2013年6月13日木曜日

有言実行

自分は高校に一年しか行っていないが、その当時同級生でいろいろ話し相手だった友達が今、司法書士として事務所を開いている。
最近になって、フェイスブックを通じてコンタクトを取れるようになったのだが、彼はブログを毎日書くことを今年の目標としている。
それは、個人事務所を持つ彼自身の宣伝目的や、新たな人脈を得るなどのメリットがある、という。
あと最近、彼が書いていたことは、金融業界の人物の生き方の一つとして、自分の理念、考え、目標などをとにかく周りの人間に直接伝え、ブログにさえもそのことを書く。そうやって、いわるゆ「有言実行」で徐々にそれを実現させていく、という。
「今日、どこで何を食べた」「何処かに行ってきた」などというブログは誰に対しても影響力がない、ということで書かないそうである。
自分自身、いままで人生でやりたいことは誰かに伝えることもなく、ただ頭の中で念じてきた。自分の生活の糧になっている、人生で唯一打ち込めてきたこと、音楽では、自分の技術を磨くことばかり考えてきた。それは自分の感覚の中だけで発展してきたもので、他人と分かち合うこともなく、今まできた。
これからも、さらに技術を磨いて行きたい。技術とは何か、といえば、指揮のテクニックが一番。実は最近も自分の中では大きな、革新的なことを研究していた。あとは自分に元々欠けている、コミュニケーション能力、といった人と人との関係をどんどん向上させて行きたい。
あと近いうちに実現して欲しいのは、壊滅的状況のイスタンブールのオペラの歌手をリスボンに呼ぶこと。オーケストラとのコンサートをまた実現させること。指揮のマスタークラスを多くの大学で開催すること。マルティニクで再度仕事すること。合唱監督としての仕事をすること。アンゴラでの企画を実現させること。また一度は日本で、指揮者として仕事してみたい。
自分には夢は小さいものから大きいのまで、まだまだ尽きない。
これから、金融業界の人たちのように有言実行で生きてみようか。

2013年6月10日月曜日

グルベンキアンのオテロ

グルベンキアン財団は、ここポルトガルの文化界においては欠かすことのできない私立の財団である。グルベンキアンのコンサートシーズンは世界の名だたる音楽家が呼ばれており、この国ではかなりのいいレベルのマーケティングによって新聞の批評も、一般的にも悪くいう人はいない。
在ポルトガル音楽家にとってグルベンキアンオーケストラは、憧れの存在であり、何かと基準になるものである。
オーケストラはヨーロッパではトップクラスに入るという評判である。少なくとも、正団員の給料はヨーロッパのトップクラスである。合唱団は、いわゆるセミプロで、団員の平均年齢は低い。
先日、財政難でオペラ上演ができないサオ・カルロスオペラ座にとってかわり、グルベンキアンオーケストラによって、コンサート形式ながらヴェルディのオテロが上演された。自分にとってグルベンキアンは近くて遠い存在で、なかなか足を運ぶ機会に恵まれなかったが、今回は生徒の一人に誘われて運良く公演に立ち会うことができた。
普段の評判から、どんなに素晴らしいオテロが聴けるかと期待していたが、なんてことはない平凡な上演であった。確かに楽譜上のオテロを好意的に実現化しようとした演奏ではあったが、ここはオペラ伝統のど真ん中にある作曲家、ヴェルディである。
普段、シンフォニックのレパートリーを中心に活躍しているグルベンキアンオーケストラにとっては新鮮であったかもしれないが、ヴェルディのオテロはオペラ界にとってはエース級の、オペラのレパートリーでは第一列に並ぶ、名曲中の名曲である。オーケストラも合唱団も、もしくは指揮の先生も、経験不足を披露するだけの公演になってしまった。
一体何が原因なのか、普通に聴きなれた、誰もがイメージするヴェルディの響きではなかった。あの、暗い響き、ドラマチックな重量感、コントラストとなる宗教的な、敬虔な教会音楽の響き 女性的なやわらかな響き、軽い、イタリアの風景が香るような響き、そういったものが半分も聴けなかったように思える。
歌手陣は、旧ソ連出身の両主役は、決して悪くはなかった。両者とも、かなり歌い慣れている役であったのはすぐわかった。声量も、音楽的にも良い部類に入るが、オテロ役は高音域のフレーズは中音域のと同じようなバイタリティーで歌えない、という欠陥があり、デスデモナ役は、技術的に未熟な歌手ではあるが、充分に「心」を歌える歌手ではあった。
合唱団は、短期間で学んだものと思われる。やはり、ヴェルディのオペラになると、身体にメロディーを染み込ませるくらい、ヴェルディの旋律が自分の言葉にならないといけない。声も、このレパートリーの合わせて一ランク上に実力が上がるくらい、コンディションを整えていかないといけない。これらはやはり、いくら譜面を見ながらでのコンサート形式とはいえ、何ヶ月もかけてじっくり熟成していく必要があっただろう。
オーケストラは、メンバーは国際的な顔ぶれだが、当然ポルトガル人出身の演奏家もいるはずである。しかし、このオーケストラはあの独特な、明るく熱い、ラテンの響きが全くしない。なぜだろう。ヴェルディの旋律をまるでコープランドのフレーズと変わらないような演奏をする。
オテロは、3時間以上の時間を要する、大きなオペラだが、いわゆる「正しいテンポ」で演奏されたフレーズは少なかった印象だ。オーケストラの経験不足は承知のうえとしても、指揮者先生の見解なのか、または近代的なホールの音響のせいなのか、自分にとってはヴェルディの響きではなかった。
自分はオペラ座専属の音楽家であるが、経済的危機にあるサオ・カルロス劇場は捨てたものではない、と感じた。
新聞の批評家や一部のお客さんはもうここ数年痛烈にサオ・カルロスの上演を批判するが、それは政治の盾として使われる感のある、国立劇場を通じて政治家批判しているようにしか思えなくなってきた。何事も、国の政治家がすることは納得いかない、というのがポルトガルの国民性である。
しかし、このグルベンキアンの上演を聴く限り、一音楽家の耳にとっては、サオ・カルロス劇場の方が上質である。

