2011年11月26日土曜日

指揮というビジネス、オラデア編

指揮の勉強はなかなか楽器や歌のレッスンのように先生に毎週じっくりみてもらう、というわけにいかない。レッスンは個人授業ではなく、生徒全員が広い教室にそろい、ひとりひとり代わりずつみんなの目の前で指揮をするのが普通である。少なくとも自分が経験した場ではそうであった。

初めのころ人の前に立つという経験をしていない自分は、同僚や先生の視線が気になるだけで頭の中が真っ白になり、何もできない状態になった。でもそれはトレーニング次第で、慣れれば、というより自分の指揮者としての役割を考えていけば徐々に「戦える」自分が身に付いていくものである。

しかし、そのような場をこなす機会が回ってこないと何もならない。もし自分が料理人だとして、自分の腕を磨くのにはやはり実際料理をするという作業の中でできるものではないだろうか。湯浅塾でそうであったように、人のパフォーマンスを延々と見ているだけでは何も自分の課題が見つからなかったのである。料理番組を見ているだけでは料理はできないではないか。

湯浅軍団でのような状況はどこででも同じという訳ではなかった。違う環境で自分に見合った場所がすぐに見つかった。ウィーンで講習会に教えに来られていた、ルーマニア人指揮者エルヴィン・アチェル氏のレッスンである。

アチェル先生はかなり長い間指揮を教えられていたのにかかわらず、本格的にキャリアを積むようになった直弟子はいない。講習会で知り合った仲間にはアテネ歌劇場にて専属で活躍しているアンドレアス・ツェリカス、今や世界の各地で指揮しているカルロ・モンタナロ各氏などはいるが、このウィーンでの講習会は実に誰でも参加できるものであった。そもそも、先生自身に誰かを真剣に育てる、という意識があったとは思えない。誰かのキャリアを手助けした、という話も聞いたことはない。

高い授業料を払って参加するマスターコースでは一定の授業時間が一人当たり決められており、誰にでも指揮パフォーマンスを見せられる時間が与えられる。要するに、最低1000ー2000ユーロ参加費がかかる講習会のことだ。そういうところでは自分にでさえ確実に順番が回ってきた。ウィーンの講習会には練習台として、ルーマニアのオラデア市からプロオーケストラ、オラデア国立交響楽団がやってきていた。

アチェル先生のもとでは1998年から6年もの間、じっくり自分の指揮を見てもらえた。マンツーマンで指揮のことを初めから教えてもらえた貴重な人であった。文字通り指揮を基本から教えていただいた。先生は大抵、よほどのことが無い限りどんな生徒に対してでも指揮の様子をじっくり観察され、いつもなにか的確な分析をしようと知恵を絞られる。主に技術的なことを重点的に見る練習ピアニストを前にしたレッスンと、実際のオーケストラを前にしたレッスンと2段階あった。実は自分は最初からずっと練習ピアニストとして雇われた身だったので、自分の順番以外は人のレッスンのために使われていた。

講習会の参加料はそのピアニストとしてのギャラから充分まかなわれ、それは回を重ねるにつれかなりのアドヴァンテージになった。ピアニストとして使われたおかげでルーマニアにも、ポルトガルの講習会にも呼ばれた。どこでも生徒としても参加したので、その度にオーケストラを前に経験を重ねることができた。それにポルトガルの講習会が無ければ、いま実際リスボンで生活することもなかっただろう。

アチェル先生は今でもハンガリーやルーマニア人の音楽家の間では知らない人はいないくらいの指揮者である。だた、鉄のカーテンが開いた時にはすでに60を超していて、西側のオーケストラでは全く指揮の機会がなかった。先生はどうやら講習会を通じで西側の方で仕事されたかったようだ。実際、オラデア国立交響楽団とはそういった講習会の直後、あわただしく演奏旅行に出られることもあった。

アチェル氏は、古き良き東欧の文化システムに育てられ、生きのびてこられた指揮者である。キャリアの当初から毎週コンサートの指揮をずっと、50年近くもされてきた人である。指揮の経験に関して言うならば、この人以上の人はいないと思えるくらいだった。レッスン中に時々真横で指揮してもらったことがあったが、こんなに指揮というのは軽々できるものなのか、と感動した。指揮の技術的な部分やオーケストラとの練習の仕方などは彼に何を聞いてもすぐ返事をもらえた。

アチェル氏は湯浅氏と同類ではない。「仕事」が終われば、まず行動を生徒達と共にしなかった。先生とは食事を結局一度も一緒にしたことはなかった。それでもポルトガルに同じ飛行機で行くことになったとき、隣の席に座らせてもらっていろいろなことを話す機会があった。一人の人間として、何でも気軽に話せる人であった。

アチェル氏は数年前に既に亡くなられた。自分の心の中で何か大きなものを失ったと思える人である。亡くなる直前まで指揮活動をされていた人で、自分も是非そのような必要とされる音楽家になりたいと憧れる。

