2012年10月15日月曜日

息子の状態

息子は最近よくいく、海岸線での散策で歩きたがらない時がある。普段は元気な子供で、4月からもう熱にかかっていないくらい体の方も丈夫になってきたようである。親の心配事は常にTGAの手術後の経過で、年に一度の心エコーの診察では心配になってくるものである。急にしゃがみ込む動作はもしかして、大動脈の狭窄が原因ではないだろうか。

そういうわけで、急遽わが家の英雄である、ドットール・ルイ・アンジュス先生に診てもらうことになった。結果は、心臓の穴はほぼ完全にふさがっており、弱々しかった弁は元気に動いており、血の逆流もほんのわずかに認められるのみ、ということである。

前回の診察でも100点満点であったが、今回はさらに状態は良くなっているということである。歩きたがらない、疲れを見せるそぶりは心臓ではないから、心配しなくて良いと言われた。息子は、小児心臓外科の優等生である!

12月の、年に一回サンタクルス病院のスタッフに顔を合わせるクリスマス会では息子の成長ぶりを披露するのが楽しみである。そのイベントには、パパが音楽家として参加することになっている。それは、許される限りずっと続けていきたいものである。

2歳9ヶ月になろうとする息子は、言葉の方もだいぶんポルトガル語中心に発達してきたが、まだ学校での出来事を詳しく話せるくらいではない。「今日どっかイタイイタイした
か?」の質問には答えられるようになったきたが、「誰がやったの?」の問いには決まって好きな女の子の名前をいう。本当かどうかわからないが、「イタイイタイ」の箇所、挙げ句の果てには虫刺されのあとまで全部その女の子が原因ということなので、冗談なのかもしれない。転校先の学校の先生方は、日々の出来事を話してくれるが、親の直感で前の学校でのように都合のいいことを並べているのではないようだ。

夏休みの間、一度もうまくいかなかったトイレトレーニングが進んで、もう少しでオムツが取れるかもしれない、というところまで来た。学校ではオムツを使わずでいる。感謝である。

例の週末の散策では、決まって海岸線に沿って歩いて20分の子供用の遊び広場に向かう。そこでは女の子たちには何か吠えておどかし、学校の友達に会った時には追いかけっこが始まって親の手に負えなくなるくらい活発である。


2012年9月2日日曜日

ヴィゼウ、ダオ。

8月には何年ぶりかに休暇らしい休暇をとった。行き先は、リスボンから北東にクルマで3時間に位置する、ヴィゼウ市郊外のポヴォア・ダオという、ローマ帝国時代から存在するという、「人口30人以下」の小さな村だ。

というのは、この村は何世紀の間見捨てられた、無人の村だったのだが、最近になって中世の村を旅行者向けに再現したようだ。山に囲まれた村には10軒ほどの、石造りの美しい家が並んでいる。

そこには農業が行われていたり、家畜が飼われているわけではない。あくまで観光目的の村なので、プールやスポーツ設備があり、そして趣味のいい、かなり高級感にあふれるレストランが併設されている。

内部は建物そのものが中世のままなので、内壁の石畳は外壁と同じで、室内は薄暗いが巧みなデコレーションで、容易に素晴らしい雰囲気を醸し出すことに成功している。
やはり中世時代のキッチンを模倣した、グリル場がレストランの中央にあり、様子を眺めるばかりか、シェフのおばちゃんは気軽に会話にのってくれる。

ワインリストはいわゆる「地酒」を中心に豊富にある。早速silgueirosという、レストランから徒歩15分にある土地の白ワインを知ることになった。

注文の前からさっそくパン、オリーヴ、ヤギの生チーズにマメラードが出てくるのだが、これらはすっかりいつも食べ切ってしまうほど、非常に美味だ。聞けばこれらは一般に売られているものではなく、近くの無機栽培の農家で作られているものだという。
味にくせが全くない、正統派の、素朴な味である。

素朴な味はメニューにある、このダオ地方の料理にも当てはまる。素材を生かした、ストレートに美味しいものばかりである。大袈裟ではなく、一生こういう料理で生活してもいいくらいの、全くクセのない素晴らしいものだ。料理はこの地方特産の、真っ黒の土器に乗せられてくる。この土器をお土産に持って帰ったことは、言うまでもない。

こちらポルトガルで一人前を示す、「dose」というのはかなり曖昧な基準である。普通田舎では、1doseは十分2人で食べれる量だが、必ずしもそうではないことがある。この、ポヴォア・ダオのレストランの1doseは、妻と小さい息子に、かなりの量を食べる自分にも食べきれないくらいの量があった。

同じくらいかなりの量が出てくるのは、ポヴォア・ダオからクルマで20分の、ポルトガルの誇る美しい町、ヴィゼウの一番のレストランと評判の「コルティッソ」でもそうであった。2歳半の息子のためにいつも頼む野菜スープは、半リットルくらい出てきた。ここでも、評判に負けない印象的な料理を美味しくいただけた。

