2010年3月26日金曜日

クリストフ・ダンマン

現役ピアニストだという文化大臣、ガブリエラ・カナヴィリャスによって、わがサオ・カルロス劇場の芸術監督、クリストフ・ダンマン氏の退任、実質的な即解雇が決定的になった。ラジオのインタビューでは4月末には後任者の名前が発表できるという。「芸術的方向と劇場の運営方法がポルトガル国民の趣味に全くあっておらず、批評家、観客、そして劇場運営にかかわっている人たちの期待に全く答えられていないことはますます明確化してきている」という理由を述べた。

聴衆の目線からいえば文化大臣の、勇気ある良い決断だったと言える。オペラの上演や、シンフォニーコンサートは確かに観客は入っていても、演目が乏しくスター歌手も不在で、とにかく新聞紙上での批評が酷なものが多かった。その内容は最近怒りに満ちたものに変わってきていて、露骨に氏の退任を求めているものもあった。劇場の人件費をできるだけ抑え、できるだけ多くの公演をできるだけ多くの観客に見てもらうという、シンプルな彼の哲学は、結果として上演の質を落としてしまったようで、耳の肥えた人たちには全く受け入れられなかった。

ダンマン氏は、実際話すと常に笑顔を絶やさず、誰にでもさわやかな印象をあたえる。最近は彼自身の方針からか、ドイツ語や英語ではなく常にポルトガル語での会話を欲した。彼はドイツ人としか彼の母国語で会話をしない。何度か話す機会を持ってもらったが、残念ながらそういう親切そうな人でも、自分にとって味方の人ではなかった。劇場での仕事上のわずかな希望は全て無視された。氏の劇場の芸術的運営から完全に構想外だったようで、いつもうまくかわされ、仕事はピアノ伴奏者としてのみ、指揮するなんて冗談でもない、といった感じだった。明確な理由は言ってもらえなかった。よって、あと2,3年いるはずだった芸術監督の退任は自分にとっていいニュースのはずである。

2010年3月25日木曜日

赤ちゃんとTGA

息子は生まれて2カ月になり、ようやく典型的なふっくらとした「健康的な新生児」に似てきた。今は投薬が全く必要ない、普通の赤ちゃんだ。いつも目を大きく開けて首を回し周囲をゆっくり観察し、寝るときはこの世の王様のように大の字になる。成長も標準並み以上で、そろそろ着れなくなってきた服も出てきた。

両親としてつらい日々が続いたが、息子のそういう健康的な様子によって心身とも落ち着いてきたように思う。育児休暇中のヨメは、今もコンピュータを開けるたびにTGAに関する情報をチェックしている。仕事に行かないといけない自分は家のことが気が気でならない。今まで、お互い健康に恵まれ比較的気楽に暮らしていた2人にとって、突然訪れた人生の試練の始まりだ。一生付き合うことになる「TGA患者」の両親に与えられた使命である。

インターネットには同じ運命をたどった親たちのエピソードをいくつか見つけ、写真やヴィデオで一部始終公開している人もあれば、闘病記として様子を詳しく文章にして綴っている人もいる。衝撃や様子はどの家庭でも似通っており、それでも元気に暮らしているTGAの子供たちの記録は手術前の自分たちには何の慰めにならなかった。

ヨメの担当の産婦人科医は常に親切な話しぶりだったが、息子の心臓疾患を出産前までに見つけられなかった。妊娠中毒のため、結果的に2人の命拾いとなる帝王切開手術が行われたが、その48時間後の決定まで自然出産を試みるべく、2度の陣痛促進剤の投薬があった。出産中は父親である自分も立ち入り禁止なので、ドアの外どころか建物の入り口の一般待合室で何も知らされないまま数時間待たされた。全て病院の決まりとはいえ、この緊急の状況下に一部外者のように追い出され、何とも納得できない扱いだ。生まれてきた息子の様子に明らかな異常が見えたので、手術後即検査に持って行かれ、ヨメは39週間身ごもった赤ちゃんを胸に抱くどころか、数秒しか目にできなかった。

呼ばれて出産後のヨメに会った。赤ちゃんは検査中なので当然そばにいない。恐るべきメッセージに備えて、最悪な状況を想像した。看護婦は心臓に異常があるらしい、というので即座に脳のダメージのことを思ったが、聞いても変な顔をされ「異常は脳でなく心臓です」とだけ言われた。

さらに一時間待たされたあげく、やがて産婦人科と小児科の医師団が神妙な顔でやってきて、ただ事でないことがすぐ分かった。説明を受けたが、血液に酸素が回ってなく、これから手術だということ以外よくわからなかった。動揺の中、とにかくすぐ赤ちゃんを見せてほしいと申し出たらICU検査室に上げてもらえた。