2011年11月22日火曜日

指揮というオカルト、ウィーン編

「オウム真理教」の裁判が今ようやく終了したという。人間というのはわからないもので、なぜあんなにたくさんの人が、いったい何を求めて「オウム」に入信し文字通り全てを捧げたのだろうか。本人にしか感じない、何かがあるのには違いないが、音楽家の世界も宗教のようなもので、ひとは「何か」を求めて「全て」をささげる。

ウィーンの湯浅勇治先生は言わずと知れた斎藤秀雄氏の生徒である。同時にウィーンで指揮の伝統を学んだ人でもある。20年以上もウィーン音大指揮科教授のアシスタントという肩書きで仕事している。授業用のオーケストラを編成する役目もありアルバイトを求める学生に直接声をかけているので、彼らから「ユージ」などと軽くよばれているが、指揮の先生としては「鬼」である。とにかく強い求心力のある人で、日本では指揮者としても、教育者としても実績が皆無なのにかかわらず、日本から毎年2、3人が弟子入りを願ってウィーンまではるばる運命を試しにやってくる。音楽大学のゲスト学生という肩書きをもらい何年にわたり連日先生のあとを追う。それでも、先生の指揮のレッスンは例外なしに無給だ。

自分の知る限りでは金聖響、下野達也、曽我大祐、阪哲郎、寺岡清高各氏のような指揮者は皆「湯浅塾」の出身者である。日本人に限定されず、何年か前のブサンソンで2位に入ったロッセン・ゲルゴフ氏も根っからの湯浅信者である。中国や韓国人にも信者は多い。「湯浅軍団」のひとは普通「信者」として先生と永久的な公私の付き合いをする。

23年前指揮希望の自分はウィーンに来てすぐ湯浅先生を紹介してもらった。会うなり「指揮者になりたいのか、やめとけ」といわれた。皆にそう言うというが、この人の面倒見の良さは半端がなく、何時間にわたっていろんな話をしてくれ、自分のことも聞いてくれた。なにをしたいのか、どういう心構えなのかとことん尋ねられた。16歳の自尊心、指揮者になれるはずと信じて疑わなかった変な自信はそのときに散々に砕かれた。どんな曲でもよく知っていると思っていたが、このままではこの人には到底届かないと思った。このときに与えられた「指揮者になるためのヴィジョンを自分で作ってこい」という宿題は後々、どれだけ未熟な自分に役立ったかわからない。

結局、そのときはまず「音楽家だ」といえるようになるくらいまで修行しないとどうしようもない、と思いピアノの方に方向転換して湯浅先生からはなれてしまった。それから10年もしてウィーン音大の指揮科の入試に合格したので、ようやくまた湯浅氏に関われるようになった。先生のレッスンのためだけに来ている客員学生でなく、れっきとした本科生としてである。毎日大学の通常の授業があるしそもそも指揮本科の教授のもとで学んでいた身分で「湯浅軍団」のようにはいかなかったが、できる限り先生の「勉強会」には参加するようにした。

毎週土曜日に開催される湯浅先生による「勉強会」は参加者はオープンではなく、入信するための「何か」を持った人たちだけのためだ。時間の指定がない。午後のだいたいの時間に10人前後が集まり、先生はひょい、と突然やってくる。授業はさっと始まるが、延々に続く。時には説教だけになる。休憩などなしで、たいていは夜にまで及び、そのまま皆軍団そろって一緒に食事をし、朝まで飲み会になってしまうこともある体育系の「会」である。

勉強の題材の予告はそういう食事や飲み会のときにふっとされ、知らないうちに次回のレッスンの曲も決まっていることもあるので、常に輪の中にいないと曲の準備どころではない。信者にはピアニストも自然に集まってきており、レッスンには常に4人のピアニストがそれぞれ連弾で2台のピアノに向かいオーケストラを再現する。

指揮を勉強したことのある人は誰もが経験したことだと思うが、授業内は全員に同じ時間が与えられる訳ではない。実際には自分に順番がなかなか回ってこない。本科の指揮の授業ではどんなに準備していってもオケの前に立たせてもらえない日々が続いた。勉強会でも最強の信者から始まりそれが延々と続くので、まずそれをずっと傍観する。かなり我慢して続けて通っても先生のレッスンを聴講するだけで自分に指揮の機会は回ってこない。結局、1年くらい通い続けた湯浅塾では1度10分見てもらっただけだった。サッカー選手もプレー機会がないと違う環境を求めるではないか。

飲み会では自分は何に面白い発言も、パフォーマンスもしないし、どうしても何か披露するアイディアも、モチベーションもわいてこない。よってある日、湯浅信者の怖い人からこっぴどく怒られた。「勉強会」の続きである飲み会、食事会には命をかけて参加するものだ、という。そこでは、なんとかして人の注意を引くような努力をするそうである。上に燕尾服、下にピンクの象さんパンツを履いて飲み会に登場したこともあるんだ、という。

