問題であった、貧富の差をさらに広げることになるのは火を見るより明らかだ。

70年代の革命は多くのポルトガル人にとって誇りである。民衆の力によって自分たちの国を動かせた事実が自信になっているように思える。

今回の大ピンチはしかし、直接の原因になっている対象が国内にない。ヨーロッパ同盟、すなわちEUの政治を相手にしてはいまのところ、全く発言力も影響力もないので、言われるままである。同盟に参加したときから、ポルトガルは最貧国の一つで地理的にも経済的にも不利な位置にいた。常にEU内で経済的援助を受ける立場で、今日の世界的経済危機にあって責任を取られている格好だ。個人的には、この膨大になった国の借金なぞはまず返済しきれないのではないかと思う。

もしかして、EUから出てしまうことになってしまうのだろうか。

2012年10月15日月曜日

息子の状態

息子は最近よくいく、海岸線での散策で歩きたがらない時がある。普段は元気な子供で、4月からもう熱にかかっていないくらい体の方も丈夫になってきたようである。親の心配事は常にTGAの手術後の経過で、年に一度の心エコーの診察では心配になってくるものである。急にしゃがみ込む動作はもしかして、大動脈の狭窄が原因ではないだろうか。

そういうわけで、急遽わが家の英雄である、ドットール・ルイ・アンジュス先生に診てもらうことになった。結果は、心臓の穴はほぼ完全にふさがっており、弱々しかった弁は元気に動いており、血の逆流もほんのわずかに認められるのみ、ということである。

前回の診察でも100点満点であったが、今回はさらに状態は良くなっているということである。歩きたがらない、疲れを見せるそぶりは心臓ではないから、心配しなくて良いと言われた。息子は、小児心臓外科の優等生である!

12月の、年に一回サンタクルス病院のスタッフに顔を合わせるクリスマス会では息子の成長ぶりを披露するのが楽しみである。そのイベントには、パパが音楽家として参加することになっている。それは、許される限りずっと続けていきたいものである。

2歳9ヶ月になろうとする息子は、言葉の方もだいぶんポルトガル語中心に発達してきたが、まだ学校での出来事を詳しく話せるくらいではない。「今日どっかイタイイタイした
か?」の質問には答えられるようになったきたが、「誰がやったの?」の問いには決まって好きな女の子の名前をいう。本当かどうかわからないが、「イタイイタイ」の箇所、挙げ句の果てには虫刺されのあとまで全部その女の子が原因ということなので、冗談なのかもしれない。転校先の学校の先生方は、日々の出来事を話してくれるが、親の直感で前の学校でのように都合のいいことを並べているのではないようだ。

夏休みの間、一度もうまくいかなかったトイレトレーニングが進んで、もう少しでオムツが取れるかもしれない、というところまで来た。学校ではオムツを使わずでいる。感謝である。

例の週末の散策では、決まって海岸線に沿って歩いて20分の子供用の遊び広場に向かう。そこでは女の子たちには何か吠えておどかし、学校の友達に会った時には追いかけっこが始まって親の手に負えなくなるくらい活発である。


2012年9月2日日曜日

ヴィゼウ、ダオ。

8月には何年ぶりかに休暇らしい休暇をとった。行き先は、リスボンから北東にクルマで3時間に位置する、ヴィゼウ市郊外のポヴォア・ダオという、ローマ帝国時代から存在するという、「人口30人以下」の小さな村だ。

というのは、この村は何世紀の間見捨てられた、無人の村だったのだが、最近になって中世の村を旅行者向けに再現したようだ。山に囲まれた村には10軒ほどの、石造りの美しい家が並んでいる。

そこには農業が行われていたり、家畜が飼われているわけではない。あくまで観光目的の村なので、プールやスポーツ設備があり、そして趣味のいい、かなり高級感にあふれるレストランが併設されている。

内部は建物そのものが中世のままなので、内壁の石畳は外壁と同じで、室内は薄暗いが巧みなデコレーションで、容易に素晴らしい雰囲気を醸し出すことに成功している。
やはり中世時代のキッチンを模倣した、グリル場がレストランの中央にあり、様子を眺めるばかりか、シェフのおばちゃんは気軽に会話にのってくれる。

ワインリストはいわゆる「地酒」を中心に豊富にある。早速silgueirosという、レストランから徒歩15分にある土地の白ワインを知ることになった。

注文の前からさっそくパン、オリーヴ、ヤギの生チーズにマメラードが出てくるのだが、これらはすっかりいつも食べ切ってしまうほど、非常に美味だ。聞けばこれらは一般に売られているものではなく、近くの無機栽培の農家で作られているものだという。
味にくせが全くない、正統派の、素朴な味である。

素朴な味はメニューにある、このダオ地方の料理にも当てはまる。素材を生かした、ストレートに美味しいものばかりである。大袈裟ではなく、一生こういう料理で生活してもいいくらいの、全くクセのない素晴らしいものだ。料理はこの地方特産の、真っ黒の土器に乗せられてくる。この土器をお土産に持って帰ったことは、言うまでもない。