2013年5月20日月曜日

小学校時代、奪われた子どものこころ。

幼少の頃の思い出だが、通った大阪の小学校はひどいところであった。
学校には当然しきたりや、習慣などがあったが、不可解なものが多かった。当時、なぜこういうことをしないといけないのだろう、という疑問がかなりあった。
親や先生に質問をぶつけても、大人になればわかる、という答えで片付けられたものである。
大人になった今、思い返すことがあるが、実に無意味なことを強要させられたものである。
これは、果たして一般的なものであるのか知らないが、自分の頭の中からぜひとも去って欲しい、屈辱的な体験であった。
自分はこういう疑問に未だに答えられないでいる。要するに、通っていた小学校は、ひどいところであった、他の学校だったらまだマシだっただろう、という結論で済ませている。
毎朝、子供は登校したら校庭に向かわなければいけない。朝礼、という不思議な、今どう考えても意味がわからない、儀式じみたものがある。
朝礼では、一体何をするところであろうか。
朝礼の始まりには行進曲の音楽がかかり、足と手を振ってその場で音楽に合わせて足踏みをしないといけない。それも、前に朝礼台と言われる高いところに立って監視している先生の、「1、2、1、2」の怒鳴り声に合わせて、正確に足踏みをしないといけない。「1」とは、左足を地面に下ろす瞬間の号令、「2」は右足。手は、指を閉じ伸ばして、腕はまっすぐ90度の角度に振らないといけない。こういったことは、かなり力をいれて教えられ、先生方はかなり真剣に、模範例を見せていた。できない子供やふざけている者はかなり怒られた。
いつも同じ音楽の行進曲が終わると、「休め、気をつけ、礼」と怒鳴られ、当然声に合わせ、皆同時に同じ動きをしないといけない。
「礼」はともかく、「気をつけ」とは何なのだろう。なぜ「休め」が間にはいるのだろうか。
旧軍隊のしきたり、ということなんだろうが、日本は終戦後そもそも戦闘力を放棄したはずではなかったか。
子供なら当然するような質問に答えは一切なく、この動きも、散々繰り返し説明を受け、ただただ身につけていかないといけなかった。
そして列は、背の小さいものから順番に縦に並ぶ。自分は常に、クラスの五本の指に入る、背の低い子であった。両手を伸ばして、前のものに両肩に触れるか触れないかの距離で合わせ、それもずれないように立たないといけなかった。繰り返すが、これらのことをできないものはこっぴどく怒られていた。
自分は、怒られまいと、目立った動きをしまいとかなり気をつけていた。自分が今でもやろうと思えばできるこれらの動き、はずかしべき旧軍隊か何か知らないが、号令に対する動きは、怒られるのがいやで結局身についてしまったものである。
朝礼は、そんな行進曲だけで終わるものではなく、校長先生の話が始まる。それは、単なる雑談だったように思う。強かった南海が今なぜ弱くなってしまったか、程度の話を覚えている。
子ども側にはそういう朝礼を拒否する権利などあるわけない。これは強要であって、それも教育上好ましいものでも、必要なものでもないものである。小学生のような、幼い子を前にしていったい何をしているのだろうか。
小学校も年長になると、子供感覚でも不可解なことが増えてきた。学校は私服だったが、冬でも半ズボンを履かないといけない、という暗黙の了解があった。それが、子供にふさわしい、子どもらしい格好という説明があった。
そして、ある時、体育会系の一先生による、学校全体で行われた「なわとび」がさかんに行われた。
これも、当然子ども側には拒否権はない。いろいろな技を磨き、検定試験を受けて、ポイントを稼いで皆という皆、最高点「名人」を目指して練習する。
自分は当然、練習に励み、「三重跳び5回」というのをこなし、名人になった。そして検定委員というものになったが、楽しみしていた検定日にはそれに必要な色付きハチマキを何処かに忘れてしまい、例の体育会先生にこっぴどく怒られて資格を剥奪されてしまった。
今一社会人として生活していて、これらの体験ははっきり言ってトラウマである。行進曲に合わせて足踏みをすることも、「気をつけ」を上手にすることも、なわとびを披露することもない。学校は「気をつけ、礼」が苦痛であったし、行進曲にあわせて手を振るのは、当時子供の感覚でも屈辱的であった。知りたいのは、「なぜ」これらのことをしないといけなかったのだろうか。できれば、幼年時代にはこういうことから避けて通りたかった。

