2012年4月25日水曜日

審判

今年もまたチャンピオンズリーグが大詰めになってきて、今日は数年前のバルセロナ対インテルのコピーのような、ボールを持った側とゴールを守る側とはっきり分かれた試合をまた楽しめた。今日も自分の好みの劣勢側の勝ちである。バルセロナはボールを相手に触れさせないことに終始するので相手はこうやってチェルシーのように極端に6人でも何人でも最終ラインに守備を固めていればいいと思う。ラインの上げ下げを規律正しくやっていれば、見ている方は存分に楽しめるのでそうするチームはお客さんの反応など気にしなくていいと思う。

最近は特に敗者側の監督や選手までが審判の判定への不満などが述べられるのがあたりまえになってきた。一昔前はあまりそういう不平は聞かなかったような気がする。唯一、オーストリアの誇るべきハッペル監督がテレビを前に判定について口出ししていたのを記憶している。スポーツはあくまで娯楽であるので本来のところ、誰が勝とうか負けようがどうでもいいはずなのだ。年々ますます勝敗に動く金額もとてつもないものになってきて、真剣なものになりすぎている感がある。清い負け方、などという建前はもう信じない。勝ちを逃すことで、どれだけの巨額の金を失うことになるのか計り知れない。

裁判官と審判は単語としてポルトガル語では同じ(Juíz)である。去年のいまごろだったか、裁判所で証言するという経験をしたが、対する裁判官は話す証人の目をじっと見て聞いていた。普通といえば普通の態度だったが、どこか裁判所には威厳を保とう、秩序正しく物事を進めようという雰囲気がある。裁判所の決定には不満を述べたり理解ができなかったりというのが多くあるだろうが、生活がかかっているだけに当然のことに思える。サッカーの試合ごときもそれに近くなってきた。審判にはそれなりの保証と金額の見返りが必要であろう。

2012年4月16日月曜日

ヴァルター・ムーア教授と日本人コロニー

4月16日は自分にとって特別な日である。1988年に高校を1年でやめてウィーンに飛び立った日である。留学に行った、とどこの誰からも言われたが、自分にとっては後戻りのない正真正銘の「移住」であった。成田空港を飛び立つ時、そう簡単には戻らない決心を口にした。

亡き北杜夫氏の数多くの作品の中にブラジル移民を描いた大作「輝ける碧き空の下で」というのがある。この本の印象は強烈で、そのおかげでサンパウロに行った時はまず日本人街のあるリベルダージ区に向かい、お店やレストランに入ったり当地の5階立てだったかの立派な移民博物館に行ったりして本から得た知識と照らし合わせていたものである。自分のウィーンでの生活と戦前の彼らの生死を賭けた生き様は全く比べ物にならないが、よく自分を彼らの生き方に重ねて見たりした。

彼らの多くは農民であったので、常にコロニーのなかで助け合って生きてきた。日本人として、誇りを持って自分たちのしきたりや文化、言語や食生活を長い間守ってきた。ブラジルの食品メーカーに初代の移民者によって始められたものが多くあるが、そのひとつの「さくら」という名のしょうゆは美味しく、身近に手に入るものならいつでも持っておきたいものである。リベルダージにはお風呂桶屋さんが何軒かあって、時代劇で見るような木製の様々なサイズや形が展示されていてびっくりしたものである。

ウィーンでも日本人コロニーのようなものは数多くあって、その中でさんざんお世話になったりケンカもしたり足を引っ張りあったりもした。ウィーン滞在も2年もするとうんざりすることが多くなって、ある時いかなるグループから離れて生活したい、と思うようになった。ウィーン19区にあるカトリック系の男子学生寮に運良く入れることになり、そこには電話が階ごとに一台しかなく、ほかに日本人はおらず自分を取り合ってもらうのにドイツ語を話す面倒があるところにはコロニーの人は電話をしてこなくなった。北杜夫の小説にもポルトガル語が苦手で話す機会を避ける人の描写があるが、それに似ていた。

寮には自分と同年代が多く、そこでの生活では高校中退の自分に全く欠けていた人間形成が少々まかなえたし、学校の方も軌道に乗り出してしっかり勉強もできて間違いなく今の一社会人としての生活の土台になっている。