こちらポルトガルで一人前を示す、「dose」というのはかなり曖昧な基準である。普通田舎では、1doseは十分2人で食べれる量だが、必ずしもそうではないことがある。この、ポヴォア・ダオのレストランの1doseは、妻と小さい息子に、かなりの量を食べる自分にも食べきれないくらいの量があった。

同じくらいかなりの量が出てくるのは、ポヴォア・ダオからクルマで20分の、ポルトガルの誇る美しい町、ヴィゼウの一番のレストランと評判の「コルティッソ」でもそうであった。2歳半の息子のためにいつも頼む野菜スープは、半リットルくらい出てきた。ここでも、評判に負けない印象的な料理を美味しくいただけた。

ヴィゼウには美しい街並みにふさわしい、美味しいものを食べられるレストランはいろいろあるのだろうが、この機会にミシェラン一つ星をもらったという、「ムラーリャ・セ」にも足を運んだ。そこでいただいた、子牛の煮込み料理は申し分のないものではあったが、こちらの「1dose」はまさに一人前であった。しかし、こういう旅行者向けの、どこかによそ行きの感があるレストランよりは、クルマで10キロ以下の徐行運転しかできない、古ローマ時代の道もたくさん残っているような村、ポヴォア・ダオでの食事の方が印象深かったことは確かである。

ちなみに値段の方は、これらのどのレストランでも「1dose」は昼10-15ユーロ、夜15ー20ユーロと、決して高いものではない。すなわち、またいつでも、何度でも足を運べられる。

2012年8月1日水曜日

バイク

息子は外を歩いていて、バイクが通るたびに「モータ!おおきいモータ!」などと興奮して叫ぶ。おもちゃのミニバイクも3つも持っていて、バイクのどこのなにが好きなのかわからないが、そこらに駐車しているバイクには上に乗っかろうとして親を困らせる。

最近、ふとバイクというものはどのくらいの値段で変えるのかなと思ってインターネットでいろいろ見ていたら、なんと125ccまでのバイクは普通の自動車免許で乗れる、ということに3年前からなっているというではないか。

自分は20歳のときに自動車免許を取った。今現在、クルマは欠かせない生活の一部であることを思うと賢明な判断だったが、バイクの免許に関しては、B免許と同時に取得するのが普通だが、なぜか最初から取るつもりはなかった。ウィーンで一時期50ccの原付に乗っていたことがあったが、それもA免許は必要なかった。

道上からクルマを減らすべく、政府による環境や渋滞問題の解決案の一つであろうが、50ccと違い、125ccのバイクは半端ではない100キロ以上のスピードが出る。赤信号での停車状態から始まる、おなじみのヨーイドンではぶっちぎりでどんなクルマをも置き去りにする。カーブの走行や、ブレーキの仕方など未経験者にとってはわからないことばかりである。本来なら、何時間かの教習が必要だろう。

値段も、少々無理すれば届くところにあるではないか。雨の日の走行は危険という前に、ずぶぬれ状態になり走行後の行動に支障が出そうだ。それは差し引いて、市内では駐車や渋滞問題が解決し、それどころか150キロ離れたエヴォラまでも使えるではないか。それからずっとインターネット上での勉強が始まった。誰もが経験することであろうが、125ccに関しては知らないことはない、というところまで探求してしまった。

バイクの世界には、これまで一度も興味を持ったことがなかったが、クルマに比べて色、種類やデザインも豊富にあり、身につけるものも伴ってヘルメットやら何やらで、無限のごとく存在する。ヘルメット一つにしても、40ユーロのものから800ユーロもするのまである。防具の一つにすぎず、有効期間も5年というヘルメットに800ユーロも出費する人がいること自体、驚きである。バイクに夢中になる人の理由がわかったような気がした。

ウィーンで50ccの、ペダル付きでむしろ自転車に近いような原付バイクを乗っていたときは、乗ったときの自分の格好など全然考えていなかった。ヘルメットは一番安く、店内にあったサイズのものを買ったし、手袋は手元にあった、スキー用のを使っていた。時々道中でこちらを見て笑う人が少なからずいたが、今から思うと恥ずかしい格好をしていたものである。

2012年7月6日金曜日

停滞

ポルトガルに来て仕事するようになって、早いもので既に8年になる。

しかし残念ながら、仕事に関しては全く何も、自分が以前思い描いてきたようなことが成し遂げられていない。

何が原因なのか、常に解明しようとつとめているのだが、状況は自分の感覚では何もいい方向に変わってきていない。

一人の音楽家として、謙虚に努力する姿勢はなくさないようにしようと思うし、なるべく停滞の原因は自分自身にあるとして改善してきたつもりである。

しかし、もう8年もの自分には長過ぎる年月が経ち、そろそろ原因を自分の外にある事実を意識するようになってきた。

音楽家として、たいしたキャリアを積んできた訳ではないが、それでもこれまで9つの異なる国で活動してきた。要するに、プロの音楽家としてお金をもらった国の数が、「9」になる。ちなみに指揮者として、プロのオーケストラを振った経験は、8つの国だ。日本はまだない。

