2011年12月24日土曜日

ピアノとビジネス・李清

音楽というものを利用して小金を稼いでいる人はどこにでもいる。

李清という、グラーツ国立音大のピアノ科教授は小遣い稼ぎにとどまらず、一つの会社を設立までしてしてピアノレッスンというものを最大限にビジネスに拡大した人がいる。名前からして神秘的だが、日本生まれ、日本育ちの日本人ハーフである。戦後に帰国した生みの父親が韓国人だ。音大の教授の職につく際にオーストリア国籍を取得している。

李氏は人の才能を伸ばす先生ではなく、弟子から世界的ピアニストが育った実績は皆無だ。李氏自身もピアノが下手な人ではない。ただ、家に閉じこもって自らの芸術に没頭する人でもなく、そうかと言ってエージェンシーがついて一回の演奏会で5千ユーロで招待を受けるような実力派でもない。それでも、「オーストリア国立大学」教授という肩書きを生かし、年に5,6度も来日し生徒の確保に務め、挙げ句の果てには毎回個人リサイタルをもこなしていた人だ。

いうまでもなく、オーストリア国立音大の教授というのは終身雇用であり、かなりのスキャンダルを起こさない限り職を失うことはない。生徒数を毎年確保する必要があるが、日本から留学を勧めて連れてくれば数に困ることはない。

それどころか、今も昔も日本から留学希望の学生は後を絶たず、100万円くらいで2週間の講習会を本場ウィーンで受けるという夢を持っている人はいくらでもいた。李先生はパン・ムジカという企画会社を通じてヨーロッパ旅行兼マスタークラスという企画を成功させていた。少なくとも半分以上は純利益のはずで、年に2度ほど開催していたからかなりの美味しいビジネスになっていた。

自分はこの先生のもとにウィーン留学をお願いすることになった。先生はビジネスであればなんでもする人なので、少々の身の回りの世話、借家とレンタルピアノの手配と銀行口座の開設くらいのことは快く引き受けてくださった。自分はもともと指揮科志望であって、先生のクラスへグラーツに行くつもりはなかった。自分の親は、その世話のために20万円という金額を寄付という形で差し上げているはずである。

ウィーンではさらに彼の個人ピアノレッスンを受けないといけなかった。一回1000シリングである。先生はじきに音大の指揮科のエーステライヒャー教授を紹介すると約束してくれていたが、数ヶ月のちあと2年間続けて個人レッスンを受けるようにと言われ、それではやめたいと申し出ると「もうこれで僕に世話になることはないからな」と手を切られてしまった。

当時16歳であったが、文字通り右も左も分からない無防備な少年には実際確かなアドヴァイザーが必要であった。その後ウィーン市立音楽院のピアノ科に入学できたのは2年後になってしまったが、それまで苦い経験をして自分自身と人生そのものを防御するという能力をつけていかないといけなかった。今振り返ると危険な橋を渡ってきたものである。

先生という身分で生徒を取るときは、ビジネスだけを考えるべきではない。李先生は現在何をされているかわからないが、かなり痛い思いをしてもらいたいというのが素直な思いだ


2011年12月9日金曜日

指揮狂の時、ラヨヴィッツ教授編

音楽の先生というのは、音楽家として実際活動している人であれば小遣いを稼ぐことが第一目的の仕事である。今まで出会った先生で、唯一そうでないのはどこの誰からもレッスン料をとらない湯浅勇治先生だけであった。

マスタークラスでも、お金のことを考えて教えている人たちばかりである。その他の特にピアノの先生は、個人レッスンではただ小遣い稼ぎのために毎週我慢を重ねて学習希望者の下手な演奏を見る。実際育てようと頑張れる、教えがいのある生徒もいるのだろうが、自分はいつでもそういうエリート生徒には当てはまらず、常に小遣い稼ぎの対象であった。音楽家は夢を売る商売であるから、夢を見ている人はそういう先生を前に物事を冷静に考える常識を忘れ、1レッスン100ユーロなどという異常な額を「偉大なる芸術家」に毎回寄付することになる。

ウィーン音大所属の先生となると、かなり話が違ってくる。特に指揮科は歴代名指揮者を輩出しているところだけあって大変な名誉もついてまわる。もしかして将来のモノになる人物を前に教えているかもしれないのだ。給料もその名誉に比例してそこらの劇場や管弦楽団の常任指揮者よりずっとよく、しかも契約は実質上終身だ。

スロベニア人のウロシュ・ラヨヴィッツ(またはウィーンで呼ばれているライオヴィッチ、本当のところどのように呼ぶべきかわからない)教授はあのハンス・スワロフスキー氏の直弟子である。もうかれこれ20年は教えていると思うが、指揮者としては必ずしもヨーロッパの第一線で活躍している人ではない。存在感あふれる大男であり、ドン・ファンを自負している人間である。アチェル先生のような親近感を持てる人ではなかった。よって、個人的に話をしたことはなかった。

自分はそのラヨヴィッツ教授のクラスに入った。自分が全くの初心者だったためかわからないが、5年間見向きもされなかった。レッスンは半強制的な一方通行の授業だが、皆同じ待遇だったわけでなく、目を付けらていた生徒は確実にいて、そういう人には今や世界の有名な指揮者であることが多い。

先生は指揮の基本動作は5時間で習得できると言う人である。よって技術的なことはほぼ何も教わることはなかった。その基本動作でさえ、習得しようとしても使い物にならず、ラヨヴィッツ先生自身実際に全く使っていない代物だ。

オーケストラを前にした授業ではいつもメッタメッタにたたかれた。学生オーケストラの嘲笑的な視線を前に、屈辱的な時間を何度も味わった。よって、今どういう人たちを前にして何を言われようが平然としている自分がいる。明らかに自分の弱い部分を鍛えてもらったラヨヴィッツ先生の功績である。

