2013年5月20日月曜日
小学校時代、奪われた子どものこころ。
幼少の頃の思い出だが、通った大阪の小学校はひどいところであった。
学校には当然しきたりや、習慣などがあったが、不可解なものが多かった。当時、なぜこういうことをしないといけないのだろう、という疑問がかなりあった。
親や先生に質問をぶつけても、大人になればわかる、という答えで片付けられたものである。
大人になった今、思い返すことがあるが、実に無意味なことを強要させられたものである。
これは、果たして一般的なものであるのか知らないが、自分の頭の中からぜひとも去って欲しい、屈辱的な体験であった。
自分はこういう疑問に未だに答えられないでいる。要するに、通っていた小学校は、ひどいところであった、他の学校だったらまだマシだっただろう、という結論で済ませている。
毎朝、子供は登校したら校庭に向かわなければいけない。朝礼、という不思議な、今どう考えても意味がわからない、儀式じみたものがある。
朝礼では、一体何をするところであろうか。
朝礼の始まりには行進曲の音楽がかかり、足と手を振ってその場で音楽に合わせて足踏みをしないといけない。それも、前に朝礼台と言われる高いところに立って監視している先生の、「1、2、1、2」の怒鳴り声に合わせて、正確に足踏みをしないといけない。「1」とは、左足を地面に下ろす瞬間の号令、「2」は右足。手は、指を閉じ伸ばして、腕はまっすぐ90度の角度に振らないといけない。こういったことは、かなり力をいれて教えられ、先生方はかなり真剣に、模範例を見せていた。できない子供やふざけている者はかなり怒られた。
いつも同じ音楽の行進曲が終わると、「休め、気をつけ、礼」と怒鳴られ、当然声に合わせ、皆同時に同じ動きをしないといけない。
「礼」はともかく、「気をつけ」とは何なのだろう。なぜ「休め」が間にはいるのだろうか。
旧軍隊のしきたり、ということなんだろうが、日本は終戦後そもそも戦闘力を放棄したはずではなかったか。
子供なら当然するような質問に答えは一切なく、この動きも、散々繰り返し説明を受け、ただただ身につけていかないといけなかった。
そして列は、背の小さいものから順番に縦に並ぶ。自分は常に、クラスの五本の指に入る、背の低い子であった。両手を伸ばして、前のものに両肩に触れるか触れないかの距離で合わせ、それもずれないように立たないといけなかった。繰り返すが、これらのことをできないものはこっぴどく怒られていた。
自分は、怒られまいと、目立った動きをしまいとかなり気をつけていた。自分が今でもやろうと思えばできるこれらの動き、はずかしべき旧軍隊か何か知らないが、号令に対する動きは、怒られるのがいやで結局身についてしまったものである。
朝礼は、そんな行進曲だけで終わるものではなく、校長先生の話が始まる。それは、単なる雑談だったように思う。強かった南海が今なぜ弱くなってしまったか、程度の話を覚えている。
子ども側にはそういう朝礼を拒否する権利などあるわけない。これは強要であって、それも教育上好ましいものでも、必要なものでもないものである。小学生のような、幼い子を前にしていったい何をしているのだろうか。
小学校も年長になると、子供感覚でも不可解なことが増えてきた。学校は私服だったが、冬でも半ズボンを履かないといけない、という暗黙の了解があった。それが、子供にふさわしい、子どもらしい格好という説明があった。
そして、ある時、体育会系の一先生による、学校全体で行われた「なわとび」がさかんに行われた。
これも、当然子ども側には拒否権はない。いろいろな技を磨き、検定試験を受けて、ポイントを稼いで皆という皆、最高点「名人」を目指して練習する。
自分は当然、練習に励み、「三重跳び5回」というのをこなし、名人になった。そして検定委員というものになったが、楽しみしていた検定日にはそれに必要な色付きハチマキを何処かに忘れてしまい、例の体育会先生にこっぴどく怒られて資格を剥奪されてしまった。
今一社会人として生活していて、これらの体験ははっきり言ってトラウマである。行進曲に合わせて足踏みをすることも、「気をつけ」を上手にすることも、なわとびを披露することもない。学校は「気をつけ、礼」が苦痛であったし、行進曲にあわせて手を振るのは、当時子供の感覚でも屈辱的であった。知りたいのは、「なぜ」これらのことをしないといけなかったのだろうか。できれば、幼年時代にはこういうことから避けて通りたかった。