ウィーンの学校ではどこでも日本人は多く、そのなかにもグループがあって公私にいろいろな繋がりがあった。彼らの多くは東京芸大やそれ同等の云々音大出身のエリートであって、そのなかでは無名、もしくは一般大学の出身者や高校中退者の自分のような者は非資格者であった。

ウィーン音楽大学にはリートの世界の大家の一人にヴァルター・ムーア教授がいる。歌のピアノ伴奏者だが、レパートリーも知識も壮大で間違いなく尊敬に値する先生である。その先生にも日本人の生徒がかなりいた。リートはいつかぜひ関わりたい分野であったので、ムーア先生から何か学べるかと思い機会を伺っていた。ある時縁があってようやくあるオペラ制作で知り合った先生の生徒の一人の日本人バリトンから彼のディプロム試験のリート伴奏を頼まれた。

ムーア先生のところにレッスンにバリトン歌手と2度ほど行ってピアノ伴奏をしたが、ピアニストには厳しいという噂は本当で、どちらかといえば自分の演奏は全く話にならないというようなことを言われた。10くらい年上のそのバリトン歌手は手取り足取り教えてあげようという気迫の持ち主だったが、自分はまず歌のことを一から学ばないといけないと思い卒業試験の伴奏の話は断った。ムーア先生からはその後ある時彼のクラス発表会に聴きにいけない、と断りにいくと「schämen Sie sich!」と返答されびっくりした。アメリカ人である彼の普段の言い回しなのか、ドイツ語で普通そのような言い回しがあるのかと考えさせられた。

その後は彼の娘さんの一人が通っていた学校の合唱団の伴奏を受け持ったりしていたのでその発表会のたびに顔を合わせていたりしていた。

時は経ち、ムーア先生に最後に顔を合わせてからほぼ10年後、リスボン音楽大学にムーア先生が講習会を開くというので見に行ってきた。早速挨拶に行ったがこちらを知っているそぶりは全くない。自分が誰なのか手身近に説明したが、全くピンとこないようで視線は宙を浮いている。リスボンのオペラ劇場の指揮者とリート解釈のレッスンに顔を出していた日本人コロニーの一人と結びつかないのだろう。

自分はムーア先生のところでものちの指揮科の湯浅先生のところでも日本人コロニーの一人では決してなく、そもそも存在資格者ではなかった。ただそのわりには常にどこのだれからもコロニーの一人と見られる矛盾とともに生きてきた。今現在のコロニーと無縁の生活ではムーア先生のような人に顔を合わせても、学生時代の自分のイメージとかけはなれているようだ。どこに飛んで行ってしまうのだろうか。

日本の云々大学出身です、と言う事実さえあればムーア先生からも知ったふりをされ自分の存在価値も高まり、人生ももっと楽になっていたかもしれない。

2012年3月23日金曜日

GULDA!

フリードリヒ・グルダは子供の頃自分にとってアイドルであった。彼の弾くベートーヴェンのソナタやコンチェルトのレコードは何度も繰り返し聴いた。そのせいか、今でもピアニストが弾く音楽で興味を引くのはグルダ以外いない。

どの楽器でもそうだが、音楽の後ろにはいつも人間がいるわけで、ピアニストの演奏に普段感動させられることがないのは人間的におかしな人が多いからだろうか。いくらバンバン上手に弾けていても人として関わりたくない雰囲気があるとその人の演奏するピアノも聴きたくなくなるものである。

とにかく延々とバンバン鍵盤を叩いている人もいるが、自分にはなぜそういう行為をしているのかあまりわからない。グルダもバンバン弾くが、音楽的イメージが楽器を通して鮮明に出てくるのでピアノという機械の存在を感じさせられない。音楽と騒音の根本的な違いである。

グルダ作曲の「プレリュードとフーガ」などは彼の頭の中の高度な音楽的構造がうかがえる。自分などには一生取り組んでも届かない領域のような気がする。チェロ協奏曲はかなり奇抜で、刺激的である。実際聴いた時はがっかりしたが、メヌエットは美しい音楽だ。あとジャズの即興などは、その才能に驚くのみである。