全生徒を前にした、教室内の先生の楽曲解釈の授業はかなり貴重なものであった。指揮者として、どこに視点を置くべきか学ぶべきことばかりのすばらしいものであった。そのレベルは一番高いところにあり、たとえば突然「第1楽章、4x4+4x4」などと言われて初心者の自分には時間の無駄かな、と思ったくらいだったが今となっては忘れられない大切なキーポイントになっているものであった。この先生の独演会にすぎなかった授業には膨大な知識が詰まっており、自分にとっては死ぬまで憶えておきたいものである。

そういう授業に5年間接することができた自分には大きな誇りを持っている。

2011年11月26日土曜日

指揮というビジネス、オラデア編

指揮の勉強はなかなか楽器や歌のレッスンのように先生に毎週じっくりみてもらう、というわけにいかない。レッスンは個人授業ではなく、生徒全員が広い教室にそろい、ひとりひとり代わりずつみんなの目の前で指揮をするのが普通である。少なくとも自分が経験した場ではそうであった。

初めのころ人の前に立つという経験をしていない自分は、同僚や先生の視線が気になるだけで頭の中が真っ白になり、何もできない状態になった。でもそれはトレーニング次第で、慣れれば、というより自分の指揮者としての役割を考えていけば徐々に「戦える」自分が身に付いていくものである。

しかし、そのような場をこなす機会が回ってこないと何もならない。もし自分が料理人だとして、自分の腕を磨くのにはやはり実際料理をするという作業の中でできるものではないだろうか。湯浅塾でそうであったように、人のパフォーマンスを延々と見ているだけでは何も自分の課題が見つからなかったのである。料理番組を見ているだけでは料理はできないではないか。

湯浅軍団でのような状況はどこででも同じという訳ではなかった。違う環境で自分に見合った場所がすぐに見つかった。ウィーンで講習会に教えに来られていた、ルーマニア人指揮者エルヴィン・アチェル氏のレッスンである。

アチェル先生はかなり長い間指揮を教えられていたのにかかわらず、本格的にキャリアを積むようになった直弟子はいない。講習会で知り合った仲間にはアテネ歌劇場にて専属で活躍しているアンドレアス・ツェリカス、今や世界の各地で指揮しているカルロ・モンタナロ各氏などはいるが、このウィーンでの講習会は実に誰でも参加できるものであった。そもそも、先生自身に誰かを真剣に育てる、という意識があったとは思えない。誰かのキャリアを手助けした、という話も聞いたことはない。

高い授業料を払って参加するマスターコースでは一定の授業時間が一人当たり決められており、誰にでも指揮パフォーマンスを見せられる時間が与えられる。要するに、最低1000ー2000ユーロ参加費がかかる講習会のことだ。そういうところでは自分にでさえ確実に順番が回ってきた。ウィーンの講習会には練習台として、ルーマニアのオラデア市からプロオーケストラ、オラデア国立交響楽団がやってきていた。

アチェル先生のもとでは1998年から6年もの間、じっくり自分の指揮を見てもらえた。マンツーマンで指揮のことを初めから教えてもらえた貴重な人であった。文字通り指揮を基本から教えていただいた。先生は大抵、よほどのことが無い限りどんな生徒に対してでも指揮の様子をじっくり観察され、いつもなにか的確な分析をしようと知恵を絞られる。主に技術的なことを重点的に見る練習ピアニストを前にしたレッスンと、実際のオーケストラを前にしたレッスンと2段階あった。実は自分は最初からずっと練習ピアニストとして雇われた身だったので、自分の順番以外は人のレッスンのために使われていた。

講習会の参加料はそのピアニストとしてのギャラから充分まかなわれ、それは回を重ねるにつれかなりのアドヴァンテージになった。ピアニストとして使われたおかげでルーマニアにも、ポルトガルの講習会にも呼ばれた。どこでも生徒としても参加したので、その度にオーケストラを前に経験を重ねることができた。それにポルトガルの講習会が無ければ、いま実際リスボンで生活することもなかっただろう。

アチェル先生は今でもハンガリーやルーマニア人の音楽家の間では知らない人はいないくらいの指揮者である。だた、鉄のカーテンが開いた時にはすでに60を超していて、西側のオーケストラでは全く指揮の機会がなかった。先生はどうやら講習会を通じで西側の方で仕事されたかったようだ。実際、オラデア国立交響楽団とはそういった講習会の直後、あわただしく演奏旅行に出られることもあった。

アチェル氏は、古き良き東欧の文化システムに育てられ、生きのびてこられた指揮者である。キャリアの当初から毎週コンサートの指揮をずっと、50年近くもされてきた人である。指揮の経験に関して言うならば、この人以上の人はいないと思えるくらいだった。レッスン中に時々真横で指揮してもらったことがあったが、こんなに指揮というのは軽々できるものなのか、と感動した。指揮の技術的な部分やオーケストラとの練習の仕方などは彼に何を聞いてもすぐ返事をもらえた。

アチェル氏は湯浅氏と同類ではない。「仕事」が終われば、まず行動を生徒達と共にしなかった。先生とは食事を結局一度も一緒にしたことはなかった。それでもポルトガルに同じ飛行機で行くことになったとき、隣の席に座らせてもらっていろいろなことを話す機会があった。一人の人間として、何でも気軽に話せる人であった。

アチェル氏は数年前に既に亡くなられた。自分の心の中で何か大きなものを失ったと思える人である。亡くなる直前まで指揮活動をされていた人で、自分も是非そのような必要とされる音楽家になりたいと憧れる。

2011年11月22日火曜日

指揮というオカルト、ウィーン編

「オウム真理教」の裁判が今ようやく終了したという。人間というのはわからないもので、なぜあんなにたくさんの人が、いったい何を求めて「オウム」に入信し文字通り全てを捧げたのだろうか。本人にしか感じない、何かがあるのには違いないが、音楽家の世界も宗教のようなもので、ひとは「何か」を求めて「全て」をささげる。