今日はっきり言えることは、ポルトガルでの仕事ほど、自分という一人の小さい芸術家が軽く見られたことはなかった。初めてポルトガルに行ったのは1995年、ポルト市での国際ピアノコンクールへの参加で、2度目は2000年のフィゲイラ・ダ・フォシュ市での、故アチェル先生の指揮のマスタークラスである。
95年のポルトではピアニストして最悪の経験の一つで、2000年はルーマニアのオケであった。コンサートでも指揮したが、企画の方は全くまともに計画されておらず、アチェル氏は危ういところで全て投げ出しそうになった。観客は20人ほどであった。

同じように、2004年から始めたリスボンのオペラ劇場での仕事も、音楽家としての脚光を浴びることはいっさいなかった。2007年から始めたジナジオオペラの仕事では観客を前にスポットライトを浴びることが多くなったが、どのようないい仕事をしたつもりでも、それらが認められて新たな仕事が舞ってくることはなかった。

自分の実力不足は承知の上である。足りない部分が何かもよくわかっている。しかし、微力ながら何かを少しでも動かすことはできないのだろうか。この国では、何かのアクションを起こそうとするとまず嘲笑され、次に欠陥部分を誇張され負のイメージを売られるのが常である!

コンサートでは、フレーズをどれだけきれいに歌おうが、オーケストラがどれだけ均一の取れた響きを披露しようが、逆にいい加減に楽器をたたいていようが、いいものも、悪いものもどうやら無関心でいるようである。別にいい音楽を聴けても聴けなくてもどうでもいい、という空気が流れている。あそこの、あの部分が本当にすばらしかった、という反応は夢の世界にしかないのだろうか。

これは音楽家にとってあまりに悲しい現実ではないだろうか。確かに、ポルトガル人からはここの音楽界は貧相で、将来的に何も期待できないよ、と初めて土地を踏み入れた1995年から常に言われ続けてきたが、それを認めたくない自分があり、何とか自分の力でどうにかしたい、という自負心があった。今、ここで書いたような意見もずっと、いろいろな方面からいやというくらい聞いてきた。

そういう土地で、8年のも長い年月にわたって生活してきたのは、人生は音楽だけではない、ということにつきる。人生は家族でもあり、子供の教育、将来でもある。

自分はそれでも、これからも続けてこの国、ポルトガルで生活する。人生は皮肉なものである。

2012年6月10日日曜日

ユーロ2012

ユーロと言っても、今日ポルトガルのような国が苦しめられている財政破綻のことではない。昨日始まったサッカーの話だ。

ポルトガル人はクラブレベルもそうだが、国対抗の試合になると普段見せない、愛国心を剥き出しにする。まさに国をあげて戦おう、という勢いであちこちでイベントなどが行われる。BES銀行が主催した、国代表のために走ろう、というマラソン大会には万単位の人が参加したようだ。

今回も数多くのスター選手を抱えた代表チームだが、現在のポルトガルの状態に合わせたように、自信を失っていていい成績を残せる気配はない。 厳しいグループに入ったこともあるが、3試合で終わって帰ってくるだろう。

サッカーは恵まれた環境にあり、財政的にも高いレベルにあって、ポルトガルの誇れる分野の一つだが、この最後砦も崩壊するとなると人たちの落ち込みぶりは目に見えている。 

隣国スペインも財政破綻寸前で、ポルトガルの人々には明日仕事を失うかもしない不安が常につきまとう。 サッカーもこのざまでは、何がきっかけで自信と誇りを取りもどすことができるのであろうか。

2012年5月23日水曜日

耳とチューブ

右耳にまだ残っていたチューブが耳あかの固まりと化して外にでてきた。
この青色のチューブはもうだいぶん前から鼓膜から外れていて、その本来の役割はなしていなかった。小さいチューブの穴は完全に耳垂れのようなものでふさがっており、しかも乾いてガチガチになっている。こういう異物がずっと耳の中にひっかかっていたなんて、息子にとって気分のいいものではなかったはずだ。外には自然に勝手にでてきたが、よかった。

息子はおそらく常に中耳炎にかかっているような状態らしく、いつ、どの先生に見てもらっても「鼓膜はよくない」という返事が来る。

さて、チューブ留置の手術なんてする必要はあったのであろうか。結果的には術後も2度だったか3度だったか、抗生物質を飲む必要があるくらい熱を伴う中耳炎になった。左耳のチューブは3か月後に膿みと一緒になってあふれるように耳からでてきた。

ちょうど1年前になるが、チューブ留置の手術は2人の医者から進められ、結局セコンドオピニョンの医者により私立の病院で行われた。当時1歳半の息子は当然、親にとっても痛かった。チューブ留置の手術なんて簡単ですぐ終わるものだが、手術は手術である。結果論だが、効果がない手術なんてしなければよかった。