一度沼尻竜典氏がそういった会に訪問してきて、ふと「はて、メランジュとカプチーノの違いは何かな?」と皆に聞かれるので、そこはウィーンに染まっている自分がすかさずまじめに答えたところ、信者の方々は反応せず、沼尻氏からはただただにらまれた。そう言う普通の受け答えの場ではなく、今で言う「空気」が読めなかったのである。その場その場が戦場だ、というのが全く理解できなかったのだ。

自分が湯浅塾に通い続ける意味が分からなくなってきて、ただ人の指揮を見るという我慢もしきれなくなり、徐々に顔を出さなくなってしまった。誰からもなぜもう来ないのか、などと聞かれなかった。

自分はどうしても小さい自尊心を簡単に捨てられず、強力な「グル」から目を向けてもらえなかった。どうやらそういうところに、学校の授業でも、人生の本番である今現在も自分に順番がなかなか回ってこない原因があるのかもしれない。そう思えば、何気に悲しくなってくる。

2011年11月11日金曜日

Castella do Paulo 3

「パウロのカステラ」ではいいところと悪いところがはっきりしている。独自性とその質の高さはすばらしいと思う。カフェハウスとしてはこういう店はめったにお目にかからない。リスボンにはどのカフェも似たようなもので、まったく同じものを提供し、たまにオリジナルのケーキを出すところがあったとしても、一口食べてみれば注文すべきでなかった、と後悔するのが普通の土地である。

「パウロ」では一軒のパン屋さんのように、毎日あんぱん、メロンパン、カレーパン、クリームパンから始まってポルトガル伝統菓子まで、手書きの説明もあるので全て手作りだというにおいを前面に出している。さらに日替わりにパスティエの制作ケーキがある。もちろん店の名前からしてのメインのカステラも、3種類常時ある。ただカステラより興味深いものの方が多い。

昼食はよくなく、個人的にはなくていいと思う。こういう店なので、ランチタイムのメニューも独特なものを出す。しかしせっかくのこのおしゃれな店も、若いブラジル人のスタッフは多忙な様子を丸出しにする。ウエイトレスさん方々は大きな声で話し、狭い店内を足早に駆け巡る。どこのテーブルからでも声が響き渡り、メニューの説明もいちいち耳に入ってくる。何となくずっとせかされる感じで支払いもカウンターに行って済ませてくれ、と言われる。自分は仕事の合間にしか来れないが、ゆったりとした時間はまず過ごせない。

店では上品でありたい女性が対象のお客さんらしいので、2回ランチを食べれば満足できるか、という量である。そもそも40の醜い男が一人で行くところではない。元々目当てはどちらかと言えばデザートであって、それに別に日本食を食べなくても生きていける人間である。店が多忙なのは明らかで、時々電子レンジで加熱されたディッシュまででてくる。

はっきり言って、元々カフェとしてのメニューが存在し、常時サンドイッチやオムレツ、さらにオムライスまであるのだから、昼食の創作メニューまではいらないと思う。わずかな時間でも息抜きができるところなら、また行きたいところではある。

2011年11月9日水曜日

シェフ・ラムジー

最近はkitchen nightmaresという世界的なスコットランドのシェフ、ゴードン・ラムジーの番組にはまって毎晩のように見ている。アメリカの借金を抱えたレストランがラムジーに助けを求めるという、いわゆる現代的なリアリティーショーだ。

お決まりのように店内を改装し、新しいメニューを作らせ、客入りが上々になると筋書きで終わる。最初には店のものを試食するが、そのあとには決まって料理場のチェックがはいる。冷蔵庫(冷蔵室というのだろうか)には腐った野菜、賞味期限がとっくに切れているだろう肉類などが「発見」され、その処分、清掃からラムジーの改革が始まる。どのレストランも、たいていはきちんと管理されていない。

思えば、普段見知らぬレストランになかなか気軽に入れないのはこういったものに対する警戒心が働くのかもしれない。ラムジーはひどい料理は決して飲み込まない(少なくとも番組上では)。しかし、実際仕事の昼休みを使ってお昼を食べにきたとき、または家族連れでレストランに入ったとき、ひどい料理がでてきたときに何も口にしないわけにはいかない。注文し直すとか、違うレストランに入るとかという時間も根性も普通はない。

番組上ではライスなどは作りおきしたものを何日ではなく、何週間も客に出しているようだ。そういえば炊きたてだな、というライスをここポルトガルのレストランではあまり食べたことがない気がする。よほど、100パーセント冷凍品のフライドポテトを注文した方が無難だ。

最近はだんだん、リスボンでもエヴォラでも、どこの行きつけのレストランも失格の域に入ってきた。ラムジーのように「これ自分で食べてみろ」と一度言ってみたいものである。半生焼けの豚肉や、ひからびたような野菜がでてきたら本当に食べようがない。