ウィーンの湯浅勇治先生は言わずと知れた斎藤秀雄氏の生徒である。同時にウィーンで指揮の伝統を学んだ人でもある。20年以上もウィーン音大指揮科教授のアシスタントという肩書きで仕事している。授業用のオーケストラを編成する役目もありアルバイトを求める学生に直接声をかけているので、彼らから「ユージ」などと軽くよばれているが、指揮の先生としては「鬼」である。とにかく強い求心力のある人で、日本では指揮者としても、教育者としても実績が皆無なのにかかわらず、日本から毎年2、3人が弟子入りを願ってウィーンまではるばる運命を試しにやってくる。音楽大学のゲスト学生という肩書きをもらい何年にわたり連日先生のあとを追う。それでも、先生の指揮のレッスンは例外なしに無給だ。

自分の知る限りでは金聖響、下野達也、曽我大祐、阪哲郎、寺岡清高各氏のような指揮者は皆「湯浅塾」の出身者である。日本人に限定されず、何年か前のブサンソンで2位に入ったロッセン・ゲルゴフ氏も根っからの湯浅信者である。中国や韓国人にも信者は多い。「湯浅軍団」のひとは普通「信者」として先生と永久的な公私の付き合いをする。

23年前指揮希望の自分はウィーンに来てすぐ湯浅先生を紹介してもらった。会うなり「指揮者になりたいのか、やめとけ」といわれた。皆にそう言うというが、この人の面倒見の良さは半端がなく、何時間にわたっていろんな話をしてくれ、自分のことも聞いてくれた。なにをしたいのか、どういう心構えなのかとことん尋ねられた。16歳の自尊心、指揮者になれるはずと信じて疑わなかった変な自信はそのときに散々に砕かれた。どんな曲でもよく知っていると思っていたが、このままではこの人には到底届かないと思った。このときに与えられた「指揮者になるためのヴィジョンを自分で作ってこい」という宿題は後々、どれだけ未熟な自分に役立ったかわからない。

結局、そのときはまず「音楽家だ」といえるようになるくらいまで修行しないとどうしようもない、と思いピアノの方に方向転換して湯浅先生からはなれてしまった。それから10年もしてウィーン音大の指揮科の入試に合格したので、ようやくまた湯浅氏に関われるようになった。先生のレッスンのためだけに来ている客員学生でなく、れっきとした本科生としてである。毎日大学の通常の授業があるしそもそも指揮本科の教授のもとで学んでいた身分で「湯浅軍団」のようにはいかなかったが、できる限り先生の「勉強会」には参加するようにした。

毎週土曜日に開催される湯浅先生による「勉強会」は参加者はオープンではなく、入信するための「何か」を持った人たちだけのためだ。時間の指定がない。午後のだいたいの時間に10人前後が集まり、先生はひょい、と突然やってくる。授業はさっと始まるが、延々に続く。時には説教だけになる。休憩などなしで、たいていは夜にまで及び、そのまま皆軍団そろって一緒に食事をし、朝まで飲み会になってしまうこともある体育系の「会」である。

勉強の題材の予告はそういう食事や飲み会のときにふっとされ、知らないうちに次回のレッスンの曲も決まっていることもあるので、常に輪の中にいないと曲の準備どころではない。信者にはピアニストも自然に集まってきており、レッスンには常に4人のピアニストがそれぞれ連弾で2台のピアノに向かいオーケストラを再現する。

指揮を勉強したことのある人は誰もが経験したことだと思うが、授業内は全員に同じ時間が与えられる訳ではない。実際には自分に順番がなかなか回ってこない。本科の指揮の授業ではどんなに準備していってもオケの前に立たせてもらえない日々が続いた。勉強会でも最強の信者から始まりそれが延々と続くので、まずそれをずっと傍観する。かなり我慢して続けて通っても先生のレッスンを聴講するだけで自分に指揮の機会は回ってこない。結局、1年くらい通い続けた湯浅塾では1度10分見てもらっただけだった。サッカー選手もプレー機会がないと違う環境を求めるではないか。

飲み会では自分は何に面白い発言も、パフォーマンスもしないし、どうしても何か披露するアイディアも、モチベーションもわいてこない。よってある日、湯浅信者の怖い人からこっぴどく怒られた。「勉強会」の続きである飲み会、食事会には命をかけて参加するものだ、という。そこでは、なんとかして人の注意を引くような努力をするそうである。上に燕尾服、下にピンクの象さんパンツを履いて飲み会に登場したこともあるんだ、という。

一度沼尻竜典氏がそういった会に訪問してきて、ふと「はて、メランジュとカプチーノの違いは何かな?」と皆に聞かれるので、そこはウィーンに染まっている自分がすかさずまじめに答えたところ、信者の方々は反応せず、沼尻氏からはただただにらまれた。そう言う普通の受け答えの場ではなく、今で言う「空気」が読めなかったのである。その場その場が戦場だ、というのが全く理解できなかったのだ。

自分が湯浅塾に通い続ける意味が分からなくなってきて、ただ人の指揮を見るという我慢もしきれなくなり、徐々に顔を出さなくなってしまった。誰からもなぜもう来ないのか、などと聞かれなかった。

自分はどうしても小さい自尊心を簡単に捨てられず、強力な「グル」から目を向けてもらえなかった。どうやらそういうところに、学校の授業でも、人生の本番である今現在も自分に順番がなかなか回ってこない原因があるのかもしれない。そう思えば、何気に悲しくなってくる。

2011年11月11日金曜日

Castella do Paulo 3

「パウロのカステラ」ではいいところと悪いところがはっきりしている。独自性とその質の高さはすばらしいと思う。カフェハウスとしてはこういう店はめったにお目にかからない。リスボンにはどのカフェも似たようなもので、まったく同じものを提供し、たまにオリジナルのケーキを出すところがあったとしても、一口食べてみれば注文すべきでなかった、と後悔するのが普通の土地である。

「パウロ」では一軒のパン屋さんのように、毎日あんぱん、メロンパン、カレーパン、クリームパンから始まってポルトガル伝統菓子まで、手書きの説明もあるので全て手作りだというにおいを前面に出している。さらに日替わりにパスティエの制作ケーキがある。もちろん店の名前からしてのメインのカステラも、3種類常時ある。ただカステラより興味深いものの方が多い。