2013年5月19日日曜日
Quarta Feira, a taberna, エヴォラ
そろそろ三歳4ヶ月になる息子は、ここ最近になって目に見える変化が出てきた。
オムツは、保育園のしっかりした管理のおかげか、ほぼ必要なくなってきた。
車の中では、2時間乗っても酔ったりして吐かなくなった。
一泊の小さい旅行先でも、すぐ熱を出さなくなった。
そして、親以外の大人と、親の手助けなしでコミュニケーションを取れるようになってきた。自分から質問したり、会話を始めたりする。
レストランでは自分から飲み物の注文をして、親をびっくりさせる。
そういうわけで、先日、嫁の連日の休暇を利用してエヴォラ市まで、自分の仕事を兼ねて家族揃って行ってきた。
夜に行って来たレストランは、トリップアドヴァイザーでエヴォラ市内堂々一位に輝いている、taberna quarta feiraである。家族経営の小さいレストランで、50過ぎのおっちゃんが舵取りをしている。ここでは美味しいものしか出さない、という自信と気迫を感じさせる、エネルギーにあふれるオーナーである。
おっちゃんは見るからに、小さい子連れの、こちらの様子が心配だったようだ。騒がしくして他の、みるからに旅行者のお客さんの気に障ることがないよう、親もヒヤヒヤであった。早速おっちゃんは息子に話しかける。
「なまえは?」
息子が瞬時に正しく、はっきり返答したので正直びっくりした。それも、普段自分をさして使っている「あだ名」ではなく、本名を。いつから自分で言えるようになったのか?
あらかじめ、息子にジュースをおっちゃんに頼んでごらん、と言っていたのでおっちゃんが近づいたら自分で注文していた。はすかしがらず、はっきりしゃべれて親として満足である。自分がこれくらいの年齢の時、こういう大人との会話はできなかったのではないか?
このレストランには、メニューがなく、料理は頼まずにして出てくる。自分にとっては、いわゆるtable d'hote の初体験である。
まず、パンにつけて食べる、オーブンで温めたチーズ、わずかに炒めた、大きめのワイン風味のシャンピニオン、が前菜に出てきた。食べ終わると、見事な黒豚の煮付けがでてきて、その美味しさに幸せな気分にさせられた。特に、自分から注文したものでなく、どういうものを食べるのかあらかじめ想像せずに、突然美味しそうな料理を出されると嬉しさは倍増である。
いずれも、この地方のごく普通の郷土料理をいい素材を使って、丁寧に調理している感じである。飲むワインは、最初に出された赤ワインを断って白にしてもらったのだが、それも自分は普段にはまず飲まない類の、上品なものであった。
息子はそのメインディッシュも、付け合わせで出てきたアスパラガスとキノコ類のミガス、この年代の子たちの好物の揚げポテトもしっかり食べた。もともと食べる方は親を悩ませたことがないくらい、しっかり食べる子だが、美味しいものは必ず見分けて食べる子でもある。デザートとして出てきた、たくさんの新鮮なイチゴには、いつまで食べるのかと思わせるくらい何度も手を伸ばした。ケーキも出てきたが、果物そのままの方が好きなようである。
とてもいい夕食であった。レストランでの家族連れの食事は、気を使うもので息子の状態によって悲惨な結果、座っていられなくなったり、全く料理に手をつけなかったり騒ぎ出したり、となることがある。でもここ、quarta feira(水曜日の意味)では、息子は全く退屈せず、親は落ち着いていられた。
見事な食事もさながら、レストラン内の雰囲気、オーナー氏のホスピタリティー、といいまた機会がある時に来たい、と思わせるところであるのは確実だ。
息子は終始機嫌が良く、別れにはオーナーのおっちゃんと大きな笑顔でハイタッチしていた。
2013年5月5日日曜日
カリブ海のマルティニーク
マルティニークはカリブ海に浮かぶ、自然に囲まれた常夏の美しい島だ。フランスの海外県であり、通貨はユーロで走る車はフランスのナンバーである。
縁があって、この島に10日ほど、滞在してきた。ヴェルディのレクイエムを上演するという、大掛かりなプロダクションである。主に、120人ほどの合唱団の監督を任された。
バナナ、パイナップルなどのフルーツの産地で有名で、経済的に観光業とともにこの島をわずかながら潤いでいるようだ。ポルトガルでいえば、マデイラ島が似たような位置にいる。
