2013年1月28日月曜日

李清氏のこと、最終回。

このなんでもない、個人ブログへの検索ヒットは一度書いた、李清氏のことと、息子の病気のことが一番多いようだ。ブログは元々自分の音楽家としての仕事のことを中心に書くつもりで開設したのだが、ネタがあまりないこともあり少々雑談的なものになってしまった。


息子の病気については、同じ悩みを持つ人、手術後の経過について不安で仕方がない人に勇気づけるものであってほしいと思う。この種の病気は一生つきあっていくものであるが、三歳の息子の日々の成長ぶりは生後すぐの手術のことは忘れさせるものである。

本来なら失っていたはずの命が、手術を行った医師団スタッフ、サンタクルス病院により救われたことは、奇跡のように思える。感謝しても仕切れない。もちろん、神様にも感謝しているのだが、ルイ・アンジュス先生を始めとするスタッフにはその100倍の感謝の気持ちを抱いている。





李清氏について検索している人が多いところを見ると、先生はまだまだ、現役で活躍されているようだ。今の、オペラの分野にいる自分には遠い存在になったが、ウィーンでの彼に関する思い出は、まだある。

彼の思い出はごくわずかだが、強烈である。前回に書いたことも少々重複する。

今から25年前、留学先のウィーンにて、李先生には2か月弱、計10回ほどレッスンを見てもらったが、当時16歳の自分にはピアノを弾く技術の習得そのものより、音楽、人生に関する「話し」のほうが重要だったかもしれない。自分の頭の中にある、わずかな知識で世の中とはやく勝負してみたかった。いやな生徒であったはずだ。

もともとオーケストラの指揮がしたかった自分には、ピアノという楽器はオーケストラの代用でしかなく、音色そのものも、音楽リスナーとしてピアノソロ曲も別に好きなものでなかった。今の昔も、自分にとってピアノとは、数ある、愛すべきすばらしい楽器の一つにすぎない。

そのことを李先生に話すと、「ピアノが嫌いなのか!」とびっくりされた。というより、生徒に面と向かってピアノが嫌い(というニュアンスで伝わってしまった)といわれたことに、大変憤慨された。実際、李清グループのレッスンを希望している生徒さんは、ピアノに憧れ、ピアノの音色に魅了され続けている人たちであるはずだ。

李先生は「ピアノと私」という著作本がある人である。先生も含めて、そういう人にとっては、なぜそんなピアノが嫌いな人がまだピアノを弾いているのか、信じられないことだろう。

李先生とは全く話が合わなかった。親とも相談し了承を得て、ウィーン到着後2か月ほどで先生の元を離れることになった。先生からは、あっさりと「これでもう僕の世話になることはないからな」と念を押された。




実はその後、李氏が会長の、パン・ムジカ・オーストリアでアルバイトをさせてもらったことがある。なぜ彼のもとで仕事をしたいと思ったのだろうか。先生から離れて7、8年経った時である。自分の中で、苦い過去への和解の意味があったかもしれない。

仕事といっても、ドイツ語でレッスンされるオーストリア人先生方と、日本から来られた生徒方への、同時通訳のアルバイトである。旅行ガイドと並んで、当地留学生によくある類いのアルバイトである。

通訳専門の人にとって、同時通訳というのは時給10万円とも言われる、本格的に体力、精神力の消耗が激しいものらしいが、この程度のレッスンの通訳は、要するに「適当」に扱われる。時給は100シリング、つまり千円くらいだったかもしれない。

李会長から、この仕事を始めるにあたって「講習会の成功の鍵は通訳が握る」という説明を受けた。受講者の先生への印象は、通訳のやり方、態度によって大きく左右される、という。

当時の自分は、先生のレッスン中に話すドイツ語は全て理解していたし、日本語にして生徒さんに伝えるのも全く不自由しなかった。パンムジカ主催の講習会での、たしか4回くらいのレッスンの「お仕事」も普通に終わったが、この一回きりでもう二度とアルバイトに呼ばれることはなかった。

その後、李先生に電話でその理由を聞いた。「受講者の印象が良くなかった」、つまり通訳として失格になってしまった。

李氏は音楽家である前に一人の経営者である。先生と自分のあいだの微妙な状態、当時16歳の自分との、長期的なつながりを前提とした20万円という現金での「契約」を、2か月足らずで終わらせた、そういう一時期の気まずい関係も、わずかなお金をも必要としている当時24歳の一学生への配慮も、全く躊躇することなく首を切ったのである。

自分にとっては、2度目の、同時に最後の先生とのお別れになった。

考え方次第だが、確かにこの先生がいなかったら今の自分はなかったかもしれない。

しかし、この李清さんとは、それっきりご無沙汰である。

2013年1月20日日曜日

Brisa do Rio, タヴィーラ、アルガルベ。

アルガルベ州とでも言うのだろうか、ポルトガルの最南に位置する地方は、ヨーロッパ大陸の最南地のひとつでもある。サグレス市の海岸線に立てば天気がいい日は海の向こう側、アフリカ大陸が肉眼で確かに見える。

向こう側は、モロッコのはずで、あの特徴的なモスクの建物の尖った部分がはっきり確認できる。アラブ人による、全くの別世界が海の向こうにあるのだ。あんなのがみえたら、それはいつか行ってみたくなるに違いない。そんな意識がポルトガル人の大航海時代につながっていったのだろうか。