昼食はよくなく、個人的にはなくていいと思う。こういう店なので、ランチタイムのメニューも独特なものを出す。しかしせっかくのこのおしゃれな店も、若いブラジル人のスタッフは多忙な様子を丸出しにする。ウエイトレスさん方々は大きな声で話し、狭い店内を足早に駆け巡る。どこのテーブルからでも声が響き渡り、メニューの説明もいちいち耳に入ってくる。何となくずっとせかされる感じで支払いもカウンターに行って済ませてくれ、と言われる。自分は仕事の合間にしか来れないが、ゆったりとした時間はまず過ごせない。

店では上品でありたい女性が対象のお客さんらしいので、2回ランチを食べれば満足できるか、という量である。そもそも40の醜い男が一人で行くところではない。元々目当てはどちらかと言えばデザートであって、それに別に日本食を食べなくても生きていける人間である。店が多忙なのは明らかで、時々電子レンジで加熱されたディッシュまででてくる。

はっきり言って、元々カフェとしてのメニューが存在し、常時サンドイッチやオムレツ、さらにオムライスまであるのだから、昼食の創作メニューまではいらないと思う。わずかな時間でも息抜きができるところなら、また行きたいところではある。

2011年11月9日水曜日

シェフ・ラムジー

最近はkitchen nightmaresという世界的なスコットランドのシェフ、ゴードン・ラムジーの番組にはまって毎晩のように見ている。アメリカの借金を抱えたレストランがラムジーに助けを求めるという、いわゆる現代的なリアリティーショーだ。

お決まりのように店内を改装し、新しいメニューを作らせ、客入りが上々になると筋書きで終わる。最初には店のものを試食するが、そのあとには決まって料理場のチェックがはいる。冷蔵庫(冷蔵室というのだろうか)には腐った野菜、賞味期限がとっくに切れているだろう肉類などが「発見」され、その処分、清掃からラムジーの改革が始まる。どのレストランも、たいていはきちんと管理されていない。

思えば、普段見知らぬレストランになかなか気軽に入れないのはこういったものに対する警戒心が働くのかもしれない。ラムジーはひどい料理は決して飲み込まない(少なくとも番組上では)。しかし、実際仕事の昼休みを使ってお昼を食べにきたとき、または家族連れでレストランに入ったとき、ひどい料理がでてきたときに何も口にしないわけにはいかない。注文し直すとか、違うレストランに入るとかという時間も根性も普通はない。

番組上ではライスなどは作りおきしたものを何日ではなく、何週間も客に出しているようだ。そういえば炊きたてだな、というライスをここポルトガルのレストランではあまり食べたことがない気がする。よほど、100パーセント冷凍品のフライドポテトを注文した方が無難だ。

最近はだんだん、リスボンでもエヴォラでも、どこの行きつけのレストランも失格の域に入ってきた。ラムジーのように「これ自分で食べてみろ」と一度言ってみたいものである。半生焼けの豚肉や、ひからびたような野菜がでてきたら本当に食べようがない。

2011年10月14日金曜日

警察国家

オーストリアはまぎれもない警察国家である。
特に外国人に対しては差別なしに露骨な応対をするのが常だ。

そもそも、オーストリア国民はアメリカ人以外の外国人の存在自体をよく思っていないので、極端に言えば国内では常にオーストリア人と非オーストリア人との冷戦状態だ。
政府もそれに沿った政治をしているのは言うまででもない。それらの政治家はあのハイダーを排斥した人たちである。

こちらポルトガルでは現在自分と何らかのオーストリア国籍人の接触は皆無だが、一度、オペラ劇場内で在ポルトガルオーストリア大使に挨拶したことがある。こちらからは丁重に挨拶したつもりだったが、老チロル人大使はこちらを見るなり「Koreaner?」とだけ聞いてきたのでびっくりした。話しかけたこと自体が恥ずかしくなった。自分にとってはオーストリアでの経験は人生のほぼ全てだが、非オーストリア人である事実はかわらないのでよけいなときに下手に口をすべらすべきではない、という教訓になった。

最近我がシトロエン車が2回盗難にあった。車内のものを盗む目的だったので、3角形の小窓を破られ車内を荒らされただけで、クルマ自体は盗まれなかった。2回とも警察を呼ぶという経験をさせてもらった。

実はオーストリアでも2度同じようなことがあった。窓を割られたのは盗難ではなく、明らかに非オーストリア人に対する嫌がらせであった。

1度目は警察を呼んだところ、逆にそのまま警察署まで連行され、自分の生活のことをあれこれ詳しく聞かれた。パトカーに乗った経験は今までの人生でこの一度だけである。質問が終わると、家に帰っていいという。徒歩で30分ほどの距離だ。

2度目は朝の4時に家に警察から突然電話がかかってきた。クルマの窓が割られている、という。あわてて起きていって見るとパトカーが止まっていて何か中のものを盗られたか聞いてくる。盗られるものは中にないが、駐車している前の建物の住人のいやがらせだ、というようなことを言ったらそれ以外のことは何もなく、立ち去った。

ドイツでは一度ケルンの空港で早朝時間つぶしにぶらぶらしていたら警察に呼び止められた。
その頃はイスタンブルに滞在していたので、飛行機はトルコ発で到着は朝の6時半というものだった。ケルンではオーディションを受けに1泊の滞在だったので荷物はリュックサックのみの不審ないでたちだ。出発は夜の2時だったので実際ろくに寝ていなかったし、実はぶらぶらだけではなくベンチに横になって休んでいたりしていた。
何をしているのか、と聞いてくる。

提示したパスポートはほぼ新品で日本出入国の形跡がなく、当然ドイツの滞在ビザもない。早速なぜドイツ語が話せるのか聞いてきた。自分にとっても興味深いシチュエーションだったが、いちいち自分のことを説明する意欲がわかなかったのでそれ以外は黙っていた。それでも警察は根掘り葉掘り聞いてこず、パスポートのチェックだけをした。向こうがこちらのこと興味津々というのは相手の目を見たらよくわかったが、やはり職務上必要以上のことは聞くべきではないだろう。
同じ状況でオーストリアだったらどうなっていただろうか。

