どの楽器でもそうだが、音楽の後ろにはいつも人間がいるわけで、ピアニストの演奏に普段感動させられることがないのは人間的におかしな人が多いからだろうか。いくらバンバン上手に弾けていても人として関わりたくない雰囲気があるとその人の演奏するピアノも聴きたくなくなるものである。
とにかく延々とバンバン鍵盤を叩いている人もいるが、自分にはなぜそういう行為をしているのかあまりわからない。グルダもバンバン弾くが、音楽的イメージが楽器を通して鮮明に出てくるのでピアノという機械の存在を感じさせられない。音楽と騒音の根本的な違いである。
グルダ作曲の「プレリュードとフーガ」などは彼の頭の中の高度な音楽的構造がうかがえる。自分などには一生取り組んでも届かない領域のような気がする。チェロ協奏曲はかなり奇抜で、刺激的である。実際聴いた時はがっかりしたが、メヌエットは美しい音楽だ。あとジャズの即興などは、その才能に驚くのみである。
この人は音楽界のお偉いさんからも、挙げ句の果てにはジャズ界からもとにかく叩かれた。グルダという音楽家に反対する署名運動が行われた。評論家からも悪く書かれた。ウィーンでの最後のコンサートでもプログラムの終わりにはディスコ形式にして明け方まで客席を開放してしらけていた人の方が多かった。実際自分が聴いたコンサートでもモーツァルトのコンチェルトのあとのプログラムの後半DJになって軽めのジャズ音楽を続け、曲間にはマイクを使って軽い口調で客席に向かって長い時間話した。アンコールも何曲もあったが、「こんなんであなたたちを家に返すわけいかない。もう一曲行きます」と言ったところ、「自分から出て行く」とおばさんから野次られていた。自分もかなりがっかりしたが、そういう事実すべてが悲しい光景であった。人曰く、グルダはあんなに素晴らしくモーツァルトやベートーヴェンを弾くのに、なぜ?
グルダには、とにかく一人でも多くの人に音楽に接してもらいたいという強い気持ちがあったと思う。演奏には、あれ程の才能でありながらポリーニのような上から目線を感じない。才能を万人を前に披露している感もない。当然音楽学的な知識を持って威張っている感じも全くない。
どこか「これをぜひ聴いて欲しい」をいう純粋なアッピールをただ強く感じるだけだ。
それで叩かれても、呆れられても自分のやりたいような音楽を貫いた。文書でも、公開演奏でも常に世間を刺激し続けようとした。ケルントナー通りで何度か見かけたことがあるが、一度ルンペンの格好をして2人の「本物の」路上居住者を連れて歩いていた。なんのパフォーマンスか知らないが、なぜそのようなことをするのか、悲しくなった。世間を刺激したかったのか、そのわりにはこのケルントナー通りの一件は公に語られることはなかった。
グルダ自身、奇人であったモーツァルトにダブらせていたようだが、ピアニストとして、作曲家として最高の評価を得るべき人物だと自分は思う。できることならグルダの作品を手にして、できることなら演奏したいものである。
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