生まれてすぐジャテネというおそらく人生最大の手術を受けた息子だが、できることならもうずっと、手術や麻酔などと無縁でいてほしいものである。

2012年5月9日水曜日

保育園

9月から息子の学校(保育園)を変えることに決めた。今通っているところは2年前申し込みの際いきなり事務の女性が息子のことを「心臓の子」と呼んだところである。

最初に心臓手術の話を詳しくした自分たちがいけなかった。そもそも父親が日本人であるハーフの子なので担当の先生からも「中国人ちゃん」とときどき呼ばれているような学校である。あまり2歳の子のことなので親がまだそんなに感傷的になることはないと思っていたが、そういう人たちのいるところはほかにも問題が出てくるものである。事務の女性とは何度か言い合いになった。

3月には来年度のこと、継続するか否か決めないといけない規則なので、ヨメを相談してほかのところを探す旨を伝えたところ、しばらく自分たちがどれだけ気を使って世話をしているか、と言うことをがんばって主張していた。

やっと今月に入って次のところを見つけて申し込みを済ませてそれを伝えると、今度は打って変わって冷たい態度を取り始めた。息子自身はどういう扱いを受けているのか心配だが、せめて普通に今年度末の7月まで頑張ってもらいたいものである。

2012年4月25日水曜日

審判

今年もまたチャンピオンズリーグが大詰めになってきて、今日は数年前のバルセロナ対インテルのコピーのような、ボールを持った側とゴールを守る側とはっきり分かれた試合をまた楽しめた。今日も自分の好みの劣勢側の勝ちである。バルセロナはボールを相手に触れさせないことに終始するので相手はこうやってチェルシーのように極端に6人でも何人でも最終ラインに守備を固めていればいいと思う。ラインの上げ下げを規律正しくやっていれば、見ている方は存分に楽しめるのでそうするチームはお客さんの反応など気にしなくていいと思う。

最近は特に敗者側の監督や選手までが審判の判定への不満などが述べられるのがあたりまえになってきた。一昔前はあまりそういう不平は聞かなかったような気がする。唯一、オーストリアの誇るべきハッペル監督がテレビを前に判定について口出ししていたのを記憶している。スポーツはあくまで娯楽であるので本来のところ、誰が勝とうか負けようがどうでもいいはずなのだ。年々ますます勝敗に動く金額もとてつもないものになってきて、真剣なものになりすぎている感がある。清い負け方、などという建前はもう信じない。勝ちを逃すことで、どれだけの巨額の金を失うことになるのか計り知れない。

裁判官と審判は単語としてポルトガル語では同じ(Juíz)である。去年のいまごろだったか、裁判所で証言するという経験をしたが、対する裁判官は話す証人の目をじっと見て聞いていた。普通といえば普通の態度だったが、どこか裁判所には威厳を保とう、秩序正しく物事を進めようという雰囲気がある。裁判所の決定には不満を述べたり理解ができなかったりというのが多くあるだろうが、生活がかかっているだけに当然のことに思える。サッカーの試合ごときもそれに近くなってきた。審判にはそれなりの保証と金額の見返りが必要であろう。

2012年4月16日月曜日

ヴァルター・ムーア教授と日本人コロニー

4月16日は自分にとって特別な日である。1988年に高校を1年でやめてウィーンに飛び立った日である。留学に行った、とどこの誰からも言われたが、自分にとっては後戻りのない正真正銘の「移住」であった。成田空港を飛び立つ時、そう簡単には戻らない決心を口にした。

亡き北杜夫氏の数多くの作品の中にブラジル移民を描いた大作「輝ける碧き空の下で」というのがある。この本の印象は強烈で、そのおかげでサンパウロに行った時はまず日本人街のあるリベルダージ区に向かい、お店やレストランに入ったり当地の5階立てだったかの立派な移民博物館に行ったりして本から得た知識と照らし合わせていたものである。自分のウィーンでの生活と戦前の彼らの生死を賭けた生き様は全く比べ物にならないが、よく自分を彼らの生き方に重ねて見たりした。

彼らの多くは農民であったので、常にコロニーのなかで助け合って生きてきた。日本人として、誇りを持って自分たちのしきたりや文化、言語や食生活を長い間守ってきた。ブラジルの食品メーカーに初代の移民者によって始められたものが多くあるが、そのひとつの「さくら」という名のしょうゆは美味しく、身近に手に入るものならいつでも持っておきたいものである。リベルダージにはお風呂桶屋さんが何軒かあって、時代劇で見るような木製の様々なサイズや形が展示されていてびっくりしたものである。

ウィーンでも日本人コロニーのようなものは数多くあって、その中でさんざんお世話になったりケンカもしたり足を引っ張りあったりもした。ウィーン滞在も2年もするとうんざりすることが多くなって、ある時いかなるグループから離れて生活したい、と思うようになった。ウィーン19区にあるカトリック系の男子学生寮に運良く入れることになり、そこには電話が階ごとに一台しかなく、ほかに日本人はおらず自分を取り合ってもらうのにドイツ語を話す面倒があるところにはコロニーの人は電話をしてこなくなった。北杜夫の小説にもポルトガル語が苦手で話す機会を避ける人の描写があるが、それに似ていた。