2013年5月19日日曜日

Quarta Feira, a taberna, エヴォラ

そろそろ三歳4ヶ月になる息子は、ここ最近になって目に見える変化が出てきた。
オムツは、保育園のしっかりした管理のおかげか、ほぼ必要なくなってきた。
車の中では、2時間乗っても酔ったりして吐かなくなった。
一泊の小さい旅行先でも、すぐ熱を出さなくなった。
そして、親以外の大人と、親の手助けなしでコミュニケーションを取れるようになってきた。自分から質問したり、会話を始めたりする。
レストランでは自分から飲み物の注文をして、親をびっくりさせる。
そういうわけで、先日、嫁の連日の休暇を利用してエヴォラ市まで、自分の仕事を兼ねて家族揃って行ってきた。
夜に行って来たレストランは、トリップアドヴァイザーでエヴォラ市内堂々一位に輝いている、taberna quarta feiraである。家族経営の小さいレストランで、50過ぎのおっちゃんが舵取りをしている。ここでは美味しいものしか出さない、という自信と気迫を感じさせる、エネルギーにあふれるオーナーである。
おっちゃんは見るからに、小さい子連れの、こちらの様子が心配だったようだ。騒がしくして他の、みるからに旅行者のお客さんの気に障ることがないよう、親もヒヤヒヤであった。早速おっちゃんは息子に話しかける。
「なまえは?」
息子が瞬時に正しく、はっきり返答したので正直びっくりした。それも、普段自分をさして使っている「あだ名」ではなく、本名を。いつから自分で言えるようになったのか?
あらかじめ、息子にジュースをおっちゃんに頼んでごらん、と言っていたのでおっちゃんが近づいたら自分で注文していた。はすかしがらず、はっきりしゃべれて親として満足である。自分がこれくらいの年齢の時、こういう大人との会話はできなかったのではないか?
このレストランには、メニューがなく、料理は頼まずにして出てくる。自分にとっては、いわゆるtable d'hote の初体験である。
まず、パンにつけて食べる、オーブンで温めたチーズ、わずかに炒めた、大きめのワイン風味のシャンピニオン、が前菜に出てきた。食べ終わると、見事な黒豚の煮付けがでてきて、その美味しさに幸せな気分にさせられた。特に、自分から注文したものでなく、どういうものを食べるのかあらかじめ想像せずに、突然美味しそうな料理を出されると嬉しさは倍増である。
いずれも、この地方のごく普通の郷土料理をいい素材を使って、丁寧に調理している感じである。飲むワインは、最初に出された赤ワインを断って白にしてもらったのだが、それも自分は普段にはまず飲まない類の、上品なものであった。
息子はそのメインディッシュも、付け合わせで出てきたアスパラガスとキノコ類のミガス、この年代の子たちの好物の揚げポテトもしっかり食べた。もともと食べる方は親を悩ませたことがないくらい、しっかり食べる子だが、美味しいものは必ず見分けて食べる子でもある。デザートとして出てきた、たくさんの新鮮なイチゴには、いつまで食べるのかと思わせるくらい何度も手を伸ばした。ケーキも出てきたが、果物そのままの方が好きなようである。
とてもいい夕食であった。レストランでの家族連れの食事は、気を使うもので息子の状態によって悲惨な結果、座っていられなくなったり、全く料理に手をつけなかったり騒ぎ出したり、となることがある。でもここ、quarta feira(水曜日の意味)では、息子は全く退屈せず、親は落ち着いていられた。
見事な食事もさながら、レストラン内の雰囲気、オーナー氏のホスピタリティー、といいまた機会がある時に来たい、と思わせるところであるのは確実だ。
息子は終始機嫌が良く、別れにはオーナーのおっちゃんと大きな笑顔でハイタッチしていた。