ポルトガルの警察は普通に応対する。よって、この国では普通の人間として生きていける気がする。先日40数年ほど逃亡生活をしていたアメリカ人の死刑囚がポルトガルで逮捕された。ポルトガルでは普通に結婚し、子供も一人いて、20年ほど普通に生活をしていたという。驚くべきことだ。

2011年9月18日日曜日

アデノイドとチューブ留置の手術

中耳炎が慢性的になっていた息子の耳の手術がついにおこなわれた。予定通り、寒くなりインフルエンザがはやる時期になる前の手術である。また全身麻酔だ。
予定というが、最初診察を受け手術の話になっていたサンタマリア病院では、担当の医師の感じからあまり信頼感が得られず、セカンドオピニオンとして平行して診察を受けていたドットール・ザガロ先生に、所属する私立のルジーアダ病院を通じてお願いすることにした。
私立病院ということもあって応対はホテルのようであり、個室もそもそも車いすで容易に通れるようになっているのでかなり広い。幼児の付き添いということでヨメだけが一緒に泊まることになったが、部屋にあるソファは簡易ベットにもありその準備もスタッフにしてもらった。
もともと病院での息子の付き添いという面ではもう経験がある夫婦二人である。自分の頭の中では旅行者のように以前の病院との比較をしていた。
肝心の手術の方は前のTGAのとは天と地の違いがあるが、ベットに乗せられた息子を送り出すシーンは頭の中の深いところに刻み込まれているスイッチ手術のときのイメージと全く同じであった。そもそも父親である自分は手術に立ち会う訳でなく、ただ外で待っているだけなので悲惨な気分は同じであった。
手術は簡単なものという、鼓膜のチューブ留置とアデノイド除去である。
手術は無事に終わり、呼ばれて対面してみると息子は泣いて叫んでいてかなり気分が悪いらしい。鼻血も出しているし、咳も止まらない。アデノイドがない咳は音が違い、もっと枯れた響きがする。わんわんや飛行機だなどとうそついて気を散らそうとしたら、聞こえるらしく目を開けて反応して、そのうちこくんを眠りについてしまった。
その日やその次の日の息子は予備知識にあったように機嫌が悪く、その割に常にだっこを要求された。術後の経過も良いようで、これからの生活面での注意点や次の診察のことなども先生自らやってきてくれて話をしてくれた。
夜中の「悪魔の時間」の咳き込みはあったりなかったりで手術の効果はまだわからない。中耳炎のこともこれでよし、という訳ではなく改善される効果もで50%くらいの確率という。

2011年9月11日日曜日

フェスタ ド アヴァンテ 2011

2度目の「フェスタ」のオープニングコンサート、オペラガラコンサートは一言で済ませば、誰もから認められた最上の出来だった。細かく舞台裏の出来事を書こうとすると、いつまでたっても終わらない気がする。

今のところ、指揮をする機会は年2、3のペースなので次回いつそういうチャンスがあるかわからないが、指揮そのものの仕事は相変わらずやっていて楽しいと思った。

音楽以外の部分、実際のリハーサルなどではないそれ以外での人とのコムニケーション、政治的な役割、などでの負担は大きく、企画の段階でなかなか思い通りにいかずなぜ自分がこのコンサートを指揮しないといけないのか自問していた。今回の仕事は6月から始めたので3ヶ月間、いろんな人と賛同しながら仕事を進めるのはかなり大変だった。

今回指揮そのものがうまくいかないようならもう指揮というものは金輪際やめようと決めていた。それより、途中でもうやめようとも何度も思った。

今回のような2万人を前にしたコンサートでは何人もの人が仕切りたがる。自分もそのうちの一人だったのだが、そのような人たちとは衝突なしては会話できず、最終的には妥協した形になった。自分がマネージャーとして今回の仕事のために連れてきた人も最初は協力的だったがそのうち逆に恨まれてるようにまで関係が悪化してしまい、思うように動いてもらえなかった。

コンサートは一目では華やかに見えて、舞台裏で何が起こっているか知っている人はごくわずか。自分に求心力がないせいで、何もかもに妥協したようになった、コンサートで指揮する自分の姿は舞台で踊らせられるマリオネットのように感じて屈辱的な気分にまでなった。

新聞に批評がでた。何もかもほめてもらった。かといって、これからの指揮の活動が活発になる訳でも全くないし、自分には笑みはあまりない。

指揮そのものより、それ以前、それ以外の克服すべきハードルが高く、自分自身の無力さを大いに感じさせられる今回の仕事だった。

2011年8月3日水曜日

心筋梗塞

記憶に新しいワールドカップの元サッカー日本代表の選手が心筋梗塞で倒れたとあり、新聞にはその説明が載っていた。冠状動脈なり、カテーテル治療なり聞き慣れた言葉がいろいろ出てきた。息子は冠動脈の移転手術もしたし、カテーテル治療もした。心肺停止も、人工心肺も手術の際経験した。

息子はこれからも常に肺動脈狭窄症の可能性がある。肺動脈弁と大動脈弁が逆についていてそのまま代用として使われているのでどうしても将来負担がかかり、動脈弁閉鎖不全などの異常が起こるというものだ。

幸いなことに、それ以来はカテーテル手術はしなくてもいい状態にあるが、心室中隔欠損症はまだ小さく残っているし、肺動脈弁も100パーセント閉鎖していない。それでも、先日のルイ アンジュス先生の診断では、肺動脈狭窄もなし、大動脈弁逆流もなしで100点満点をもらった。何でも普通にしてていい、ということだが、家では左足でボールを思い切りけとばすのを日課にしている息子だ。将来サッカーをしたい、と言われればどう対処していけばいいのだろうか。サッカー選手の心臓はおそらく酷使されたことによる動脈硬化で、冠動脈が詰まってしまっているという。そう出なくても、一般成人の生活内で、高血圧、肥満、喫煙などのキーワードは動脈硬化を導くものにあるという。心筋梗塞は息子にとって特に40代から常に意識してほしいものである。