寮には自分と同年代が多く、そこでの生活では高校中退の自分に全く欠けていた人間形成が少々まかなえたし、学校の方も軌道に乗り出してしっかり勉強もできて間違いなく今の一社会人としての生活の土台になっている。

ウィーンの学校ではどこでも日本人は多く、そのなかにもグループがあって公私にいろいろな繋がりがあった。彼らの多くは東京芸大やそれ同等の云々音大出身のエリートであって、そのなかでは無名、もしくは一般大学の出身者や高校中退者の自分のような者は非資格者であった。

ウィーン音楽大学にはリートの世界の大家の一人にヴァルター・ムーア教授がいる。歌のピアノ伴奏者だが、レパートリーも知識も壮大で間違いなく尊敬に値する先生である。その先生にも日本人の生徒がかなりいた。リートはいつかぜひ関わりたい分野であったので、ムーア先生から何か学べるかと思い機会を伺っていた。ある時縁があってようやくあるオペラ制作で知り合った先生の生徒の一人の日本人バリトンから彼のディプロム試験のリート伴奏を頼まれた。

ムーア先生のところにレッスンにバリトン歌手と2度ほど行ってピアノ伴奏をしたが、ピアニストには厳しいという噂は本当で、どちらかといえば自分の演奏は全く話にならないというようなことを言われた。10くらい年上のそのバリトン歌手は手取り足取り教えてあげようという気迫の持ち主だったが、自分はまず歌のことを一から学ばないといけないと思い卒業試験の伴奏の話は断った。ムーア先生からはその後ある時彼のクラス発表会に聴きにいけない、と断りにいくと「schämen Sie sich!」と返答されびっくりした。アメリカ人である彼の普段の言い回しなのか、ドイツ語で普通そのような言い回しがあるのかと考えさせられた。

その後は彼の娘さんの一人が通っていた学校の合唱団の伴奏を受け持ったりしていたのでその発表会のたびに顔を合わせていたりしていた。

時は経ち、ムーア先生に最後に顔を合わせてからほぼ10年後、リスボン音楽大学にムーア先生が講習会を開くというので見に行ってきた。早速挨拶に行ったがこちらを知っているそぶりは全くない。自分が誰なのか手身近に説明したが、全くピンとこないようで視線は宙を浮いている。リスボンのオペラ劇場の指揮者とリート解釈のレッスンに顔を出していた日本人コロニーの一人と結びつかないのだろう。

自分はムーア先生のところでものちの指揮科の湯浅先生のところでも日本人コロニーの一人では決してなく、そもそも存在資格者ではなかった。ただそのわりには常にどこのだれからもコロニーの一人と見られる矛盾とともに生きてきた。今現在のコロニーと無縁の生活ではムーア先生のような人に顔を合わせても、学生時代の自分のイメージとかけはなれているようだ。どこに飛んで行ってしまうのだろうか。

日本の云々大学出身です、と言う事実さえあればムーア先生からも知ったふりをされ自分の存在価値も高まり、人生ももっと楽になっていたかもしれない。

2012年3月23日金曜日

GULDA!

フリードリヒ・グルダは子供の頃自分にとってアイドルであった。彼の弾くベートーヴェンのソナタやコンチェルトのレコードは何度も繰り返し聴いた。そのせいか、今でもピアニストが弾く音楽で興味を引くのはグルダ以外いない。

どの楽器でもそうだが、音楽の後ろにはいつも人間がいるわけで、ピアニストの演奏に普段感動させられることがないのは人間的におかしな人が多いからだろうか。いくらバンバン上手に弾けていても人として関わりたくない雰囲気があるとその人の演奏するピアノも聴きたくなくなるものである。

とにかく延々とバンバン鍵盤を叩いている人もいるが、自分にはなぜそういう行為をしているのかあまりわからない。グルダもバンバン弾くが、音楽的イメージが楽器を通して鮮明に出てくるのでピアノという機械の存在を感じさせられない。音楽と騒音の根本的な違いである。

グルダ作曲の「プレリュードとフーガ」などは彼の頭の中の高度な音楽的構造がうかがえる。自分などには一生取り組んでも届かない領域のような気がする。チェロ協奏曲はかなり奇抜で、刺激的である。実際聴いた時はがっかりしたが、メヌエットは美しい音楽だ。あとジャズの即興などは、その才能に驚くのみである。

この人は音楽界のお偉いさんからも、挙げ句の果てにはジャズ界からもとにかく叩かれた。グルダという音楽家に反対する署名運動が行われた。評論家からも悪く書かれた。ウィーンでの最後のコンサートでもプログラムの終わりにはディスコ形式にして明け方まで客席を開放してしらけていた人の方が多かった。実際自分が聴いたコンサートでもモーツァルトのコンチェルトのあとのプログラムの後半DJになって軽めのジャズ音楽を続け、曲間にはマイクを使って軽い口調で客席に向かって長い時間話した。アンコールも何曲もあったが、「こんなんであなたたちを家に返すわけいかない。もう一曲行きます」と言ったところ、「自分から出て行く」とおばさんから野次られていた。自分もかなりがっかりしたが、そういう事実すべてが悲しい光景であった。人曰く、グルダはあんなに素晴らしくモーツァルトやベートーヴェンを弾くのに、なぜ?