ヴィゼウには美しい街並みにふさわしい、美味しいものを食べられるレストランはいろいろあるのだろうが、この機会にミシェラン一つ星をもらったという、「ムラーリャ・セ」にも足を運んだ。そこでいただいた、子牛の煮込み料理は申し分のないものではあったが、こちらの「1dose」はまさに一人前であった。しかし、こういう旅行者向けの、どこかによそ行きの感があるレストランよりは、クルマで10キロ以下の徐行運転しかできない、古ローマ時代の道もたくさん残っているような村、ポヴォア・ダオでの食事の方が印象深かったことは確かである。

ちなみに値段の方は、これらのどのレストランでも「1dose」は昼10-15ユーロ、夜15ー20ユーロと、決して高いものではない。すなわち、またいつでも、何度でも足を運べられる。

2012年8月1日水曜日

バイク

息子は外を歩いていて、バイクが通るたびに「モータ!おおきいモータ!」などと興奮して叫ぶ。おもちゃのミニバイクも3つも持っていて、バイクのどこのなにが好きなのかわからないが、そこらに駐車しているバイクには上に乗っかろうとして親を困らせる。

最近、ふとバイクというものはどのくらいの値段で変えるのかなと思ってインターネットでいろいろ見ていたら、なんと125ccまでのバイクは普通の自動車免許で乗れる、ということに3年前からなっているというではないか。

自分は20歳のときに自動車免許を取った。今現在、クルマは欠かせない生活の一部であることを思うと賢明な判断だったが、バイクの免許に関しては、B免許と同時に取得するのが普通だが、なぜか最初から取るつもりはなかった。ウィーンで一時期50ccの原付に乗っていたことがあったが、それもA免許は必要なかった。

道上からクルマを減らすべく、政府による環境や渋滞問題の解決案の一つであろうが、50ccと違い、125ccのバイクは半端ではない100キロ以上のスピードが出る。赤信号での停車状態から始まる、おなじみのヨーイドンではぶっちぎりでどんなクルマをも置き去りにする。カーブの走行や、ブレーキの仕方など未経験者にとってはわからないことばかりである。本来なら、何時間かの教習が必要だろう。

値段も、少々無理すれば届くところにあるではないか。雨の日の走行は危険という前に、ずぶぬれ状態になり走行後の行動に支障が出そうだ。それは差し引いて、市内では駐車や渋滞問題が解決し、それどころか150キロ離れたエヴォラまでも使えるではないか。それからずっとインターネット上での勉強が始まった。誰もが経験することであろうが、125ccに関しては知らないことはない、というところまで探求してしまった。

バイクの世界には、これまで一度も興味を持ったことがなかったが、クルマに比べて色、種類やデザインも豊富にあり、身につけるものも伴ってヘルメットやら何やらで、無限のごとく存在する。ヘルメット一つにしても、40ユーロのものから800ユーロもするのまである。防具の一つにすぎず、有効期間も5年というヘルメットに800ユーロも出費する人がいること自体、驚きである。バイクに夢中になる人の理由がわかったような気がした。

ウィーンで50ccの、ペダル付きでむしろ自転車に近いような原付バイクを乗っていたときは、乗ったときの自分の格好など全然考えていなかった。ヘルメットは一番安く、店内にあったサイズのものを買ったし、手袋は手元にあった、スキー用のを使っていた。時々道中でこちらを見て笑う人が少なからずいたが、今から思うと恥ずかしい格好をしていたものである。

2012年7月6日金曜日

停滞

ポルトガルに来て仕事するようになって、早いもので既に8年になる。

しかし残念ながら、仕事に関しては全く何も、自分が以前思い描いてきたようなことが成し遂げられていない。

何が原因なのか、常に解明しようとつとめているのだが、状況は自分の感覚では何もいい方向に変わってきていない。

一人の音楽家として、謙虚に努力する姿勢はなくさないようにしようと思うし、なるべく停滞の原因は自分自身にあるとして改善してきたつもりである。

しかし、もう8年もの自分には長過ぎる年月が経ち、そろそろ原因を自分の外にある事実を意識するようになってきた。

音楽家として、たいしたキャリアを積んできた訳ではないが、それでもこれまで9つの異なる国で活動してきた。要するに、プロの音楽家としてお金をもらった国の数が、「9」になる。ちなみに指揮者として、プロのオーケストラを振った経験は、8つの国だ。日本はまだない。

今日はっきり言えることは、ポルトガルでの仕事ほど、自分という一人の小さい芸術家が軽く見られたことはなかった。初めてポルトガルに行ったのは1995年、ポルト市での国際ピアノコンクールへの参加で、2度目は2000年のフィゲイラ・ダ・フォシュ市での、故アチェル先生の指揮のマスタークラスである。
95年のポルトではピアニストして最悪の経験の一つで、2000年はルーマニアのオケであった。コンサートでも指揮したが、企画の方は全くまともに計画されておらず、アチェル氏は危ういところで全て投げ出しそうになった。観客は20人ほどであった。

同じように、2004年から始めたリスボンのオペラ劇場での仕事も、音楽家としての脚光を浴びることはいっさいなかった。2007年から始めたジナジオオペラの仕事では観客を前にスポットライトを浴びることが多くなったが、どのようないい仕事をしたつもりでも、それらが認められて新たな仕事が舞ってくることはなかった。

自分の実力不足は承知の上である。足りない部分が何かもよくわかっている。しかし、微力ながら何かを少しでも動かすことはできないのだろうか。この国では、何かのアクションを起こそうとするとまず嘲笑され、次に欠陥部分を誇張され負のイメージを売られるのが常である!