2011年7月29日金曜日

ブルックナー

子供のときどうしても欲しかった、ヨッフム指揮ドレスデン管弦楽団のブルックナーの交響曲全集。当時はいくら探してもなかなかなくて、家には8番だけ持っていて大切に何度も聴いていた。今は廉価版で全集が30ユーロであったので懐かしい思いで早速買った。今聴くと、旧東ドイツのオーケストラは、すばらしいあの有名な金管はいいのだが、いかにもつまらなそうに雑な演奏する弦楽、特にヴァイオリンは気分が悪くなるくらいで10分もするともう聴きたくなくなる。
オーストリアの音楽と言えば、自分にとってはブルックナーの音楽である。Halb ein Gott, halb ein Trottlとはマーラーがブルックナーについて語った言葉だが、30をすぎてから本格的に対位法を学び始め、40代からようやく大きな曲を書き始めた。職にも就いていて生活にも困っていなかった人にいったい、どういう動機があったのだろうか?

2011年7月27日水曜日

長いシーズン

長いシーズンがやっと終わった。今年は特に収穫もない、疲れる1年だったと感じる。来年度からは、思い切って環境を変えていかないといけないかもしれない。9月には2年ぶりの「フェスタ ド アヴァンテ」があるが、それも終われば4、5年かかわってきたジナジオオペラでの役割も終わりにしたいと思う。
オペラ劇場での仕事は年々つらくなってきた。ウィーン時代の2002年にはいろいろなことがあり環境ががらりと変わったが、ぜひもう一度そうなってほしいものだ。

2011年7月19日火曜日

中耳炎の手術

TGAという先天性の心臓疾患を持って生まれた息子は生後11日で根治手術を受け、それからは心臓に関しては心配することなく、順調な成長を遂げはや1歳6ヶ月になる。
保育園にも8ヶ月から通っていて同年代の仲間や、おもちゃでの遊びなど親が見ていないところでもいろいろなことを学んでいるようだが、同時にこの時期にかかるべき病気にはすべて感染してきている。体に赤い斑点ができたり、舌に異常なできものができたり、熱が出たりという感じだが、いつまでたっても治らないものがある。
中耳炎と夜中の睡眠中に襲う咳の発作だ。咳の方は毎日夜の12時あたりに決まったように始まり、まるで悪魔に襲われるかのようにひどい咳が急に始まり、収まるまで5ー10分ほどかかる。いろいろなこと、その度に起こしたり、水を飲ませたり、シロップもあげてみたりしたが効果がなく真夜中には「悪魔の時間」がやってくる。
中耳炎の方は何度も繰り返しかかり、できれば避けてほしかったのだが先日の耳鼻科の診断で9月頃の予定で手術することになってしまった。耳鼻科の医者はもう一人、違う小児クリニックの先生にも3、4度見てもらったがそこでも手術はした方がいい、と言われた。
手術というが、耳の鼓膜に穴をあけチューブを差し入れ耳の中の液を出しやすくするという簡単なものだという。ただ、1歳半の子はじっとできないので全身麻酔になるというのが心配だ。生まれて次の日には全身麻酔を受けた子である。手術自体はどうも心配することないくらい簡単なもののようだが、万が一失敗した時は耳の中で出血するので、やっかいなことになる。

2011年6月12日日曜日

カルメン!

世界の劇場のどこかでは、毎日カルメンが上演されている、という。先日はこちらリスボンでカルメンの初日があった。カルメンしか歌わない、というスペシャリスト歌手と高音域が常に危ないが、テレビ「MEZZO」にもジョゼ役で出てくる高名なテノール歌手との共演はまれに見る、オペラ好きの人にはたまらないキャストであったのかもしれない。演出がいわゆる「Regietheater」そのもので、クラシックな舞台を求めている人には退屈なカルメンだった。
ふと思うが、オペラ歌手の人たちは自分がどう歌うか、よりもどういう演技をするか、ということに意識が集中している気がする。彼らにとってはオペラというものは役者として演技するもの、である。ただいつも見ていて思うのは、正直に言って、演技というものを歌と同じように勉強してこなかったのでは、ということだ。
いつも端から見ている自分には歌の場合は何がよくないのか、どうするべきなのかはだいたい分析できるが、演技の方は何となく「よい」「よくない」ことしかわからない。
たいていの「Regietheater」の演出の先生は歌手がどう歌うか気にしないので、1ヶ月以上の舞台稽古では歌の意識は薄れるばかりである。ましてはキャストの選考でも演出の先生が主導権を握るので、まず演技ができる人、できそうな人から順番に選ばれる気がする。
今回のカルメンは、確かに演技はすばらしくできる人のように思える。歌は初日になって、必要性にかられ、初めて「ちゃんと」歌ったようだ。ジョゼ役の人は、上背があり筋肉質で、それに何となく悲劇的な雰囲気があり役にぴったりかもしれない。歌の方は技術的な問題なのか、テノールの生命線である高音域がしっかりできない。致命的なことだと思うのだが、さていったいお金を払って見に来ているお客さんはどういうものを見たいのか、意識する人はいるのだろうか。

2011年5月2日月曜日

カストロ・ヴェルデ

去年ごろからの不況が今年に入って危機的な状態にあるという国際的な指摘を受けてというもの、あおりを受けて動きがなくなってしまったポルトガルの音楽界。そういう時期に、アレンテージョ州の文化的遺跡を中心の開催された音楽祭。先週末はリスボンから南へ200キロ行ったところでの音楽祭の一環のコンサートにピアニストとして出演してきた。
ピアニストとしての出演はなるべく引き受けたくないものだが、何せ元劇場監督のピナモンティ氏から直々頼まれては断るわけにはいかない。そもそも、ピナモンティ氏からはいい評価をもらってきたが、どうやらピアニストと思われている。
ベロナのアレーナの合唱団との共演だったが、リストの「Via Crucis」という息も絶え絶えの晩年の作品で、それを1日に普通のリハーサル、総練習、本番と何度も通して演奏しないといけなかったのは閉口した。1000人ほどの人口の町、カストロヴェルデの古いカテドラーデに800人ほどの人が集まり、テレビ局がライヴ録画した。なかなか面白い体験をさせてもらったが、ピアニストとしての出演はいつも後に寂しい感情が残る。