グルダには、とにかく一人でも多くの人に音楽に接してもらいたいという強い気持ちがあったと思う。演奏には、あれ程の才能でありながらポリーニのような上から目線を感じない。才能を万人を前に披露している感もない。当然音楽学的な知識を持って威張っている感じも全くない。
どこか「これをぜひ聴いて欲しい」をいう純粋なアッピールをただ強く感じるだけだ。

それで叩かれても、呆れられても自分のやりたいような音楽を貫いた。文書でも、公開演奏でも常に世間を刺激し続けようとした。ケルントナー通りで何度か見かけたことがあるが、一度ルンペンの格好をして2人の「本物の」路上居住者を連れて歩いていた。なんのパフォーマンスか知らないが、なぜそのようなことをするのか、悲しくなった。世間を刺激したかったのか、そのわりにはこのケルントナー通りの一件は公に語られることはなかった。

グルダ自身、奇人であったモーツァルトにダブらせていたようだが、ピアニストとして、作曲家として最高の評価を得るべき人物だと自分は思う。できることならグルダの作品を手にして、できることなら演奏したいものである。

2012年3月11日日曜日

震災後・その他

3月11日は震災後1周忌いうことであちこちでイベントがあり、新聞には著名人のコメントで賑わっていた。どこにどう使われるのか、億単位の寄付をする人は公に発言しわざわざ金額までしっかり新聞に載る。寄付という行為はそういうものだろうか。そのような金額には縁がない自分には寄付を公にするという行為がなんだか理解できない。イベントにボランティアで参加する人達のなかにはその行為により社会的な評価を得よう、または商売人の間ではこの機会にいいイメージを売ろう、という魂胆が隠れ見えていることもある。

自分自身、去年ぜひ追悼コンサートを、と思いジナジオ・オペラを通じ具体的な計画まで立てていたが、結局実現までいかなかった。何人かの音楽家同志からボランティアでの参加意思を受けていたのにかかわらずである。残念だったが、所詮無力な一音楽家としてそれ以上できることはなかった。

何もしなかったのは95年だったか、阪神大震災の時も同じであった。当時実家も少なからず被害を受け、関西出身の自分にとって神戸があのような姿になってしまうのは大きなショックであった。当時はインターネットもなく情報も今よりずっと少なかったが、今回の震災後のように競うように寄付を名乗り出たりあちこちでイベントが催されたりということはなかったと思う。ウィーン音楽院の学生であった自分に追悼コンサートやらの話しは聞かなかったし、そういうアイディアも全くなかった。

ただ一つだけ当時の震災に関連してした行為がある。断食をした。14日間、ミネラルウォーターだけで過ごした。家を失った人に比べれば、よほど普通に生活をしていたと思う。

2012年2月21日火曜日

大血管転移症(TGA)のその後

大血管転移症という病気を持って生まれた息子はその後心臓にも心身の成長にも異常がみられることもなく、先月2歳を迎えることができた。手術跡の胸もここのところだいぶん目立たなくなってきた。しばらくすると息子の方からこの傷はなに?ときいてくることであろう。

この病気は根治手術によって通常の生活を送れることができるが、それはあくまで根治手術であって術後のケアは一生続くものである。インフルエンザにかかったり、熱が出て病院に行くような場合は、必ずこの手術を受けたことをまず医者に言わないといけない。おそらく、普通の子供と処方が変わってくる。一度、ある耳鼻科の医者からは抗生物質を飲むことを恐れてはいけないと言われた。高熱をだした場合はこの子の体にかかる負担は普通の子よりさらに大きいという。

この大血管転移症(TGA)は優れた産婦人科の先生によっては胎内で発見されることもある。その際心エコーでの診察が必要である。発見された場合は出産も専門の心臓外科病院にて帝王切開によっておこなわれ、生後すぐにバルーン手術ができるように準備される。というのも、この症状は放置すれば数日後には命が絶たれるものであるからだ。

息子の場合は、残念ながら前もってこの心臓の奇形は発見されず、一般総合大学病院でこく普通に出産が行われようとしていた。息子の命を救ったのは産後のスタッフの見事なケアと、夜0時ながらすぐ駆けつけたサンタクルス病院の小児心臓外科の権威ルイ・アンジュス先生によるものである。

