2013年5月20日月曜日
小学校時代、奪われた子どものこころ。
幼少の頃の思い出だが、通った大阪の小学校はひどいところであった。
学校には当然しきたりや、習慣などがあったが、不可解なものが多かった。当時、なぜこういうことをしないといけないのだろう、という疑問がかなりあった。
親や先生に質問をぶつけても、大人になればわかる、という答えで片付けられたものである。
大人になった今、思い返すことがあるが、実に無意味なことを強要させられたものである。
これは、果たして一般的なものであるのか知らないが、自分の頭の中からぜひとも去って欲しい、屈辱的な体験であった。
自分はこういう疑問に未だに答えられないでいる。要するに、通っていた小学校は、ひどいところであった、他の学校だったらまだマシだっただろう、という結論で済ませている。
毎朝、子供は登校したら校庭に向かわなければいけない。朝礼、という不思議な、今どう考えても意味がわからない、儀式じみたものがある。
朝礼では、一体何をするところであろうか。
朝礼の始まりには行進曲の音楽がかかり、足と手を振ってその場で音楽に合わせて足踏みをしないといけない。それも、前に朝礼台と言われる高いところに立って監視している先生の、「1、2、1、2」の怒鳴り声に合わせて、正確に足踏みをしないといけない。「1」とは、左足を地面に下ろす瞬間の号令、「2」は右足。手は、指を閉じ伸ばして、腕はまっすぐ90度の角度に振らないといけない。こういったことは、かなり力をいれて教えられ、先生方はかなり真剣に、模範例を見せていた。できない子供やふざけている者はかなり怒られた。
いつも同じ音楽の行進曲が終わると、「休め、気をつけ、礼」と怒鳴られ、当然声に合わせ、皆同時に同じ動きをしないといけない。
「礼」はともかく、「気をつけ」とは何なのだろう。なぜ「休め」が間にはいるのだろうか。
旧軍隊のしきたり、ということなんだろうが、日本は終戦後そもそも戦闘力を放棄したはずではなかったか。
子供なら当然するような質問に答えは一切なく、この動きも、散々繰り返し説明を受け、ただただ身につけていかないといけなかった。
そして列は、背の小さいものから順番に縦に並ぶ。自分は常に、クラスの五本の指に入る、背の低い子であった。両手を伸ばして、前のものに両肩に触れるか触れないかの距離で合わせ、それもずれないように立たないといけなかった。繰り返すが、これらのことをできないものはこっぴどく怒られていた。
自分は、怒られまいと、目立った動きをしまいとかなり気をつけていた。自分が今でもやろうと思えばできるこれらの動き、はずかしべき旧軍隊か何か知らないが、号令に対する動きは、怒られるのがいやで結局身についてしまったものである。
朝礼は、そんな行進曲だけで終わるものではなく、校長先生の話が始まる。それは、単なる雑談だったように思う。強かった南海が今なぜ弱くなってしまったか、程度の話を覚えている。
子ども側にはそういう朝礼を拒否する権利などあるわけない。これは強要であって、それも教育上好ましいものでも、必要なものでもないものである。小学生のような、幼い子を前にしていったい何をしているのだろうか。
小学校も年長になると、子供感覚でも不可解なことが増えてきた。学校は私服だったが、冬でも半ズボンを履かないといけない、という暗黙の了解があった。それが、子供にふさわしい、子どもらしい格好という説明があった。
そして、ある時、体育会系の一先生による、学校全体で行われた「なわとび」がさかんに行われた。
これも、当然子ども側には拒否権はない。いろいろな技を磨き、検定試験を受けて、ポイントを稼いで皆という皆、最高点「名人」を目指して練習する。
自分は当然、練習に励み、「三重跳び5回」というのをこなし、名人になった。そして検定委員というものになったが、楽しみしていた検定日にはそれに必要な色付きハチマキを何処かに忘れてしまい、例の体育会先生にこっぴどく怒られて資格を剥奪されてしまった。
今一社会人として生活していて、これらの体験ははっきり言ってトラウマである。行進曲に合わせて足踏みをすることも、「気をつけ」を上手にすることも、なわとびを披露することもない。学校は「気をつけ、礼」が苦痛であったし、行進曲にあわせて手を振るのは、当時子供の感覚でも屈辱的であった。知りたいのは、「なぜ」これらのことをしないといけなかったのだろうか。できれば、幼年時代にはこういうことから避けて通りたかった。
2013年5月19日日曜日
Quarta Feira, a taberna, エヴォラ