この人は音楽界のお偉いさんからも、挙げ句の果てにはジャズ界からもとにかく叩かれた。グルダという音楽家に反対する署名運動が行われた。評論家からも悪く書かれた。ウィーンでの最後のコンサートでもプログラムの終わりにはディスコ形式にして明け方まで客席を開放してしらけていた人の方が多かった。実際自分が聴いたコンサートでもモーツァルトのコンチェルトのあとのプログラムの後半DJになって軽めのジャズ音楽を続け、曲間にはマイクを使って軽い口調で客席に向かって長い時間話した。アンコールも何曲もあったが、「こんなんであなたたちを家に返すわけいかない。もう一曲行きます」と言ったところ、「自分から出て行く」とおばさんから野次られていた。自分もかなりがっかりしたが、そういう事実すべてが悲しい光景であった。人曰く、グルダはあんなに素晴らしくモーツァルトやベートーヴェンを弾くのに、なぜ?

グルダには、とにかく一人でも多くの人に音楽に接してもらいたいという強い気持ちがあったと思う。演奏には、あれ程の才能でありながらポリーニのような上から目線を感じない。才能を万人を前に披露している感もない。当然音楽学的な知識を持って威張っている感じも全くない。
どこか「これをぜひ聴いて欲しい」をいう純粋なアッピールをただ強く感じるだけだ。

それで叩かれても、呆れられても自分のやりたいような音楽を貫いた。文書でも、公開演奏でも常に世間を刺激し続けようとした。ケルントナー通りで何度か見かけたことがあるが、一度ルンペンの格好をして2人の「本物の」路上居住者を連れて歩いていた。なんのパフォーマンスか知らないが、なぜそのようなことをするのか、悲しくなった。世間を刺激したかったのか、そのわりにはこのケルントナー通りの一件は公に語られることはなかった。

グルダ自身、奇人であったモーツァルトにダブらせていたようだが、ピアニストとして、作曲家として最高の評価を得るべき人物だと自分は思う。できることならグルダの作品を手にして、できることなら演奏したいものである。

2012年3月11日日曜日

震災後・その他

3月11日は震災後1周忌いうことであちこちでイベントがあり、新聞には著名人のコメントで賑わっていた。どこにどう使われるのか、億単位の寄付をする人は公に発言しわざわざ金額までしっかり新聞に載る。寄付という行為はそういうものだろうか。そのような金額には縁がない自分には寄付を公にするという行為がなんだか理解できない。イベントにボランティアで参加する人達のなかにはその行為により社会的な評価を得よう、または商売人の間ではこの機会にいいイメージを売ろう、という魂胆が隠れ見えていることもある。

自分自身、去年ぜひ追悼コンサートを、と思いジナジオ・オペラを通じ具体的な計画まで立てていたが、結局実現までいかなかった。何人かの音楽家同志からボランティアでの参加意思を受けていたのにかかわらずである。残念だったが、所詮無力な一音楽家としてそれ以上できることはなかった。

何もしなかったのは95年だったか、阪神大震災の時も同じであった。当時実家も少なからず被害を受け、関西出身の自分にとって神戸があのような姿になってしまうのは大きなショックであった。当時はインターネットもなく情報も今よりずっと少なかったが、今回の震災後のように競うように寄付を名乗り出たりあちこちでイベントが催されたりということはなかったと思う。ウィーン音楽院の学生であった自分に追悼コンサートやらの話しは聞かなかったし、そういうアイディアも全くなかった。

ただ一つだけ当時の震災に関連してした行為がある。断食をした。14日間、ミネラルウォーターだけで過ごした。家を失った人に比べれば、よほど普通に生活をしていたと思う。

2012年2月21日火曜日

大血管転移症(TGA)のその後

大血管転移症という病気を持って生まれた息子はその後心臓にも心身の成長にも異常がみられることもなく、先月2歳を迎えることができた。手術跡の胸もここのところだいぶん目立たなくなってきた。しばらくすると息子の方からこの傷はなに?ときいてくることであろう。