マルティニークの食事は、特別美味しいものではない。肉類は決まって時間をかけて調理してあり、揚げ物は時間をかけているので硬くなっている。煮付けられた鳥肉はまだ馴染みやすいもので、コロンボと呼ばれるカレーのルーがよく使われる。特別辛くない、優しいスパイスであった。豆類の煮たもの、白いご飯が常に「おかず」であった。
ことし、4月に入っても肌寒い日が続いていたヨーロッパに比べ、このマルティニークでは27,8度ある、心地よい夏の気候だ。夜でも気温は下がらず、生まれて始めて日中の気温差に悩ませることがなかった。このプロダクションのために、ヨーロッパから100人ほど訪れていたが、体調を崩した人はいなかったのではないか。夜に外に出ても、肌寒いと感じることはなく、朝方も適当に涼しく、まさにちょうどいい気温である。
海はやはり格別で、水温も心地よく、こういう海岸ならいつ行っても良さそうだ。幸いクルマを貸してくれていたので気軽にいつでもどこにでも行動できた。
合唱団は、マルティニーク当地の3つの教会合唱団に加え、フランス、トゥールーズから助っ人が50人ほどよばれ、結構大きな合唱団になった。加えて、リハーサルはかなり限られていたので、かなり効率良く仕事を進めて行く必要があった。
それぞれの合唱団は時間をかけて練習してきたのだが、細部のまとめはやはり一つ一つ話していけないといけない。2つのアカペラの、どの合唱団にとっても難しい番号は念入りに練習する必要がある。結局コンサート当日でも、本番前1時間ほどの本格的なリハーサルが必要になってしまった。コンサート合計3度あったが、本番は本当に良かったと思う。ずべての合唱団はアマチュアだが、それぞれにとって印象深い経験だったのではないだろうか。
リハーサルは当然フランス語である。自分のフランス語の勉強は、特に必要性がなく、後回しになってようやく7年ほどまえに集中講座を受けたのみである。しかも、リヨンに4週間滞在した当時もかなりあやしいものだった。しかし、読むには、ほとんど理解できるくらいであるので、聞く方に慣れれさえすれば、何とかなると思っていた。ポルトガル語でも、イタリア語でも、ヒヤリングは最初のうちはちんぷんかんぷんでも、時間が経つに連れできるようになるものである。
それでも、少々の会話はできたし、リハーサルではなにせ専門的分野なので、ポルトガルでやっているのとだいたい同じようにできた。ポルトガルでもまったく不自由なしにできるわけではないし、あまり違和感なしにできた。
それでも、1体1の会話になると、ゆっくりしゃべってもらってもわからないことが多かった。特にクレオールと呼ばれる、マルティニークの話す言葉は難解であった。とにかく話すのが早く、なかなか自分の脳は追いつかなかった。いつか理解できるものなのだろうか。
マルティニークの人たちの、ホスピタリティー精神は素晴らしい。お世話にするなら、とことん手助けしてくれる。自分自身、ホスピタリティーとは無縁の生活をしているので、新鮮な、心が洗われた気分になった。
マルティニーク歴史は悲しいものだ。大方の人達が昔の奴隷主義の犠牲者の子孫である。要するに、アフリカ大陸から無理やり駆り出され、マルティニークのような島に集められ、アメリカ大陸での仕事、というか奴隷として使われるのを待機していたのだろう。思えば、当時には普通に行われていたとはいえ、今現在、この人たちへの保障はあるのだろうか。また、ヨーロッパ人到着前にいた原住民は激しく抵抗したらしく、数年に渡る戦いですべての命を失ってしまった。ヨーロッパのテクノロジーの前に屈したのだが、住民全員虐殺された、とは今の常識では考えられない、狂気である。 日本でも終戦前、総一億人して戦う、などと言われていたらしいが、実際にはおこなわれなかった。よって、日本の歴史は続いたのだが、マルティニーク原住民の語り継がれたものは、いわゆる人の記憶から失われたのだろうか。何れにせよ、今現在のマルティニークにはそれにまつわる話しというのは、存在するのだろうか。
滞在は9日だったが、また近い将来行くことになるかもしれない。年中、こういう初夏の気候なら、何年でも滞在したい場所である。
縁があって、この島に10日ほど、滞在してきた。ヴェルディのレクイエムを上演するという、大掛かりなプロダクションである。主に、120人ほどの合唱団の監督を任された。