2013年5月5日日曜日

カリブ海のマルティニーク

マルティニークはカリブ海に浮かぶ、自然に囲まれた常夏の美しい島だ。フランスの海外県であり、通貨はユーロで走る車はフランスのナンバーである。
縁があって、この島に10日ほど、滞在してきた。ヴェルディのレクイエムを上演するという、大掛かりなプロダクションである。主に、120人ほどの合唱団の監督を任された。
バナナ、パイナップルなどのフルーツの産地で有名で、経済的に観光業とともにこの島をわずかながら潤いでいるようだ。ポルトガルでいえば、マデイラ島が似たような位置にいる。
マルティニークの食事は、特別美味しいものではない。肉類は決まって時間をかけて調理してあり、揚げ物は時間をかけているので硬くなっている。煮付けられた鳥肉はまだ馴染みやすいもので、コロンボと呼ばれるカレーのルーがよく使われる。特別辛くない、優しいスパイスであった。豆類の煮たもの、白いご飯が常に「おかず」であった。

ことし、4月に入っても肌寒い日が続いていたヨーロッパに比べ、このマルティニークでは27,8度ある、心地よい夏の気候だ。夜でも気温は下がらず、生まれて始めて日中の気温差に悩ませることがなかった。このプロダクションのために、ヨーロッパから100人ほど訪れていたが、体調を崩した人はいなかったのではないか。夜に外に出ても、肌寒いと感じることはなく、朝方も適当に涼しく、まさにちょうどいい気温である。

海はやはり格別で、水温も心地よく、こういう海岸ならいつ行っても良さそうだ。幸いクルマを貸してくれていたので気軽にいつでもどこにでも行動できた。

合唱団は、マルティニーク当地の3つの教会合唱団に加え、フランス、トゥールーズから助っ人が50人ほどよばれ、結構大きな合唱団になった。加えて、リハーサルはかなり限られていたので、かなり効率良く仕事を進めて行く必要があった。

それぞれの合唱団は時間をかけて練習してきたのだが、細部のまとめはやはり一つ一つ話していけないといけない。2つのアカペラの、どの合唱団にとっても難しい番号は念入りに練習する必要がある。結局コンサート当日でも、本番前1時間ほどの本格的なリハーサルが必要になってしまった。コンサート合計3度あったが、本番は本当に良かったと思う。ずべての合唱団はアマチュアだが、それぞれにとって印象深い経験だったのではないだろうか。

リハーサルは当然フランス語である。自分のフランス語の勉強は、特に必要性がなく、後回しになってようやく7年ほどまえに集中講座を受けたのみである。しかも、リヨンに4週間滞在した当時もかなりあやしいものだった。しかし、読むには、ほとんど理解できるくらいであるので、聞く方に慣れれさえすれば、何とかなると思っていた。ポルトガル語でも、イタリア語でも、ヒヤリングは最初のうちはちんぷんかんぷんでも、時間が経つに連れできるようになるものである。