そろそろ三歳4ヶ月になる息子は、ここ最近になって目に見える変化が出てきた。
オムツは、保育園のしっかりした管理のおかげか、ほぼ必要なくなってきた。
車の中では、2時間乗っても酔ったりして吐かなくなった。
一泊の小さい旅行先でも、すぐ熱を出さなくなった。
そして、親以外の大人と、親の手助けなしでコミュニケーションを取れるようになってきた。自分から質問したり、会話を始めたりする。
レストランでは自分から飲み物の注文をして、親をびっくりさせる。
そういうわけで、先日、嫁の連日の休暇を利用してエヴォラ市まで、自分の仕事を兼ねて家族揃って行ってきた。
夜に行って来たレストランは、トリップアドヴァイザーでエヴォラ市内堂々一位に輝いている、taberna quarta feiraである。家族経営の小さいレストランで、50過ぎのおっちゃんが舵取りをしている。ここでは美味しいものしか出さない、という自信と気迫を感じさせる、エネルギーにあふれるオーナーである。
おっちゃんは見るからに、小さい子連れの、こちらの様子が心配だったようだ。騒がしくして他の、みるからに旅行者のお客さんの気に障ることがないよう、親もヒヤヒヤであった。早速おっちゃんは息子に話しかける。
「なまえは?」
息子が瞬時に正しく、はっきり返答したので正直びっくりした。それも、普段自分をさして使っている「あだ名」ではなく、本名を。いつから自分で言えるようになったのか?
あらかじめ、息子にジュースをおっちゃんに頼んでごらん、と言っていたのでおっちゃんが近づいたら自分で注文していた。はすかしがらず、はっきりしゃべれて親として満足である。自分がこれくらいの年齢の時、こういう大人との会話はできなかったのではないか?
このレストランには、メニューがなく、料理は頼まずにして出てくる。自分にとっては、いわゆるtable d'hote の初体験である。
まず、パンにつけて食べる、オーブンで温めたチーズ、わずかに炒めた、大きめのワイン風味のシャンピニオン、が前菜に出てきた。食べ終わると、見事な黒豚の煮付けがでてきて、その美味しさに幸せな気分にさせられた。特に、自分から注文したものでなく、どういうものを食べるのかあらかじめ想像せずに、突然美味しそうな料理を出されると嬉しさは倍増である。
いずれも、この地方のごく普通の郷土料理をいい素材を使って、丁寧に調理している感じである。飲むワインは、最初に出された赤ワインを断って白にしてもらったのだが、それも自分は普段にはまず飲まない類の、上品なものであった。
息子はそのメインディッシュも、付け合わせで出てきたアスパラガスとキノコ類のミガス、この年代の子たちの好物の揚げポテトもしっかり食べた。もともと食べる方は親を悩ませたことがないくらい、しっかり食べる子だが、美味しいものは必ず見分けて食べる子でもある。デザートとして出てきた、たくさんの新鮮なイチゴには、いつまで食べるのかと思わせるくらい何度も手を伸ばした。ケーキも出てきたが、果物そのままの方が好きなようである。
とてもいい夕食であった。レストランでの家族連れの食事は、気を使うもので息子の状態によって悲惨な結果、座っていられなくなったり、全く料理に手をつけなかったり騒ぎ出したり、となることがある。でもここ、quarta feira(水曜日の意味)では、息子は全く退屈せず、親は落ち着いていられた。
見事な食事もさながら、レストラン内の雰囲気、オーナー氏のホスピタリティー、といいまた機会がある時に来たい、と思わせるところであるのは確実だ。
息子は終始機嫌が良く、別れにはオーナーのおっちゃんと大きな笑顔でハイタッチしていた。
2013年5月5日日曜日
カリブ海のマルティニーク
マルティニークはカリブ海に浮かぶ、自然に囲まれた常夏の美しい島だ。フランスの海外県であり、通貨はユーロで走る車はフランスのナンバーである。
縁があって、この島に10日ほど、滞在してきた。ヴェルディのレクイエムを上演するという、大掛かりなプロダクションである。主に、120人ほどの合唱団の監督を任された。
バナナ、パイナップルなどのフルーツの産地で有名で、経済的に観光業とともにこの島をわずかながら潤いでいるようだ。ポルトガルでいえば、マデイラ島が似たような位置にいる。
マルティニークの食事は、特別美味しいものではない。肉類は決まって時間をかけて調理してあり、揚げ物は時間をかけているので硬くなっている。煮付けられた鳥肉はまだ馴染みやすいもので、コロンボと呼ばれるカレーのルーがよく使われる。特別辛くない、優しいスパイスであった。豆類の煮たもの、白いご飯が常に「おかず」であった。