2011年4月16日土曜日

経済危機

大震災後も福島の原子力問題などで苦しむ日本の人たちだが、ポルトガルもそれに劣らず大危機の状態にある。大分前から言われていたポルトガル経済の破綻だが、ついにドイツやフランス、特に自国の野党からの圧力に屈し、自ら経済危機にあると宣言した。ついに土俵際に追い詰まれているようである。
この国には頼りになる経済的な柱がない。というより、自国の製品が市場にない。片田舎のアーレンテージョで買い物しても、フランス製のジャガイモ、スペイン産のトマト、海産物もポルトガル産のものが見当たらない。外に出れば農家があふれているのにこのスーパーでは自国産の野菜がかえない。こういう状態では、どうやって自国の経済を立て直していくのかよくわからない。だからといって、外国製品の不買運動なんぞは起こらないし、今夏ボーナスが出なくても意外に本気になって怒る人もあまりいないだろう。
自分には投票権がないので、国を変えようとしている人に一票をあげたくてもできない。とはいっても、この国を建て直す、と嘘ぶる次期首相候補もいない。投票権があっても、誰が首相でも何も変わらないだろう、というのが大方の意見でよってこれからも何も変わっていかないだろう。これがポルトガル、という国である。

2011年4月1日金曜日

転校生

ヨメの勤務先が4月から変わることになったので、必然的に1歳3ヶ月になる息子も「転校」することになった。半年ほどお世話になった前の保育園では特別かわいがってもらい、別れは親にとってつらいものだった。
さて新しい保育園は家からすぐ近くなので、これから1時間以上のクルマでの「通学」時間はなくなる。さして広くもないところだが、家の付近は緑にも囲まれ、海にも近いので、これから夏にかけては外で遊ぶには最適の時期になる。
転校生の初日は全く問題なかった。昼食もミートスパゲッティと家でも食べたことないものだったが、フォークを使って一人で食べていたという。後は遊び道具と、にぎやかな同級生としっかりした先生がいれば息子は満足すると思うので、とりあえず一安心。

2011年3月12日土曜日

大地震

先日の東北地方の大地震の映像がテレビで流されている。悲惨な状況は目を覆うばかりである。95年の阪神大震災ではそんなテレビ中継などなかった。オーストリアで流れたニュースは新聞でだったが、関西出身の自分には心に突き刺さるようなショッキングな出来事だった。

今回は自分の故郷から遠いとはいえ、戦場のような絵はイメージにある日本からかけ離れていて、かなりひどい。一刻も早い復旧と人々の心の傷が癒されることを祈るばかりである。

リスボンでも大地震が近いといわれる。1755年のリスボン大地震でも、1531年でも人口の3分の1の命が失われた。人口の3分の1を今現在に当てはめると、100万人になる。何とも凄まじい数だが、リスボンの建築物に日本のような地震対策などないから、十分にあり得る数字かもしれない。

Castella do Paulo 2

勤務先のオペラ劇場はリスボン市中心のシアドにあるので、レストランやカフェが数多くありランチタイムには行き先を自由に選べる。ただ手頃な値段でおいしく食べられるところはなかなかなく、というのもたいていのところは投げやりなひどい料理をだす。数多いカフェでも昼の時間帯に限ってこの国の習慣なのか、当然のように食事のメニューを出すが、そういうところでもなかなかおいしい食事には巡り会えない。

昼の休憩時間は限られているので、手軽に、速く、おいしいものをとなると選択肢はかなり限られてくる。手早く食事を済ませられるイタリアンは何軒かあるが、それもすべて安くておいしいところとはいい難い。近くの病院や警察の社員食堂では安いがおいしいランチは期待できない。

リスボンのコメルシオ広場からすぐの「パウロのカステラ」はその名の通り、主にカステラを中心にしたケーキ類の製造、販売をするおしゃれなカフェだが、やはりほかのカフェと同様平日ランチタイムには少なくとも2種類の料理を出している。日替わりメニューで、ほかの店ではお目にかかれないポルトガル伝統料理をベースにした創作レシピ、カレーライスやかき揚げ天ぷらと言った日本の一般的な家庭料理などを5−7ユーロほどでおいしくいただける。そういうことで、劇場から徒歩10分の距離のこのカフェに何度も通わせてもらった。

本職はケーキ屋さん、という色を前面に出していて、パウロ氏の創作ケーキを日替わりで3、4種類出している。日本でよく食べる甘さを控えめにしたようなケーキに一工夫加えていて、とても充実したものだ。値段は2,8ユーロで、このレベルのケーキは少なくともリスボン市内ではずば抜けている。

25席ほどの小さい店内は常に満席だ。中高年女性に常連客が多いようで、おしゃれに装飾された店内もメニューの内容もそういった年齢層に合わせているようだ。そういう女性方は皆「日本食をおしゃれに食べたい」人たちらしく、優雅な容姿の方々でヘビー級の人はまずお目にかかれない。そういうお客さんへの対応なのか、食事は見た目はきれいだが量がかなり少ない。前途のかき揚げてんぷらはどんぶりのご飯の上に乗っているが、ご飯の量は茶碗で半杯くらい、小さいエビ3、4個、野菜少々でご飯がちょうど隠れるくらいと言った感じだ。カレーライスは毎回ヴァリエーションがあり、ひき肉を使っているときもある。

金曜日は人気メニューという和風ハンバーグが出る。手のひらサイズが2つにお茶碗にごく軽くご飯が一杯、少々のサラダで6ユーロほど。味付けはしょうがにうす甘醤油という、日本で一般的なもの。柔らかく焼かれているのはいいが、合い挽きの肉に生焼けはちょっと残念なところ。