ただそれだけでなく、出産前にも息子の命を救った偶然があった。帝王切開の出産に至った経過である。

懐妊は前もって計画していたので、妊娠の徴候前から欠乏すると胎児に何らかの悪い影響があるという葉酸の錠剤を服用していた。妻は以前からタバコは吸ったこともなく、アルコール類もいっさい口にしない。妊娠中は何度かあった血液検査も、数々の検診でも母子とも至って正常で、勤務中も家での生活も幸せに満ちたものであった。

妊娠の第39週に妻の体に異常が起こった。体にむくみが出て、異常な倦怠感があり尿は赤く染まってきた。散歩に誘ってもどうも家から出られない。どうも様子がおかしいので病院の方に行ってみると、血圧が異常に高く妊娠高血圧症候群と診断され、即入院となった。

病院ではいろいろなチューブにつながれ、排尿はなんと自動にチューブを伝ってポリ袋に入るもので一見でどういう色かわかる状態であった。赤い尿は続いたが、毎15分ごとに計られる血圧は大分安定してきた。さて、それでは出産を催促させようと陣痛促進剤が使われたが、何時間経ってもその気配はない。室外にはモニターがあって胎児の心拍や動きがわかりグラフが出るが、そこにも全く静かで生まれる気配は全くない。触診でも子宮口は全く開いていないという。

入院先は公立の病院であったので、何か決まりがあるらしく高額な帝王切開は緊急の場合のみ行われる。安定してきたとはいえ、下が100以上の高血圧が続く妻の場合は即帝王切開の決定がくだされるべきではないか。

入院から30時間経って初めて帝王切開の話が出た。出産の際には2人で頑張ろうと言っていた自分達は少々面食らったが、とりあえず気持ちを入れ替えて待機することさらに3、4時間。父親は一般待合室に閉め出された。

手術は普通におこなわれたが、へその緒を切った後すぐ顔が蒼白状態になり記録によると呼吸も一旦停止したという赤ちゃんをみて、医師団はさぞかしびっくりしたことであろう。妻は彼らが叫ぶようにして話していたといい、赤ちゃんはすぐに集中治療室に持っていかれた。

待合室の父親に担当医師が「出産しました」というメッセージを伝えてきた。ただ、呼吸困難があるので今ちょっと調べているところです、という。正直なところ、何か飲み込んでしまってのどがつっかえているのかな、という印象を受けた。赤ちゃんは元気なのか、と尋ねるとそれは元気で問題ない、という。

その後直ちに救急車で20分の距離のサンタクルス病院に移送され、生まれて12時間後ようやくバルーン手術を受け、根治手術のジャテネは11日後であった。

その後の赤ちゃんは見る見るうちに回復したが、親の方はショックが後を引いた。先天性病気を持った子が生まれると自分達に何かの落ち度があったのではと思うのは自然な反応であろう。実際今でも息子をみていったい何をしていたの?と訊かれることがある。

妻は半年の間、カウンセリングを受け徐々に立ち直っていった。父親である自分は出産休暇を病院での付き添いに使ってしまい、いざ仕事となっても全く力が入らない。仕事どころでない状態で、危ういところで勤務先を解雇されそうになってしまった。

当時のことを思い出すと、子供が生まれた喜びよりも悪夢と言った方がぴったりくる。よく赤ちゃんのストレスを減らすためバスタブでの水中出産だとか、自宅で環境を整えてリラックスした状態での出産とか、いろいろあるがTGAの子が生まれてくるとしたらいずれも死に至る出産方法である。友人で水中出産を行った人がいたが、そういう信念を持っている人は誰のどういう話にも耳を傾けない。自分には母親の自己満足のためにやっていることとしか思えない。

生後21日間は常にチューブにつながれ、ミルクより多く高価な薬を飲んできた息子は2歳になって心身ともに普通に元気な子である。ストレスなどとは無縁のような自信にあふれた男の子である。

2012年2月6日月曜日

テレビの出演

昨日は久々のテレビ出演があった。いつものようにピアニストとしての出演で、いつものように画面のはじっこで数分だけの出演であるが、生放送でミスをした場合にのみ目立つことになってしまう都合の悪い出演である。国営放送RTP1の夜9時15分からのゴールデンタイムで、会場のドンナ・マリアII劇場には首相や、文化書記長(文化大臣のポストは廃止されているので国の文化事業のトップ)の出席もあった。

自分にとってのテレビ出演は大体いつも同じ調子である。まず、その日のために何か月前から準備するようなことはなく、話は突然降ってくる。そしてノーギャラである。自分のような身分のクラシックの音楽家にとっては、何千万という人が視聴する番組にはこちらからお金を払ってでも出たいくらいのものである。

演奏自体はこの自分の技量では今回も危ない場面があったが、何とか最後までごく普通にたどり着けた。ミスしそうになる状況ではこれで自分も一巻の終わりか、ということで頭がいっぱいになり、そういう心境は至高な音楽を演奏する芸術家にはほど遠い。指揮をする場合は演奏家を前にしているだけにそういうネガティヴな心境にはまずならないのだが、ピアノを弾くときは演奏する場が重ければ重いほど、よけいなことで頭がいっぱいになる。

