2010年10月14日木曜日

常識の違い

もともと、あの三船敏郎も出演しているアメリカシリーズドラマ「将軍」からの知識だが、その昔ヨーロッパでは同じ服を何カ月も着続け、めったにはいらないお風呂もその服を着たままであったという。主人公のイギリス人は到着先の日本でお風呂に入れられるシーンで「病気になってしまう」と言って阻んでいた。「日本人は清潔好きだ」というのはマルコ・ポーロも書いた。

この現代社会でも一週間に1,2度しかお風呂に入らない人がいる、というのはこちらヨーロッパで生活している人ならときどき耳にすることだ。生粋のヨーロッパ人であるヨメはその話になるといつも「自分たちの家族は曾祖父母の代から日に2度お風呂に入っていた」と言う。

習慣も人それぞれ、ということになるがつい先日、息子の預け先の保育園でどうしてもわかってもらえない一件があって、この「将軍」でのエピソードを思いだした。

息子は朝早く保育園に送り出すが、夕方6時に迎えに行く際いつも預けた時と同じ服を着ている。何度も送迎係のヨメにお昼寝の後は着替えをしてもらうように頼んでもらったのだが、依然として同じ服で帰ってくる。一カ月してから父親の自分がその件だけのために直接出向いて話したところ、しばらくはしぶしぶ着替えてもらえるようになった。

先週は息子の調子が悪く、せき込んで朝から熱があったりして毎日保育園に行くか行かないか決めかねないという、その状態の赤ちゃんがまた同じ服で帰ってきた。朝は肌寒く、昼間は暑いというこの時期である。理由をきくと、「着替える際に肌が風に当たって良くない」という。病気にならないために同じ服を着続けるという理屈は先の16世紀のヨーロッパ人と変わらないではないか。

赤ちゃんには一日に何度も着替させてあげるというのは「淋浴」という常識ではなかったか。しかし何人のポルトガル人の友人に聞いてみるとそういう習慣はないという。当然保育園では話が通じなかったわけだ。保育園で怒る父親はさぞかし非常識に見えただろう。

2010年10月6日水曜日

ドンナ・ブランカ

サオ・カルロス劇場のシーズン最初の演目はアルフレード・カイル作曲のオペラ「ドンナ・ブランカ」であった。せっかくのポルトガルの誇る大作のお披露目の機会だが、今回はコンサート形式での上演だった。経費削除の真っただ中でのシーズンの開幕である。

今年は皇帝が暗殺され国政が民主主義化した100周年に当たり、10月5日はその祝日であるので、現国歌の作曲者であるアルフレード・カイルのオペラを上演するにはちょうどいい機会であった。

作曲者はケイルと呼ぶのかもしれないが、明らかにドイツ系の名前で、それに加えてポルトガル人の「えい」の発音は限りなく「あい」に近く個人的にはカイルと聞こえる。後期ロマン派の作曲家だ。

オペラの大半はマエストーゾのコラール風、または行進曲風に終始する。当時はやった異文化趣味的な音楽は全く見られない。物語の進行は分厚いオーケストレーションでの減7和音の伴奏によってレチタティーヴォがずらりと続く。話は13世紀のポルトガル南部、アルガルヴェでのもので、ドラマティック・テノールの役のアラブの王様と恋に落ちるお姫様の話である。主人公のブランカはソプラノ・リリコで、ちょうどミミやリュウといった感じである。

オーケストラは3管、トランペットやトロンボーンは4本持つ大きなものである。吹奏楽の部分がかなり強調されたオーケストレーションで、金管も楽想の重要な部分を受け持ち、かなりの時間に活躍する。分厚いオーケストレーションはまるでワーグナーのようだが、バレーも入るのでフランスオペラに分類されるのかもしれない。ただマスネはこのようにとんでもなく分厚くは書かなかった。
吹奏楽で編成される舞台裏オケは今回は観客席の奥の、いわゆる「大統領ロジェ」に配置された。

テキストはイタリア語で歌われた。スコアにはフランス語のテキストもあるのだが、書かれたリズムはイタリア語にあまりしっくりいかず、比べてみると本来フランス語のテキストで書かれたのではと気になって仕方がなかった。ポルトガル語のは存在しない。

音楽のアイディアそのものは素晴らしく、ところどころポルトガルのにおいを感じられる。15分ほどの「アラーは偉大なり」が繰り返される壮大な合唱のナンバーも登場する。よくある異文化を茶化した音楽ではなく、かなりしっかり正統的に書かれている。

テロの脅威の今の情勢の中、こういう「アラーへの讃歌」ものは少し配慮も必要と思うが、ここ極西南ヨーロッパに位置するポルトガルではどうでもいいのかもしれない。

本来4時間ほどかかる超大作は今回は2時間30分の音楽に縮小され、規模的に中小オペラのようになってしまった。バレー音楽は当然全部削除された。アリアも少しずつカットされ、場合によっては始めと終わりだけ、という大まかな縮小もあった。演出なしの上演にも配慮してか、今回の指揮者の先生はスコア指定よりかなり早めのテンポ設定に終始された。もともとべったりと重たい音楽で、それでも演奏者側には永遠に感じられた。

ブランカ役のソプラノは声の質的にかなりいいものを見せていたが、頻繁に出てくるカデンツァは必ずと言っていいほど正しい音が取れていなく、テノールは声が軽いのにまして明らかに勉強不足で、大統領ロジェの吹奏楽隊はオケとの音響的な問題を解決できないままで終わった。楽譜のほうは、今回の上演に当たって改訂版が新たに作られたが、それもまだところどころプリントミスがあり上演後に訂正していくという事態になってしまった。

リハーサルはとにかくスケジュール上全く配慮されていなく、ぶっつけ本番になってしまった部分も少なからずあった。これもあの前監督によって残された負の財産なのであろうか。個人的にはこういったとほほな部分は自分の手が届く範囲外で、ただ傍観するのみという立場である。今のところ、この仕事は少なからず我慢が必要である。

お客さんの反応や新聞状の批評はすこぶる良いもので、とりあえずめでたしめでたし、という今シーズンの船出になった。