量が少ない、というのは劇場のすぐ近くのオーストリア人学生3人が共同経営している「Kaffeehaus」でも同じで、驚くほどのミニサイズの料理に立派な値段がついてくる。食べ終わるのに2分とかからないという量は間違いではないかと思うくらいだ。何年ぶりかに再会したオーストリアのビール「Zipfer」も見たことのないような200ccのビンに3ユーロというので驚かされた。

量で満足できずその店を避けるようになるのは、自分の恥ずべき性分であるかもしれないが、とりあえず「パウロのカステラ」ではそういう理由で常連客が離れていく感じはなさそうな人気ぶりである。スタッフの方々には、多忙すぎて高いレベルが落ちていくことがないよう、望むばかりである。

2011年3月1日火曜日

細気管支炎

息子はそろそろ生後14ヶ月なるが、ここのところ6度目に発症した中耳炎に重ねて恐れていた細気管支炎にかかり、びっくりさせられたがすぐに何もなかったように元気になって、結果的に大きな心配はいらなかった。
中耳炎はかかるたびに抗生物質を服用したが、繰り返すようだと手術はさけられないという。手術は簡単なものというが全身麻酔であり、常に何らかの感染の可能性があってできればさけたいものだ。

2011年2月3日木曜日

ドン・ジョアキン

エヴォラには数多くの小さなレストランがあるが、たいていはかなりいい加減なもので、普通は満足に食事できない。それでいて一つの料理に10ユーロもとられる。

アレンテージョ州の中心都市エヴォラでは、さすがにそこの伝統料理を食べるべきであって、旅行者向けのレストランはどこも同じようなメニューを出している。豚、アサリとフライポテトが合体した「アレンテージョ風豚肉(直訳」、アスパラガス入りの「ミガス(残りのパンをニンニクとブイヨンに浸して、卵と混ぜて蒸して固めたもの、オーストリア風にいえばTaschenknoedlのようなもの)」はどこにも必ずある。はっきり言って、あまりおいしいものではない。

そういう街の中で、ドン・ジョアキンDom Joaquimという、普通の店とは一線を引く、かなりまともなレストランをみつけた。3年ほど前、ヨメとたまたま入って「黒豚のヒレ肉とオレンジ」と言うのを食べて、かなり感激した。黒豚はイベリア半島が産地で、普通の豚に比べて脂分がかなり多く、味は非常にコクがある。そのプロシュート、生ハムは非常においしいものだ。
またスペインではそのヒレ肉を血もしたたる半生で食べたりするのだが、「ドン・ジョアキン」では前述の「ミガス」を包むようにしてオーブンで焼いており、創作料理ながらアレンテージョのアイデンティティを前面に出した、おいしいものであった。いつかまた行きたい、と思ってはいたが、あまり短時間で食べられるところではなく、食事が終わるころにはシェフのジョアキンさんがじきじきテーブルを回って常連さんと会話をされるくらいのところだから、レストランの内装にも、食器にも、アぺリティーヴォにもすべてジョアキンシェフの強い心意気が感じられる。ここではゆったりとリラックスして食べるべきであって、大学の休み時間を利用できるところではない。

今回、連日の仕事があってエヴォラに泊ることになったのでその日の夕食は久しぶりに「ドン・ジョアキン」で存分に楽しむことにした。
値段は、普段の2,3倍は計算しておくべきだが、料理は普段お目にかかれる物ではなく、それでも13,4ユーロとそんなにものすごく高いものでもない。量もかなり多く、普通は1品を2人で食べてちょうどいいくらいである。
アぺリティーヴォも初めから3,4種類出てきて、おいしいパンも付いてくるのでそういうものを食べているとお値段も方もどんどん上がって普段の3倍になってくる。
ワインのメニューもアレンテージョ色を出した、充実したものだ。

今回は「本日のお薦め」に黒豚のヒレがあったので、また頼むことにした。今回はオレンジでなく、ソースは蜂蜜、それにミントのリゾットが付いてくる。ご飯にミントの葉を混ぜるのは自分も家で何度がつくってそれにトルコ風にレモンまでかけてみたりしてさっぱりした感じになるが、ジョアキン氏のはミントを混ぜただけのアルデンテのかなりシンプルなもの。残念だったのは、ソースがかかった黒豚のヒレ肉と同じお皿に飾られて、食べていくうちにご飯は蜂蜜ソースに混ざってしまうありさまだった。

黒豚は今回はミガスは包まれておらず、3センチほど分厚く切られており、深い茶色のソースとも見事にマッチした、シンプルにおいしいものだった。それが5切れほどあった。ソースもおいしく、最後はパンですくっていただいた。そうやってお皿を磨くようにするのはソースがおいしかった、という表現にもなりうるのだが、ここポルトガルではイタリアやフランスでは普通のこともあまり上品なものではないという。

デザートにはやはりジョアキン氏の創作でウィーンの「Nusstorte」に似ていて、スポンジとナッツクリームと交互に何段重ねになっているもの。ジョアキン氏はさらにクリーム部分に卵黄クリームを使い、それもアレンテージョ特有のものであるから、この「Nusstorte」もアレンテージョのアイデンティティを忘れさせない。こういったアイディアには大いに好感が持てる。

そのケーキにはシェフ創作のアイスをつけてもらった。蜂蜜とオリーブオイルのアイスということで、これも独特でなかなかおいしかった。ただ、ところどころ氷のうすい層があって、「ガリッ」と噛みつぶすことになる。昔知り合ったフランス料理のシェフが話していたが、アイスというものは手間のかかるもので、毎日残りを火にかけて一度溶かしてまたアイスにしないといけない、そうしないとどうしても氷の層ができる、と。

ウェイターのサービスも応対も良く、ワインやデザートはそのウェイターに選んでもらった。結果的に今回のメニューは蜂蜜ソースの黒豚に蜂蜜入りのケーキ、蜂蜜アイスということになり、偶然だったが見事なラインになった。

エヴォラに行く、という人たちには、必ずドン・ジョアキンのことを話す。ただ旅行者にはゆったりしすぎて日帰りの人には向かないかもしれない。自分にとっては、いつでも戻ってきたいレストランの一つだ。