想像するに、もし万人を前に自分の料理を披露することになってしまったら、震える手を披露してしまうであろう小心者である。某国代表のサッカー選手は、男は誰に何を言われようが自らの拳で自分の運命をつかみにいくのだというようなことを語っていたが、この我が人生を切り開いていくべき手はいざというときは銅像のように重く固くなってしまうのでなく、そういう時こそ勝手気ままに躍動してほしいものである。

出演が終わったあと、早速2人の友人から電話がかかってきた。いずれもテレビで見たよと、向こうの方がよけいに喜んでくれている。その一時は思いかけず誰もを幸せにさせてくれ、改めてテレビが持つ影響力を思い知らされる。

http://www.rtp.pt/multimediahtml/video/portugal-aplaude

2012年1月31日火曜日

歴史上のリスボン大地震

1836年発刊の「Handbuch der allgemeinen Staatskunde von Europa」(学者の先生方はこれをどう訳すのだろうか。この意味は完璧に理解するが日本語で言い方はあるはず)にリスボンの地震について興味深い文章があった。

このFriedrich Wilhelm Schubert 著作の古本によれば、830年の間に15もの大地震があったという。1007年、1117年、1146年、1290年、1356年8月24日、 1531年1月1日、1575年7月27日、1597年7月27日、1598年7月22日、1699年10月27日、1724年10月12日、1755年11月1日、1761年4月30日、1796年1月10、及び17日、1807年6月6日。

これ以降は別の文献で見る必要があるが、上の年月には当然アラブ人やスペインに征服されていたポルトガル史上暗黒の時期もあるわけだ。

上記の地震のうち、特に被害が多かったものとしてほぼ全壊状態で年中余震が続いたという1356年、サンタ・カタリーナ区の丘のある3つ道路が崩れ落ち、丘自体も真っ二つに切り裂いたという1597年、そしてよく知られている8日間揺れが続いたという1755年とあった。

18世紀を中心に、あまりに頻繁に発生してきたリスボンの地震。今の時代でこういうマグニチュード7強の地震が都心部で起きるとなると、壊滅的な被害は目に見えている。ましては、無許可の建築物が立ち並ぶこの街でのことだ。

2012年1月13日金曜日

中耳炎 続編

息子の耳に留置してあったチューブが外れて出てきた。手術からわずか4か月である。その耳からは鼻汁のようなものが溢れるようにしてでてきた。またもや中耳炎である。

ほんの一ヶ月まえも中耳炎になったので、結局手術後2度目の中耳炎の発病である。耳鼻科の医者は想定内のことで、あまり心配はいらないというが、今回の中耳炎は溜まっていた膿が一気に出てきたようで数日後にはまだチューブが入っているはずの反対側の耳からも液体がどんどん溢れてきた。というわけで熱は下がったり上がったりで今週は結局一週間保育園を休むことになった。

一体これからどうなるのであろうか。まだ幼いので、耳が痛いということは表現できない。また中耳炎が続くようであればチューブ留置の再手術の可能性もあるらしい。とにかく将来聴覚機能が失うようなことがないよう祈るばかりである。

2012年1月5日木曜日

パオ・デ・ラーラ

エヴォラには家族経営のアレンテージョ州の伝統的な菓子類を提供する印象深いカフェがある。パオ・デ・ラーラは市内の城壁内に位置し、ちょうど軍事学校のすぐ隣にあり、店内20席ほどの静かなスペースは笑顔に満ちた常連客で常に埋まっている。

見ている限り、50歳前後のご夫婦は仕事を完全分業されていて、お菓子製業を担当するおばちゃんは時々顔を出されるくらいで店内サービスは旦那さんが受け持つ。
お菓子はすべて店の生産であり、エヴォラ市でさえよくみられる一般工場で作られたものではない。一見で伝統的なレシピを少しのブレもなく繊細に作られていることがわかる。国内のカフェにはどこにでもあるパステル・デ・ナータでさえ、ここでは驚くほど美味しい。大量生産されているリスボンのベレンのものの比ではない。

カフェの名前は伝統菓子の一つであるパオ・デ・ラーラから来る。パオ・デ・ラーラはかなり乾いたもので普通はあまり美味しいものとは思わないが、こちらのカフェのものはいうまでもなく食べて見る価値のあるものである。常に様々な大きさのパオ・デ・ラーラが陳列されており、小さいものでも一つ30ユーロほどする高価なものだが、見た目も美しく、味も口当たりも完璧なバランスでどう考えても金額に見合っている。ヨーロッパのケーキ類は雑に作られていると発言する人はこういうカフェを知らない人であろう。

リスボンではクリスマスの時期にしか見かけない、切った食パンを揚げてシナモンと砂糖をまぶした「ドラーダ」がここでは年中置いてある。何かアレンテージョ州特有の理由があるのかも知れない。

https://www.facebook.com/pages/Pastelaria-Conventual-Pão-de-Rala/248352579349