初めのころ人の前に立つという経験をしていない自分は、同僚や先生の視線が気になるだけで頭の中が真っ白になり、何もできない状態になった。でもそれはトレーニング次第で、慣れれば、というより自分の指揮者としての役割を考えていけば徐々に「戦える」自分が身に付いていくものである。
しかし、そのような場をこなす機会が回ってこないと何もならない。もし自分が料理人だとして、自分の腕を磨くのにはやはり実際料理をするという作業の中でできるものではないだろうか。湯浅塾でそうであったように、人のパフォーマンスを延々と見ているだけでは何も自分の課題が見つからなかったのである。料理番組を見ているだけでは料理はできないではないか。
湯浅軍団でのような状況はどこででも同じという訳ではなかった。違う環境で自分に見合った場所がすぐに見つかった。ウィーンで講習会に教えに来られていた、ルーマニア人指揮者エルヴィン・アチェル氏のレッスンである。
アチェル先生はかなり長い間指揮を教えられていたのにかかわらず、本格的にキャリアを積むようになった直弟子はいない。講習会で知り合った仲間にはアテネ歌劇場にて専属で活躍しているアンドレアス・ツェリカス、今や世界の各地で指揮しているカルロ・モンタナロ各氏などはいるが、このウィーンでの講習会は実に誰でも参加できるものであった。そもそも、先生自身に誰かを真剣に育てる、という意識があったとは思えない。誰かのキャリアを手助けした、という話も聞いたことはない。
高い授業料を払って参加するマスターコースでは一定の授業時間が一人当たり決められており、誰にでも指揮パフォーマンスを見せられる時間が与えられる。要するに、最低1000ー2000ユーロ参加費がかかる講習会のことだ。そういうところでは自分にでさえ確実に順番が回ってきた。ウィーンの講習会には練習台として、ルーマニアのオラデア市からプロオーケストラ、オラデア国立交響楽団がやってきていた。
アチェル先生のもとでは1998年から6年もの間、じっくり自分の指揮を見てもらえた。マンツーマンで指揮のことを初めから教えてもらえた貴重な人であった。文字通り指揮を基本から教えていただいた。先生は大抵、よほどのことが無い限りどんな生徒に対してでも指揮の様子をじっくり観察され、いつもなにか的確な分析をしようと知恵を絞られる。主に技術的なことを重点的に見る練習ピアニストを前にしたレッスンと、実際のオーケストラを前にしたレッスンと2段階あった。実は自分は最初からずっと練習ピアニストとして雇われた身だったので、自分の順番以外は人のレッスンのために使われていた。
講習会の参加料はそのピアニストとしてのギャラから充分まかなわれ、それは回を重ねるにつれかなりのアドヴァンテージになった。ピアニストとして使われたおかげでルーマニアにも、ポルトガルの講習会にも呼ばれた。どこでも生徒としても参加したので、その度にオーケストラを前に経験を重ねることができた。それにポルトガルの講習会が無ければ、いま実際リスボンで生活することもなかっただろう。
アチェル先生は今でもハンガリーやルーマニア人の音楽家の間では知らない人はいないくらいの指揮者である。だた、鉄のカーテンが開いた時にはすでに60を超していて、西側のオーケストラでは全く指揮の機会がなかった。先生はどうやら講習会を通じで西側の方で仕事されたかったようだ。実際、オラデア国立交響楽団とはそういった講習会の直後、あわただしく演奏旅行に出られることもあった。
アチェル氏は、古き良き東欧の文化システムに育てられ、生きのびてこられた指揮者である。キャリアの当初から毎週コンサートの指揮をずっと、50年近くもされてきた人である。指揮の経験に関して言うならば、この人以上の人はいないと思えるくらいだった。レッスン中に時々真横で指揮してもらったことがあったが、こんなに指揮というのは軽々できるものなのか、と感動した。指揮の技術的な部分やオーケストラとの練習の仕方などは彼に何を聞いてもすぐ返事をもらえた。
アチェル氏は湯浅氏と同類ではない。「仕事」が終われば、まず行動を生徒達と共にしなかった。先生とは食事を結局一度も一緒にしたことはなかった。それでもポルトガルに同じ飛行機で行くことになったとき、隣の席に座らせてもらっていろいろなことを話す機会があった。一人の人間として、何でも気軽に話せる人であった。
アチェル氏は数年前に既に亡くなられた。自分の心の中で何か大きなものを失ったと思える人である。亡くなる直前まで指揮活動をされていた人で、自分も是非そのような必要とされる音楽家になりたいと憧れる。