この病気は根治手術によって通常の生活を送れることができるが、それはあくまで根治手術であって術後のケアは一生続くものである。インフルエンザにかかったり、熱が出て病院に行くような場合は、必ずこの手術を受けたことをまず医者に言わないといけない。おそらく、普通の子供と処方が変わってくる。一度、ある耳鼻科の医者からは抗生物質を飲むことを恐れてはいけないと言われた。高熱をだした場合はこの子の体にかかる負担は普通の子よりさらに大きいという。

この大血管転移症(TGA)は優れた産婦人科の先生によっては胎内で発見されることもある。その際心エコーでの診察が必要である。発見された場合は出産も専門の心臓外科病院にて帝王切開によっておこなわれ、生後すぐにバルーン手術ができるように準備される。というのも、この症状は放置すれば数日後には命が絶たれるものであるからだ。

息子の場合は、残念ながら前もってこの心臓の奇形は発見されず、一般総合大学病院でこく普通に出産が行われようとしていた。息子の命を救ったのは産後のスタッフの見事なケアと、夜0時ながらすぐ駆けつけたサンタクルス病院の小児心臓外科の権威ルイ・アンジュス先生によるものである。

ただそれだけでなく、出産前にも息子の命を救った偶然があった。帝王切開の出産に至った経過である。

懐妊は前もって計画していたので、妊娠の徴候前から欠乏すると胎児に何らかの悪い影響があるという葉酸の錠剤を服用していた。妻は以前からタバコは吸ったこともなく、アルコール類もいっさい口にしない。妊娠中は何度かあった血液検査も、数々の検診でも母子とも至って正常で、勤務中も家での生活も幸せに満ちたものであった。

妊娠の第39週に妻の体に異常が起こった。体にむくみが出て、異常な倦怠感があり尿は赤く染まってきた。散歩に誘ってもどうも家から出られない。どうも様子がおかしいので病院の方に行ってみると、血圧が異常に高く妊娠高血圧症候群と診断され、即入院となった。

病院ではいろいろなチューブにつながれ、排尿はなんと自動にチューブを伝ってポリ袋に入るもので一見でどういう色かわかる状態であった。赤い尿は続いたが、毎15分ごとに計られる血圧は大分安定してきた。さて、それでは出産を催促させようと陣痛促進剤が使われたが、何時間経ってもその気配はない。室外にはモニターがあって胎児の心拍や動きがわかりグラフが出るが、そこにも全く静かで生まれる気配は全くない。触診でも子宮口は全く開いていないという。

入院先は公立の病院であったので、何か決まりがあるらしく高額な帝王切開は緊急の場合のみ行われる。安定してきたとはいえ、下が100以上の高血圧が続く妻の場合は即帝王切開の決定がくだされるべきではないか。

入院から30時間経って初めて帝王切開の話が出た。出産の際には2人で頑張ろうと言っていた自分達は少々面食らったが、とりあえず気持ちを入れ替えて待機することさらに3、4時間。父親は一般待合室に閉め出された。

手術は普通におこなわれたが、へその緒を切った後すぐ顔が蒼白状態になり記録によると呼吸も一旦停止したという赤ちゃんをみて、医師団はさぞかしびっくりしたことであろう。妻は彼らが叫ぶようにして話していたといい、赤ちゃんはすぐに集中治療室に持っていかれた。

待合室の父親に担当医師が「出産しました」というメッセージを伝えてきた。ただ、呼吸困難があるので今ちょっと調べているところです、という。正直なところ、何か飲み込んでしまってのどがつっかえているのかな、という印象を受けた。赤ちゃんは元気なのか、と尋ねるとそれは元気で問題ない、という。

その後直ちに救急車で20分の距離のサンタクルス病院に移送され、生まれて12時間後ようやくバルーン手術を受け、根治手術のジャテネは11日後であった。

その後の赤ちゃんは見る見るうちに回復したが、親の方はショックが後を引いた。先天性病気を持った子が生まれると自分達に何かの落ち度があったのではと思うのは自然な反応であろう。実際今でも息子をみていったい何をしていたの?と訊かれることがある。

妻は半年の間、カウンセリングを受け徐々に立ち直っていった。父親である自分は出産休暇を病院での付き添いに使ってしまい、いざ仕事となっても全く力が入らない。仕事どころでない状態で、危ういところで勤務先を解雇されそうになってしまった。

