2011年11月22日火曜日

指揮というオカルト、ウィーン編

「オウム真理教」の裁判が今ようやく終了したという。人間というのはわからないもので、なぜあんなにたくさんの人が、いったい何を求めて「オウム」に入信し文字通り全てを捧げたのだろうか。本人にしか感じない、何かがあるのには違いないが、音楽家の世界も宗教のようなもので、ひとは「何か」を求めて「全て」をささげる。

ウィーンの湯浅勇治先生は言わずと知れた斎藤秀雄氏の生徒である。同時にウィーンで指揮の伝統を学んだ人でもある。20年以上もウィーン音大指揮科教授のアシスタントという肩書きで仕事している。授業用のオーケストラを編成する役目もありアルバイトを求める学生に直接声をかけているので、彼らから「ユージ」などと軽くよばれているが、指揮の先生としては「鬼」である。とにかく強い求心力のある人で、日本では指揮者としても、教育者としても実績が皆無なのにかかわらず、日本から毎年2、3人が弟子入りを願ってウィーンまではるばる運命を試しにやってくる。音楽大学のゲスト学生という肩書きをもらい何年にわたり連日先生のあとを追う。それでも、先生の指揮のレッスンは例外なしに無給だ。

自分の知る限りでは金聖響、下野達也、曽我大祐、阪哲郎、寺岡清高各氏のような指揮者は皆「湯浅塾」の出身者である。日本人に限定されず、何年か前のブサンソンで2位に入ったロッセン・ゲルゴフ氏も根っからの湯浅信者である。中国や韓国人にも信者は多い。「湯浅軍団」のひとは普通「信者」として先生と永久的な公私の付き合いをする。

23年前指揮希望の自分はウィーンに来てすぐ湯浅先生を紹介してもらった。会うなり「指揮者になりたいのか、やめとけ」といわれた。皆にそう言うというが、この人の面倒見の良さは半端がなく、何時間にわたっていろんな話をしてくれ、自分のことも聞いてくれた。なにをしたいのか、どういう心構えなのかとことん尋ねられた。16歳の自尊心、指揮者になれるはずと信じて疑わなかった変な自信はそのときに散々に砕かれた。どんな曲でもよく知っていると思っていたが、このままではこの人には到底届かないと思った。このときに与えられた「指揮者になるためのヴィジョンを自分で作ってこい」という宿題は後々、どれだけ未熟な自分に役立ったかわからない。

結局、そのときはまず「音楽家だ」といえるようになるくらいまで修行しないとどうしようもない、と思いピアノの方に方向転換して湯浅先生からはなれてしまった。それから10年もしてウィーン音大の指揮科の入試に合格したので、ようやくまた湯浅氏に関われるようになった。先生のレッスンのためだけに来ている客員学生でなく、れっきとした本科生としてである。毎日大学の通常の授業があるしそもそも指揮本科の教授のもとで学んでいた身分で「湯浅軍団」のようにはいかなかったが、できる限り先生の「勉強会」には参加するようにした。

毎週土曜日に開催される湯浅先生による「勉強会」は参加者はオープンではなく、入信するための「何か」を持った人たちだけのためだ。時間の指定がない。午後のだいたいの時間に10人前後が集まり、先生はひょい、と突然やってくる。授業はさっと始まるが、延々に続く。時には説教だけになる。休憩などなしで、たいていは夜にまで及び、そのまま皆軍団そろって一緒に食事をし、朝まで飲み会になってしまうこともある体育系の「会」である。

勉強の題材の予告はそういう食事や飲み会のときにふっとされ、知らないうちに次回のレッスンの曲も決まっていることもあるので、常に輪の中にいないと曲の準備どころではない。信者にはピアニストも自然に集まってきており、レッスンには常に4人のピアニストがそれぞれ連弾で2台のピアノに向かいオーケストラを再現する。

指揮を勉強したことのある人は誰もが経験したことだと思うが、授業内は全員に同じ時間が与えられる訳ではない。実際には自分に順番がなかなか回ってこない。本科の指揮の授業ではどんなに準備していってもオケの前に立たせてもらえない日々が続いた。勉強会でも最強の信者から始まりそれが延々と続くので、まずそれをずっと傍観する。かなり我慢して続けて通っても先生のレッスンを聴講するだけで自分に指揮の機会は回ってこない。結局、1年くらい通い続けた湯浅塾では1度10分見てもらっただけだった。サッカー選手もプレー機会がないと違う環境を求めるではないか。

飲み会では自分は何に面白い発言も、パフォーマンスもしないし、どうしても何か披露するアイディアも、モチベーションもわいてこない。よってある日、湯浅信者の怖い人からこっぴどく怒られた。「勉強会」の続きである飲み会、食事会には命をかけて参加するものだ、という。そこでは、なんとかして人の注意を引くような努力をするそうである。上に燕尾服、下にピンクの象さんパンツを履いて飲み会に登場したこともあるんだ、という。

一度沼尻竜典氏がそういった会に訪問してきて、ふと「はて、メランジュとカプチーノの違いは何かな?」と皆に聞かれるので、そこはウィーンに染まっている自分がすかさずまじめに答えたところ、信者の方々は反応せず、沼尻氏からはただただにらまれた。そう言う普通の受け答えの場ではなく、今で言う「空気」が読めなかったのである。その場その場が戦場だ、というのが全く理解できなかったのだ。

自分が湯浅塾に通い続ける意味が分からなくなってきて、ただ人の指揮を見るという我慢もしきれなくなり、徐々に顔を出さなくなってしまった。誰からもなぜもう来ないのか、などと聞かれなかった。

自分はどうしても小さい自尊心を簡単に捨てられず、強力な「グル」から目を向けてもらえなかった。どうやらそういうところに、学校の授業でも、人生の本番である今現在も自分に順番がなかなか回ってこない原因があるのかもしれない。そう思えば、何気に悲しくなってくる。

2 件のコメント:

菅野茂 さんのコメント...

まあー、あそこは湯浅真理教でしょう。

匿名 さんのコメント...

湯浅氏が成功したのは、日本人にはウィーン音大伝統の理詰めの解釈を教え、
外国人には齋藤指揮法を教えたからでしょう。
20年ほど前には湯浅門下が日本の指揮界を席巻していましたが、最近は広上淳一氏が
教授を務める東京音大指揮科に著名な演奏家も在籍していますし、
齋藤秀雄、スワロフスキーに師事し、学習歴でも演奏歴でも湯浅氏とは比較にならない
尾高忠明氏が藝大指揮科で教え始めてからは、次々と優れた才能が出て来て、
指揮界の地図は確実に変わって来ています。