2014年7月16日水曜日
ブラジル風ネッシュリング
指揮者のジョン ネッシュリング氏が、リスボンに登場した。
8年前の、サンパウロでの指揮者コンクールに参加して賞をとった時の審査員長、ということで再会を結構楽しみにしていたのだが、
挨拶に行くと全く自分のことは憶えていないような。
自分のことを手短に説明しても、まるっきり憶えていないよう。
しかも、話し相手にしないよ、というサインを出されたのか、「憶えている」という嘘もつかれてしまった。
残念で、悲しかった。
自分とは、せいぜいそれくらいの、無意味な存在であると思い知らされた瞬間を味わってしまった。
彼は、たしかに偉大な人物である。
音楽家の家系で、あのシェーンベルクの直系の親戚だという。
語学に達者で、何言語かを流暢に話すという。
5年ほど滞在していたリスボンでは、ポルトガルのポルトガル語を話す、唯一と言っていいブラジル人であったという。
聞いたことはないが、彼の書いた文章からして、ドイツ語も完璧らしい。
サンパウロの一角、決して治安のいいところではないプレステス駅の周辺を音楽区にする、という雄大な野望を持っていた人物。
荒廃状態であった旧プレステス駅は、南米最高のコンサートホールに姿を変えた。完璧な音響だけではなく、建築物としても見事である。
これは、いうまでもなく、ネッシュリング氏の力で実現した。
彼のオーケストラ、OSESP、サンパウロ州交響楽団は、彼の言葉によると、世界各国の大オーケストラに劣らない、タレントの集まりである。
アメリカの交響楽団のような金管を持ち、ヨーロッパの交響楽団の木管、そしてロシアの弦楽、そしてなにより、ブラジルの固有の文化が数多く産んだ、打楽器のタレント集団。
オーケストラは、未だに未熟な自分が言うことではないが、実際指揮してみて彼がそこまで言うくらいの、世界有数の音楽家の集まりとは思えなかった。
響きはたしかにすばらしかったのだが、どのレパートリーでも、隅々まで熟知しているような感じはしなかったような。
ネッシュリング氏は、その後、政府によってオーケストラから去ることになったという。あれほどまで精力を尽くした楽団から去ることになるのは、無念だったであろう。
現在は、新たにサンパウロのオペラの音楽監督になった。
この不況の世の中で、劇場の予算を拡大できるのは、彼くらいだろう。なぜ、そのようなことが可能なのだろうか。
ぜひ、彼のオペラ劇場で仕事をしてみたいと密かに思っていたのだが、全く顔も憶えてもらえていないことでは、とても叶いそうもない。
2014年7月1日火曜日
リスボンの無法地帯
リスボン市内、特に劇場のあるバイシャとよばれている地区は、アップダウンが激しく、狭く、一方通行が多くさらにはデコボコの石畳の道、とあって車で通るには勇気がいる。
ここ数年は川沿いの区間がずっと工事で、あまりにも混雑していて、平日、休日に関係なく常時渋滞が当たり前の地区だ。
そこの地区に駐車するとなれば、更に勇気がいる。
まずなかなか駐車スペースが見つからないのは当然として、見つかっても1時間2ユーロは軽くかかる、高い駐車料金だ。
平日は朝8時から夜の2,3時まで有料とある。
この都市は、駐車の際、一番近くの販売機まで走って時間限定が印刷されたチケットを入手し、フロントガラス越しに見えるように車の中に置く、というシステムをつかう。
しかしここは、ドイツやオーストリアと違って、市のあちこちに無法地帯、要するに有料駐車地区でもタダで駐車できるところがあるのだ。
チケット点検に来る人間が足を踏み入れない地域のことだ。
道でクルマを駐車スペースに誘導している人たち、見たからにして路上生活者か、それに近い生活をしていると思われる人たちは、一見金をたかってくるだけの印象があるが、
実は彼らはこういう無法地帯に精通している、貴重な存在なのだ。
彼らは、まさしく路上のことは王様のようになんでも知っている。
彼らに今チケットを置くべきなのかどうかを聞くと、必ず答えを持っていて丁寧に教えてくれる。この人達とは、実は顔見知りになっておいたほうがいいのだ。
情報代として、1ユーロをこっそり渡すのは言うまでもない。必ずといっていいほど、礼の言葉が返ってくる。
ただし、こういう人たちに対して横柄な態度を取ったり、小銭を渡さなかったりすると、逆にスリ団に車の中の様子をパクられる危険性が出てくる。
警察はこういう仕組みをよくわかっているはずだが、彼らが捕まえられたりはまずしない。
リスボンは、まだこういう文化がある都市である。
この先、必ずなくなっていくであろう、文化である。残念といえば、残念だ。
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