当時のことを思い出すと、子供が生まれた喜びよりも悪夢と言った方がぴったりくる。よく赤ちゃんのストレスを減らすためバスタブでの水中出産だとか、自宅で環境を整えてリラックスした状態での出産とか、いろいろあるがTGAの子が生まれてくるとしたらいずれも死に至る出産方法である。友人で水中出産を行った人がいたが、そういう信念を持っている人は誰のどういう話にも耳を傾けない。自分には母親の自己満足のためにやっていることとしか思えない。

生後21日間は常にチューブにつながれ、ミルクより多く高価な薬を飲んできた息子は2歳になって心身ともに普通に元気な子である。ストレスなどとは無縁のような自信にあふれた男の子である。

2012年2月6日月曜日

テレビの出演

昨日は久々のテレビ出演があった。いつものようにピアニストとしての出演で、いつものように画面のはじっこで数分だけの出演であるが、生放送でミスをした場合にのみ目立つことになってしまう都合の悪い出演である。国営放送RTP1の夜9時15分からのゴールデンタイムで、会場のドンナ・マリアII劇場には首相や、文化書記長(文化大臣のポストは廃止されているので国の文化事業のトップ)の出席もあった。

自分にとってのテレビ出演は大体いつも同じ調子である。まず、その日のために何か月前から準備するようなことはなく、話は突然降ってくる。そしてノーギャラである。自分のような身分のクラシックの音楽家にとっては、何千万という人が視聴する番組にはこちらからお金を払ってでも出たいくらいのものである。

演奏自体はこの自分の技量では今回も危ない場面があったが、何とか最後までごく普通にたどり着けた。ミスしそうになる状況ではこれで自分も一巻の終わりか、ということで頭がいっぱいになり、そういう心境は至高な音楽を演奏する芸術家にはほど遠い。指揮をする場合は演奏家を前にしているだけにそういうネガティヴな心境にはまずならないのだが、ピアノを弾くときは演奏する場が重ければ重いほど、よけいなことで頭がいっぱいになる。

想像するに、もし万人を前に自分の料理を披露することになってしまったら、震える手を披露してしまうであろう小心者である。某国代表のサッカー選手は、男は誰に何を言われようが自らの拳で自分の運命をつかみにいくのだというようなことを語っていたが、この我が人生を切り開いていくべき手はいざというときは銅像のように重く固くなってしまうのでなく、そういう時こそ勝手気ままに躍動してほしいものである。

出演が終わったあと、早速2人の友人から電話がかかってきた。いずれもテレビで見たよと、向こうの方がよけいに喜んでくれている。その一時は思いかけず誰もを幸せにさせてくれ、改めてテレビが持つ影響力を思い知らされる。

http://www.rtp.pt/multimediahtml/video/portugal-aplaude

2012年1月31日火曜日

歴史上のリスボン大地震

1836年発刊の「Handbuch der allgemeinen Staatskunde von Europa」(学者の先生方はこれをどう訳すのだろうか。この意味は完璧に理解するが日本語で言い方はあるはず)にリスボンの地震について興味深い文章があった。

このFriedrich Wilhelm Schubert 著作の古本によれば、830年の間に15もの大地震があったという。1007年、1117年、1146年、1290年、1356年8月24日、 1531年1月1日、1575年7月27日、1597年7月27日、1598年7月22日、1699年10月27日、1724年10月12日、1755年11月1日、1761年4月30日、1796年1月10、及び17日、1807年6月6日。

これ以降は別の文献で見る必要があるが、上の年月には当然アラブ人やスペインに征服されていたポルトガル史上暗黒の時期もあるわけだ。

上記の地震のうち、特に被害が多かったものとしてほぼ全壊状態で年中余震が続いたという1356年、サンタ・カタリーナ区の丘のある3つ道路が崩れ落ち、丘自体も真っ二つに切り裂いたという1597年、そしてよく知られている8日間揺れが続いたという1755年とあった。

18世紀を中心に、あまりに頻繁に発生してきたリスボンの地震。今の時代でこういうマグニチュード7強の地震が都心部で起きるとなると、壊滅的な被害は目に見えている。ましては、無許可の建築物が立ち並ぶこの街でのことだ。