コンサートでは、フレーズをどれだけきれいに歌おうが、オーケストラがどれだけ均一の取れた響きを披露しようが、逆にいい加減に楽器をたたいていようが、いいものも、悪いものもどうやら無関心でいるようである。別にいい音楽を聴けても聴けなくてもどうでもいい、という空気が流れている。あそこの、あの部分が本当にすばらしかった、という反応は夢の世界にしかないのだろうか。

これは音楽家にとってあまりに悲しい現実ではないだろうか。確かに、ポルトガル人からはここの音楽界は貧相で、将来的に何も期待できないよ、と初めて土地を踏み入れた1995年から常に言われ続けてきたが、それを認めたくない自分があり、何とか自分の力でどうにかしたい、という自負心があった。今、ここで書いたような意見もずっと、いろいろな方面からいやというくらい聞いてきた。

そういう土地で、8年のも長い年月にわたって生活してきたのは、人生は音楽だけではない、ということにつきる。人生は家族でもあり、子供の教育、将来でもある。

自分はそれでも、これからも続けてこの国、ポルトガルで生活する。人生は皮肉なものである。

2012年6月10日日曜日

ユーロ2012

ユーロと言っても、今日ポルトガルのような国が苦しめられている財政破綻のことではない。昨日始まったサッカーの話だ。

ポルトガル人はクラブレベルもそうだが、国対抗の試合になると普段見せない、愛国心を剥き出しにする。まさに国をあげて戦おう、という勢いであちこちでイベントなどが行われる。BES銀行が主催した、国代表のために走ろう、というマラソン大会には万単位の人が参加したようだ。

今回も数多くのスター選手を抱えた代表チームだが、現在のポルトガルの状態に合わせたように、自信を失っていていい成績を残せる気配はない。 厳しいグループに入ったこともあるが、3試合で終わって帰ってくるだろう。

サッカーは恵まれた環境にあり、財政的にも高いレベルにあって、ポルトガルの誇れる分野の一つだが、この最後砦も崩壊するとなると人たちの落ち込みぶりは目に見えている。 

隣国スペインも財政破綻寸前で、ポルトガルの人々には明日仕事を失うかもしない不安が常につきまとう。 サッカーもこのざまでは、何がきっかけで自信と誇りを取りもどすことができるのであろうか。

2012年5月23日水曜日

耳とチューブ

右耳にまだ残っていたチューブが耳あかの固まりと化して外にでてきた。
この青色のチューブはもうだいぶん前から鼓膜から外れていて、その本来の役割はなしていなかった。小さいチューブの穴は完全に耳垂れのようなものでふさがっており、しかも乾いてガチガチになっている。こういう異物がずっと耳の中にひっかかっていたなんて、息子にとって気分のいいものではなかったはずだ。外には自然に勝手にでてきたが、よかった。

息子はおそらく常に中耳炎にかかっているような状態らしく、いつ、どの先生に見てもらっても「鼓膜はよくない」という返事が来る。

さて、チューブ留置の手術なんてする必要はあったのであろうか。結果的には術後も2度だったか3度だったか、抗生物質を飲む必要があるくらい熱を伴う中耳炎になった。左耳のチューブは3か月後に膿みと一緒になってあふれるように耳からでてきた。

ちょうど1年前になるが、チューブ留置の手術は2人の医者から進められ、結局セコンドオピニョンの医者により私立の病院で行われた。当時1歳半の息子は当然、親にとっても痛かった。チューブ留置の手術なんて簡単ですぐ終わるものだが、手術は手術である。結果論だが、効果がない手術なんてしなければよかった。

生まれてすぐジャテネというおそらく人生最大の手術を受けた息子だが、できることならもうずっと、手術や麻酔などと無縁でいてほしいものである。

2012年5月9日水曜日

保育園

9月から息子の学校(保育園)を変えることに決めた。今通っているところは2年前申し込みの際いきなり事務の女性が息子のことを「心臓の子」と呼んだところである。

最初に心臓手術の話を詳しくした自分たちがいけなかった。そもそも父親が日本人であるハーフの子なので担当の先生からも「中国人ちゃん」とときどき呼ばれているような学校である。あまり2歳の子のことなので親がまだそんなに感傷的になることはないと思っていたが、そういう人たちのいるところはほかにも問題が出てくるものである。事務の女性とは何度か言い合いになった。

3月には来年度のこと、継続するか否か決めないといけない規則なので、ヨメを相談してほかのところを探す旨を伝えたところ、しばらく自分たちがどれだけ気を使って世話をしているか、と言うことをがんばって主張していた。

やっと今月に入って次のところを見つけて申し込みを済ませてそれを伝えると、今度は打って変わって冷たい態度を取り始めた。息子自身はどういう扱いを受けているのか心配だが、せめて普通に今年度末の7月まで頑張ってもらいたいものである。