ことし、4月に入っても肌寒い日が続いていたヨーロッパに比べ、このマルティニークでは27,8度ある、心地よい夏の気候だ。夜でも気温は下がらず、生まれて始めて日中の気温差に悩ませることがなかった。このプロダクションのために、ヨーロッパから100人ほど訪れていたが、体調を崩した人はいなかったのではないか。夜に外に出ても、肌寒いと感じることはなく、朝方も適当に涼しく、まさにちょうどいい気温である。
海はやはり格別で、水温も心地よく、こういう海岸ならいつ行っても良さそうだ。幸いクルマを貸してくれていたので気軽にいつでもどこにでも行動できた。
合唱団は、マルティニーク当地の3つの教会合唱団に加え、フランス、トゥールーズから助っ人が50人ほどよばれ、結構大きな合唱団になった。加えて、リハーサルはかなり限られていたので、かなり効率良く仕事を進めて行く必要があった。
それぞれの合唱団は時間をかけて練習してきたのだが、細部のまとめはやはり一つ一つ話していけないといけない。2つのアカペラの、どの合唱団にとっても難しい番号は念入りに練習する必要がある。結局コンサート当日でも、本番前1時間ほどの本格的なリハーサルが必要になってしまった。コンサート合計3度あったが、本番は本当に良かったと思う。ずべての合唱団はアマチュアだが、それぞれにとって印象深い経験だったのではないだろうか。
リハーサルは当然フランス語である。自分のフランス語の勉強は、特に必要性がなく、後回しになってようやく7年ほどまえに集中講座を受けたのみである。しかも、リヨンに4週間滞在した当時もかなりあやしいものだった。しかし、読むには、ほとんど理解できるくらいであるので、聞く方に慣れれさえすれば、何とかなると思っていた。ポルトガル語でも、イタリア語でも、ヒヤリングは最初のうちはちんぷんかんぷんでも、時間が経つに連れできるようになるものである。
それでも、少々の会話はできたし、リハーサルではなにせ専門的分野なので、ポルトガルでやっているのとだいたい同じようにできた。ポルトガルでもまったく不自由なしにできるわけではないし、あまり違和感なしにできた。
それでも、1体1の会話になると、ゆっくりしゃべってもらってもわからないことが多かった。特にクレオールと呼ばれる、マルティニークの話す言葉は難解であった。とにかく話すのが早く、なかなか自分の脳は追いつかなかった。いつか理解できるものなのだろうか。
マルティニークの人たちの、ホスピタリティー精神は素晴らしい。お世話にするなら、とことん手助けしてくれる。自分自身、ホスピタリティーとは無縁の生活をしているので、新鮮な、心が洗われた気分になった。
マルティニーク歴史は悲しいものだ。大方の人達が昔の奴隷主義の犠牲者の子孫である。要するに、アフリカ大陸から無理やり駆り出され、マルティニークのような島に集められ、アメリカ大陸での仕事、というか奴隷として使われるのを待機していたのだろう。思えば、当時には普通に行われていたとはいえ、今現在、この人たちへの保障はあるのだろうか。また、ヨーロッパ人到着前にいた原住民は激しく抵抗したらしく、数年に渡る戦いですべての命を失ってしまった。ヨーロッパのテクノロジーの前に屈したのだが、住民全員虐殺された、とは今の常識では考えられない、狂気である。 日本でも終戦前、総一億人して戦う、などと言われていたらしいが、実際にはおこなわれなかった。よって、日本の歴史は続いたのだが、マルティニーク原住民の語り継がれたものは、いわゆる人の記憶から失われたのだろうか。何れにせよ、今現在のマルティニークにはそれにまつわる話しというのは、存在するのだろうか。
滞在は9日だったが、また近い将来行くことになるかもしれない。年中、こういう初夏の気候なら、何年でも滞在したい場所である。
縁があって、この島に10日ほど、滞在してきた。ヴェルディのレクイエムを上演するという、大掛かりなプロダクションである。主に、120人ほどの合唱団の監督を任された。
バナナ、パイナップルなどのフルーツの産地で有名で、経済的に観光業とともにこの島をわずかながら潤いでいるようだ。ポルトガルでいえば、マデイラ島が似たような位置にいる。
マルティニークの食事は、特別美味しいものではない。肉類は決まって時間をかけて調理してあり、揚げ物は時間をかけているので硬くなっている。煮付けられた鳥肉はまだ馴染みやすいもので、コロンボと呼ばれるカレーのルーがよく使われる。特別辛くない、優しいスパイスであった。豆類の煮たもの、白いご飯が常に「おかず」であった。