プラスティックの保育器の中の息子と初対面した。この対面のために、5,6人の医師団と看護人はそばを離れ2人きりにしてくれた。息子はただ美しかった。どう見ても完璧な、見事な神様の芸術作品であった。はだかのままで目をつぶっていたが、はなしかけたら少し反応してくれたように見えた。もしかしたらまだ母親のおなかの中と錯覚しているのかもしれない。宇宙人が入るような保育器の中に手を入れるとすねのあたりに指が届いた。

サンタクルス病院のルイ・アンジョス先生が緊急に呼ばれて医師団と同席されており、これからのことの説明を直接受けた。翌朝、心臓専門のサンタクルス病院に転送され早速手術(ラシュキント)があるという。それまでの一夜は看護人が付きっきりなので、いつでも電話するようにと言われてその場を去り、ヨメの元に戻った。

ヨメは比較的落ち着いた様子で、撮った写真を見せたり、受けた説明の伝達をしていたが、産婦人科の看護婦がやってきて深夜すぎているのですぐ出て行ってくれと言う。決まりなので、と言われるままに行かず口論になリかけたが、ヨメの「大丈夫だから」という言葉を信じて帰ることにした。

手術には常に命の危険が伴うし、親として一目しか見ないまま死別するわけは行かない。翌朝転院される前に息子のもとにヨメを連れて行ってほしいとお願いした。ヨメは車いすに乗せられ意識はもうろうとしていたが、息子に対面するなり静かに涙を流し、話しかけながらすねのあたりをさすっていた。

あんなに美しく、どう見ても完璧な子供が2つの切開手術を目前にしているのは信じられない悲しい事実だった。サンタクルス病院の医師団、看護師たちはそういう両親の心理をよく心得ていて、詳しく、丁寧に説明し、時には慰め、励まし、どんな質問にも答えてくれた。

息子のそばにはヨメと交代で、夜は横のソファに仮眠しながら常に付き添った。アンジョス博士によるラシュキント手術も、アベカシッス博士によるスイッチ・ジャテネ・ルコンテ手術も医師団の思惑以上の好結果に終わった。21日間を経て退院した時の息子の体重は、出生時に比べて400グラム減っていた。

2010年3月15日月曜日

ÇIYA

ヨメと去年のトルコでの思い出話をしていて、またレストラン「チヤ」の話になった。このレストランは、イスタンブルのアジア側のカディコイ区にあり、一般旅行者には遠く行きにくいところだろうが、そこはオペラ劇場の仕事をしている関係、なぜかアジア側にある劇場からすぐ近くにあり、幸運にも滞在1,2日目くらいに仕事仲間に紹介されて行ってみた。そこはオペラの仕事をしている強みである。毎日のように通い、結局仕事がない日にも船に乗ってわざわざ食べに行くほど、大変お世話になった。

料理はケーバプのようななじみ深いものもあったが、大半はいままで見たこともないようなもので、材料の組み合わせ、味付け、におい、色など目からウロコとはこのことで、どれも味は軽めで、とにかく素晴らしかった。生まれて初めて食べるものばかりだったが、実はトルコ人でも見たことがないような、紀元前のレシピの料理も置いてあるらしい。もとはトルコの東方の伝統料理のようで、それは素朴ながら自分の目には最高に洗練されているものだった。肉料理は羊肉中心で、野菜、豆を使ったいわゆるベジタリアン料理もたくさんある。魚料理はなかった。サラダバーは12種類ほど種類があり、これも今まで見たことのないものばかりで、印象的だった。ギリシャ料理で必ず出てくる、名前は忘れたがあのご飯を薬草の葉で包んであるもの、もあったが全くちがうものかと思うくらいおいしかった。これらの料理は、外国のどんなトルコ料理店でも食べることはできないだろう。パセリのジュース、ヨーグルトスープ、オリーブの実のデザートなど、他のどこで体験できるだろうか。本当に驚きの一言。

イスタンブル市内に数多くある、マーケティングに乗った高級料理店でもなく、旅行者にそれらしいものを見せかける料理でもなく、ただ伝統料理の良さを生かし、現代風にアレンジしたものを出し、地道に続けている店という印象を受けた。入口に5,6種類の日代わりメニューが作り置きされており、特に自分のような旅行者のお客さんは料理を指さして注文ができる。ここで本当に底の深い、終わりを知らないファンタジーにあふれた料理をとことん堪能させてもらった。

いつかまたイスタンブルに仕事に行きたいと思うが、それはこのレストランが存在するからでもある。今まで知ることのできた世界のレストランのなかでも、ずば抜けてナンバー1である。値段は、もちろん品の種類にもよるが、ふつうにサラダ、スープ、本料理、デザートで15ユーロを越す程度。残念ながら、アルコール類が置いていないが、トルコ伝統料理なら当然のことで、代わりにヨーグルト飲料のアイランを飲む。そういえば、お米料理のことをトルコ語で「ピラフ」という。トルコ語語源の単語を発見した。