それでも、少々の会話はできたし、リハーサルではなにせ専門的分野なので、ポルトガルでやっているのとだいたい同じようにできた。ポルトガルでもまったく不自由なしにできるわけではないし、あまり違和感なしにできた。

それでも、1体1の会話になると、ゆっくりしゃべってもらってもわからないことが多かった。特にクレオールと呼ばれる、マルティニークの話す言葉は難解であった。とにかく話すのが早く、なかなか自分の脳は追いつかなかった。いつか理解できるものなのだろうか。

マルティニークの人たちの、ホスピタリティー精神は素晴らしい。お世話にするなら、とことん手助けしてくれる。自分自身、ホスピタリティーとは無縁の生活をしているので、新鮮な、心が洗われた気分になった。

マルティニーク歴史は悲しいものだ。大方の人達が昔の奴隷主義の犠牲者の子孫である。要するに、アフリカ大陸から無理やり駆り出され、マルティニークのような島に集められ、アメリカ大陸での仕事、というか奴隷として使われるのを待機していたのだろう。思えば、当時には普通に行われていたとはいえ、今現在、この人たちへの保障はあるのだろうか。また、ヨーロッパ人到着前にいた原住民は激しく抵抗したらしく、数年に渡る戦いですべての命を失ってしまった。ヨーロッパのテクノロジーの前に屈したのだが、住民全員虐殺された、とは今の常識では考えられない、狂気である。 日本でも終戦前、総一億人して戦う、などと言われていたらしいが、実際にはおこなわれなかった。よって、日本の歴史は続いたのだが、マルティニーク原住民の語り継がれたものは、いわゆる人の記憶から失われたのだろうか。何れにせよ、今現在のマルティニークにはそれにまつわる話しというのは、存在するのだろうか。

滞在は9日だったが、また近い将来行くことになるかもしれない。年中、こういう初夏の気候なら、何年でも滞在したい場所である。

2013年3月14日木曜日

フランダースの犬

今の世の中では、情報に関して困ることはない。
家の中でゆっくり、知りたいものをインターネットで検索したいだけできる。

新聞や週刊誌も、一昔前までは欠かさず配達してもらったりしてきたが、今はその必要がなくなった。常に最新情報が手元に入る。

思えば、ウィーンに着いたばかりの頃は、ソウルオリンピックが開催されていて、楽しみにしていた競技の結果など、知るのに時間がかかったものである。というのも、日本大使館に日本から直送の朝日新聞が置いてあって、常に4、5日遅れだったからである。

テレビも、番組表など見なくても、ユーチューブが現れて以来、サッカーの試合でも、昔の映画でもなんでも探せばすぐ映像が見つかるくらいになった。ここ15年くらいでえらい変わってきたことだ。



3歳の息子は、パパとは日本語で会話する。というより、パパは息子とは日本語以外話さない。息子はテレビにかじりつく、ということはしないが、そのかわりにPCのユーチューブは大好きで、ずっとお世話になっている。そこではパパはなるべく日本語のものを探すのだが、最近ふと「フランダースの犬」の映画版をみつけた。

そういえば、自分が小さいときに放映されていた「フランダース」のあらすじなど、全然思い出せなかった。思い出すのは、おとこのこが大きい犬を連れて歩く、ヨーロッパのどこかの話ということだけだ。

早速息子と最初から観はじめたが、我が3歳児は最初のうちは犬を目で追ってコメントしていたものの、やがて飽きて席を立った。パパは、今になってどういう話しか初めて知ったような感じだったので、気になって最後まで観た。

男の子は唯一の育ての親のおじいさんを亡くし、生活の糧の仕事も失う。風車の放火の疑いをかけられ、人から信頼を失う。唯一望みをかけていた絵のコンクールには落選し、家賃も払えなくなって家から追い出される。雪が積もった路上にいるわけにいかず、せめて犬だけは知人宅に預けようと、幼なじみの裕福な女の子の家をたずねる。男の子は一人で教会に向かい、一度目にしたかったルーベンスの絵を見ながら、寒さと飢え?で動けなくなる。追ってやってきた犬と力尽き、最後は天使がおりてきて共に昇天する。

これは子供が観る内容ではないではないか。人生とは、不運はあれど、必ず幸運も顔のぞかせる、言わずと知れた山あり谷ありのものだ。要するに、不幸が積み重なり、そのまま命を落としてしまうとは、普通の人生において真実とかけ離れているし、そもそもお話にするような内容ではない。ましては主人公は人間社会から守られるべき、10歳前後の男の子であり、話の終わりには命を落としてしまう。心から憤慨してしまった。こんなものを自分は子供のときに観ていたのか?