時代をさかのぼると、海の向こうの別世界は実はこちら側にも普通に存在していた。イベリア半島の半分は、モーロと呼ばれる、れっきとしたイスラム教のアラブ人が何世紀というかなり長い間支配していた。その名残は現在も存分にあり、建築物だったり、アラブ語の冠詞であるalがついた地名は無数にある。algarveもしかり。イギリス人旅行者を意識してか、地名をallgarveに変えよう、という真面目な動きがあったが、歴史の事実からして、おかしい話である。

アラブ人は結局イベルア半島から追い出されたのだが、ポルトガルの歴史上では、コンキスタ、征服は勇ましい物語として残されている。アラブの世界の中で、幸福な生活していた人の多くの悲劇もあったはずだ。アルフレード・カイルのオペラ、「ドンナ・ブランカ」はたしかそういう悲劇の一つのようだ。もっとそれにまつわる悲劇を知りたい。

機会があってタヴィーラ、というアルガルベにある都市に何日か滞在した。そこも多くのイギリス人が休暇に来るところであって、ニュースでにぎわったイギリス人夫婦の幼い娘が失踪したところもこちらである。

タヴィーラは小さい町だが、しっかりとしたレストラン街がある。10以上ほどのレストランが狭い一地区に集まっている。インターネット情報を頼りに、ある30席ほどの小さいレストランに入った。

ブリーザ・ド・リオという名のレストランは、ポルトガルのよくある家庭、伝統料理をややモダンにアレンジした、旅行者でにぎわうところではよくありそうなレストランである。

幼い息子も連れていたので、19時前という早めの時間帯に入ったのでがらがらであったが、次第に満席になった。来る客は外国人も含めて常連客のようだ。

ここは自分にとって一番のレストランの一つの、イスタンブールのチヤに雰囲気が似ていた。すなわち、一流のおいしい物が食べられる正統派のレストランである。料理はアサリのカタプラーナという煮込み料理だったが、すばらしくおいしかった。

手順は簡単そうで、なかなうまくいかないのが料理だと思うが、アサリはともかく、たっぷりあったソースの中にあった豚肉は、こんなに完璧に調理されるものなのかと驚かされた。ソースは恥ずかしくなるくらい、パンですくっていただいた。味のバランスといい、料理を堪能する、とはこのことかと思わされる。

2013年1月8日火曜日

トニ

ポルトガルの名門クラブ、ベンフィカ・リスボンの元名選手であり、元名監督であり、ポルトガル代表チームの元監督であり、テレビのスポーツ番組ではご意見番としてよく出てくる人物に何度も会って、食事も共にし、ベンフィカのカテドラル、シュターディオ・ダ・ルーシュでは隣に座って試合観戦をしたという、奇妙だが貴重な体験をしたことがある。

アントニオ・オリヴェイラ氏、または一般に知られているトニ氏はいわば国民的英雄である。劇場の同僚の家主さん、という関係でオペラに何度も家族同伴で来ていただいた。
上演後の歌手やスタッフの食事会にも気軽に同伴し、まさしく普通の人のごとく、誰とでもいろいろ雑談ができる気さくな、人格者である。

食事会までの徒歩での道のりでは、少年グループに見つけられ「トーニ、トーニ」とシュプレヒコールを受けていた。何度も共にしたレストランでは隣に座ったとき、いろいろな話を自らしてくれた。ベンフィカでは選手としても監督としても2年に一度は常にタイトルを獲得してきたこと、選手時代は常に最後の力を振り絞って走りまくっていたこと(中盤のディフェンダーであった)、出身地はコインブラで実はベレネンセスのファンであったこと、中国のクラブを指揮したこともある話など、ベンフィカのファンなら感動するようなことを普通に話していた。

サッカーの試合にも劇場の同僚と共に誘っていただいた。ベンフィカの本拠地、ルーシュには一緒に行こう、と言ってもらい地下鉄の駅で待ち合わせをした。駅に着くと、出口の向こうにトニが普通に立って待っていた。シュターディオンまではそこから徒歩10分だが、さすがにいろいろなファンに話しかけられたり、サインを求められたり、記念写真をお願いされたりして時間がかかったが、常に普通に対応していた。驚くことに、嫌がらせに来たり、野次を飛ばすような人は全くいなかった。

シュターディオンの入り口は混雑していて、一人一人ボディーチェックが行われていたが、トニと一緒にいたのでそれは免除させてもらった。シュターディオンではスポーツカーの座席を模した、あるいは同じ物を使った席に座り、グラウンドがまさしく舞台に見えるすばらしい眺めであった。

当時のベンフィカは成績が芳しくなく、下位相手に苦戦していたが、ここぞとばかり隣に座るトニに質問を浴びせてしまった。ただの一ファンである自分の意見にも丁寧に答えてくれた。ひょっとして、こういう体験を毎週させてもらったらサッカーの監督になれそうな気がした。

前半が終わる5分前に席を立ってブッフェに行こう、とこっそり言ってきた。未だガラガラのホールで食事に手を付け始めたが、しばらくすると人でいっぱいになった。意外なことに、みな静かに話をし、よく競技場の観客席でみかける興奮状態の変な人はいなかった。

試合が終わったあとも、駅まで一緒に歩いてくれた。またいろいろなファンに足を止められあまり話はできなかったが、まさに国民に愛されているのがよくわかり、それに気さくに応じるトニ監督の人の良さも、印象深かった。

その後アラブのどこかのチームの監督に呼ばれたようで、試合も見せてもらったのもオペラに来てもらったのもそれっきりになってしまったが、今でも時々テレビにコメンテーターとして出てくる。