バナナ、パイナップルなどのフルーツの産地で有名で、経済的に観光業とともにこの島をわずかながら潤いでいるようだ。ポルトガルでいえば、マデイラ島が似たような位置にいる。
マルティニークの食事は、特別美味しいものではない。肉類は決まって時間をかけて調理してあり、揚げ物は時間をかけているので硬くなっている。煮付けられた鳥肉はまだ馴染みやすいもので、コロンボと呼ばれるカレーのルーがよく使われる。特別辛くない、優しいスパイスであった。豆類の煮たもの、白いご飯が常に「おかず」であった。
ことし、4月に入っても肌寒い日が続いていたヨーロッパに比べ、このマルティニークでは27,8度ある、心地よい夏の気候だ。夜でも気温は下がらず、生まれて始めて日中の気温差に悩ませることがなかった。このプロダクションのために、ヨーロッパから100人ほど訪れていたが、体調を崩した人はいなかったのではないか。夜に外に出ても、肌寒いと感じることはなく、朝方も適当に涼しく、まさにちょうどいい気温である。
海はやはり格別で、水温も心地よく、こういう海岸ならいつ行っても良さそうだ。幸いクルマを貸してくれていたので気軽にいつでもどこにでも行動できた。
合唱団は、マルティニーク当地の3つの教会合唱団に加え、フランス、トゥールーズから助っ人が50人ほどよばれ、結構大きな合唱団になった。加えて、リハーサルはかなり限られていたので、かなり効率良く仕事を進めて行く必要があった。
それぞれの合唱団は時間をかけて練習してきたのだが、細部のまとめはやはり一つ一つ話していけないといけない。2つのアカペラの、どの合唱団にとっても難しい番号は念入りに練習する必要がある。結局コンサート当日でも、本番前1時間ほどの本格的なリハーサルが必要になってしまった。コンサート合計3度あったが、本番は本当に良かったと思う。ずべての合唱団はアマチュアだが、それぞれにとって印象深い経験だったのではないだろうか。
リハーサルは当然フランス語である。自分のフランス語の勉強は、特に必要性がなく、後回しになってようやく7年ほどまえに集中講座を受けたのみである。しかも、リヨンに4週間滞在した当時もかなりあやしいものだった。しかし、読むには、ほとんど理解できるくらいであるので、聞く方に慣れれさえすれば、何とかなると思っていた。ポルトガル語でも、イタリア語でも、ヒヤリングは最初のうちはちんぷんかんぷんでも、時間が経つに連れできるようになるものである。
それでも、少々の会話はできたし、リハーサルではなにせ専門的分野なので、ポルトガルでやっているのとだいたい同じようにできた。ポルトガルでもまったく不自由なしにできるわけではないし、あまり違和感なしにできた。
それでも、1体1の会話になると、ゆっくりしゃべってもらってもわからないことが多かった。特にクレオールと呼ばれる、マルティニークの話す言葉は難解であった。とにかく話すのが早く、なかなか自分の脳は追いつかなかった。いつか理解できるものなのだろうか。
マルティニークの人たちの、ホスピタリティー精神は素晴らしい。お世話にするなら、とことん手助けしてくれる。自分自身、ホスピタリティーとは無縁の生活をしているので、新鮮な、心が洗われた気分になった。
マルティニーク歴史は悲しいものだ。大方の人達が昔の奴隷主義の犠牲者の子孫である。要するに、アフリカ大陸から無理やり駆り出され、マルティニークのような島に集められ、アメリカ大陸での仕事、というか奴隷として使われるのを待機していたのだろう。思えば、当時には普通に行われていたとはいえ、今現在、この人たちへの保障はあるのだろうか。また、ヨーロッパ人到着前にいた原住民は激しく抵抗したらしく、数年に渡る戦いですべての命を失ってしまった。ヨーロッパのテクノロジーの前に屈したのだが、住民全員虐殺された、とは今の常識では考えられない、狂気である。 日本でも終戦前、総一億人して戦う、などと言われていたらしいが、実際にはおこなわれなかった。よって、日本の歴史は続いたのだが、マルティニーク原住民の語り継がれたものは、いわゆる人の記憶から失われたのだろうか。何れにせよ、今現在のマルティニークにはそれにまつわる話しというのは、存在するのだろうか。
滞在は9日だったが、また近い将来行くことになるかもしれない。年中、こういう初夏の気候なら、何年でも滞在したい場所である。
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