原作は舞台のフランダースには行ったことのないイギリス人、作品は19世紀後半ということで、風刺的に書いた一種のギャグだったのか、おそらくまともな作品ではないだろう。

早速検索してみると、舞台のフランダースではこの駄作といえるお話を知っている人はいないという。日本のアニメは成功作となって、愛される古典の一つになっている。

しかし、なぜ人はこのようなものを「愛する」のだろうか?

全く理解できない。

あるサイトには、日本人特有の感性で、こういう破滅型(だったか?)の話、死を美化する話は受けがいい、とあった。

日本人特有の感性?

自分は日本人だが、幼い男の子が孤児になり、生きる場所も信頼できる人も失い、凍えて命を落とす話のどこに、美しさを感じるのであろうか。美しさは、人間の愛と共存するのか、男の子がどういう形であれ、人または神の愛情により救われるのであれば美しい話と思えたかもしれない。

自分にとっては、大掛かりで制作したアニメ映画なら、ウソでもそういう救われる話であってほしかった。

というわけで、このフランダースの犬の続き、もう息子には絶対見せない。

2013年2月8日金曜日

Dervixe、リスボンのトルコレストラン。

もうそろそろ4年前になってしまうが、イスタンブールでの合計6週間の滞在は忘れられないものである。アジア大陸が始まる、カディコイ区とでもいうのだろうか、にあるオペラハウスでの仕事をしていたので、タクシムというヨーロッパ側のホテルに滞在していた自分は毎日、2大陸間を行き来していた。

アジアの反対側の国、日本で生まれ、今ヨーロッパの反対側の国、ポルトガルに暮らしているものにとっては、実にスケールの大きな、感慨深い経験をさせてもらった。

カディコイには数多くのレストランがあるが、チヤという何件も別館を増やしているようなレストランは、実に格別だった。地元のトルコ人でさえ、食べたことのないレシピも提供しているような、グルメな店である。そこに毎日のように、ある日は一日に2度足を運んだのは、必然のことであった。






こちらリスボンでは、意外にトルコ料理を提供する店がなかなか見当たらない。ひとつショッピングセンターにあったレストランは、美味しい店であったが今は姿を消してしまった。

ひょんなことから、仕事先のオペラ劇場からクルマで10分のところにトルコレストランがあることを知った。デルヴィッシェ、という名の本格的なトルコ料理のレストランである。

中に入ると、その一階には一応席があるが、混雑時の非常用らしく、来客はみな階段を登って2階の40席ほどの広さのホールに向かう。例の、トルコ独特のソファーに座って低いテーブルで食事するようなスペースもある。しかし自分は一人で来るのでそこには向かわず、普通のテーブルの席に勧められる。


店内は様々なイスタンブールの街のポスターで溢れる。あれもこれも、自分が実際行ってきたもので、大抵はその建物の名前も自然に口にできた。

話によると、このデルヴィッシュは、ケバプ店をのぞけばリスボンにある、唯一のトルコレストランだそうだ。自分にとって、トルコ料理は素晴らしいジャンルだと思うのだが、一般のポルトガル人には口に合わないのか。

さて料理の方は、期待を裏切らない、清潔感のあふれる美味しいものであった。鶏肉、牛肉料理にベジタブル料理、ケバプ類、とメニューも充分豊富である。


イスタンブールでは、チャイ、トルコの紅茶を何度なく飲むのが普通だが、この店には残念ながらないようだ。しばらく通って行くうちに出してもらえるかもしれない。


昼食メニューはドリンク、カフェ込みで6ユーロと低料金で、よく言われる「質と料金のバランスquarità prezzo」は、自分には最高点である。

混んでいる日もあるが、サービスは変わらず早い。いつも美味しくいただけるし、量は多くはないが仕事の終わりに空腹感に襲われることもないので、充分満足できる。




毎日通う劇場からは歩いてはこれそうもない距離だが、せっかくバイクで行動している身である。イスタンブールでの素晴らしい思い出を蘇させたく、これからしばらくの間、昼の2時間という長い休憩時間の間に、バイクを飛ばしてこのレストランに通うことにした。