2011年12月9日金曜日

指揮狂の時、ラヨヴィッツ教授編

音楽の先生というのは、音楽家として実際活動している人であれば小遣いを稼ぐことが第一目的の仕事である。今まで出会った先生で、唯一そうでないのはどこの誰からもレッスン料をとらない湯浅勇治先生だけであった。

マスタークラスでも、お金のことを考えて教えている人たちばかりである。その他の特にピアノの先生は、個人レッスンではただ小遣い稼ぎのために毎週我慢を重ねて学習希望者の下手な演奏を見る。実際育てようと頑張れる、教えがいのある生徒もいるのだろうが、自分はいつでもそういうエリート生徒には当てはまらず、常に小遣い稼ぎの対象であった。音楽家は夢を売る商売であるから、夢を見ている人はそういう先生を前に物事を冷静に考える常識を忘れ、1レッスン100ユーロなどという異常な額を「偉大なる芸術家」に毎回寄付することになる。

ウィーン音大所属の先生となると、かなり話が違ってくる。特に指揮科は歴代名指揮者を輩出しているところだけあって大変な名誉もついてまわる。もしかして将来のモノになる人物を前に教えているかもしれないのだ。給料もその名誉に比例してそこらの劇場や管弦楽団の常任指揮者よりずっとよく、しかも契約は実質上終身だ。

スロベニア人のウロシュ・ラヨヴィッツ(またはウィーンで呼ばれているライオヴィッチ、本当のところどのように呼ぶべきかわからない)教授はあのハンス・スワロフスキー氏の直弟子である。もうかれこれ20年は教えていると思うが、指揮者としては必ずしもヨーロッパの第一線で活躍している人ではない。存在感あふれる大男であり、ドン・ファンを自負している人間である。アチェル先生のような親近感を持てる人ではなかった。よって、個人的に話をしたことはなかった。

自分はそのラヨヴィッツ教授のクラスに入った。自分が全くの初心者だったためかわからないが、5年間見向きもされなかった。レッスンは半強制的な一方通行の授業だが、皆同じ待遇だったわけでなく、目を付けらていた生徒は確実にいて、そういう人には今や世界の有名な指揮者であることが多い。

先生は指揮の基本動作は5時間で習得できると言う人である。よって技術的なことはほぼ何も教わることはなかった。その基本動作でさえ、習得しようとしても使い物にならず、ラヨヴィッツ先生自身実際に全く使っていない代物だ。

オーケストラを前にした授業ではいつもメッタメッタにたたかれた。学生オーケストラの嘲笑的な視線を前に、屈辱的な時間を何度も味わった。よって、今どういう人たちを前にして何を言われようが平然としている自分がいる。明らかに自分の弱い部分を鍛えてもらったラヨヴィッツ先生の功績である。

全生徒を前にした、教室内の先生の楽曲解釈の授業はかなり貴重なものであった。指揮者として、どこに視点を置くべきか学ぶべきことばかりのすばらしいものであった。そのレベルは一番高いところにあり、たとえば突然「第1楽章、4x4+4x4」などと言われて初心者の自分には時間の無駄かな、と思ったくらいだったが今となっては忘れられない大切なキーポイントになっているものであった。この先生の独演会にすぎなかった授業には膨大な知識が詰まっており、自分にとっては死ぬまで憶えておきたいものである。

そういう授業に5年間接することができた自分には大きな誇りを持っている。

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