ことし、4月に入っても肌寒い日が続いていたヨーロッパに比べ、このマルティニークでは27,8度ある、心地よい夏の気候だ。夜でも気温は下がらず、生まれて始めて日中の気温差に悩ませることがなかった。このプロダクションのために、ヨーロッパから100人ほど訪れていたが、体調を崩した人はいなかったのではないか。夜に外に出ても、肌寒いと感じることはなく、朝方も適当に涼しく、まさにちょうどいい気温である。
海はやはり格別で、水温も心地よく、こういう海岸ならいつ行っても良さそうだ。幸いクルマを貸してくれていたので気軽にいつでもどこにでも行動できた。
合唱団は、マルティニーク当地の3つの教会合唱団に加え、フランス、トゥールーズから助っ人が50人ほどよばれ、結構大きな合唱団になった。加えて、リハーサルはかなり限られていたので、かなり効率良く仕事を進めて行く必要があった。
それぞれの合唱団は時間をかけて練習してきたのだが、細部のまとめはやはり一つ一つ話していけないといけない。2つのアカペラの、どの合唱団にとっても難しい番号は念入りに練習する必要がある。結局コンサート当日でも、本番前1時間ほどの本格的なリハーサルが必要になってしまった。コンサート合計3度あったが、本番は本当に良かったと思う。ずべての合唱団はアマチュアだが、それぞれにとって印象深い経験だったのではないだろうか。
リハーサルは当然フランス語である。自分のフランス語の勉強は、特に必要性がなく、後回しになってようやく7年ほどまえに集中講座を受けたのみである。しかも、リヨンに4週間滞在した当時もかなりあやしいものだった。しかし、読むには、ほとんど理解できるくらいであるので、聞く方に慣れれさえすれば、何とかなると思っていた。ポルトガル語でも、イタリア語でも、ヒヤリングは最初のうちはちんぷんかんぷんでも、時間が経つに連れできるようになるものである。
それでも、少々の会話はできたし、リハーサルではなにせ専門的分野なので、ポルトガルでやっているのとだいたい同じようにできた。ポルトガルでもまったく不自由なしにできるわけではないし、あまり違和感なしにできた。
それでも、1体1の会話になると、ゆっくりしゃべってもらってもわからないことが多かった。特にクレオールと呼ばれる、マルティニークの話す言葉は難解であった。とにかく話すのが早く、なかなか自分の脳は追いつかなかった。いつか理解できるものなのだろうか。
マルティニークの人たちの、ホスピタリティー精神は素晴らしい。お世話にするなら、とことん手助けしてくれる。自分自身、ホスピタリティーとは無縁の生活をしているので、新鮮な、心が洗われた気分になった。
マルティニーク歴史は悲しいものだ。大方の人達が昔の奴隷主義の犠牲者の子孫である。要するに、アフリカ大陸から無理やり駆り出され、マルティニークのような島に集められ、アメリカ大陸での仕事、というか奴隷として使われるのを待機していたのだろう。思えば、当時には普通に行われていたとはいえ、今現在、この人たちへの保障はあるのだろうか。また、ヨーロッパ人到着前にいた原住民は激しく抵抗したらしく、数年に渡る戦いですべての命を失ってしまった。ヨーロッパのテクノロジーの前に屈したのだが、住民全員虐殺された、とは今の常識では考えられない、狂気である。 日本でも終戦前、総一億人して戦う、などと言われていたらしいが、実際にはおこなわれなかった。よって、日本の歴史は続いたのだが、マルティニーク原住民の語り継がれたものは、いわゆる人の記憶から失われたのだろうか。何れにせよ、今現在のマルティニークにはそれにまつわる話しというのは、存在するのだろうか。
滞在は9日だったが、また近い将来行くことになるかもしれない。年中、こういう初夏の気候なら、何年でも滞在したい場所である。
2013年3月14日木曜日
フランダースの犬
今の世の中では、情報に関して困ることはない。
家の中でゆっくり、知りたいものをインターネットで検索したいだけできる。
新聞や週刊誌も、一昔前までは欠かさず配達してもらったりしてきたが、今はその必要がなくなった。常に最新情報が手元に入る。
思えば、ウィーンに着いたばかりの頃は、ソウルオリンピックが開催されていて、楽しみにしていた競技の結果など、知るのに時間がかかったものである。というのも、日本大使館に日本から直送の朝日新聞が置いてあって、常に4、5日遅れだったからである。
テレビも、番組表など見なくても、ユーチューブが現れて以来、サッカーの試合でも、昔の映画でもなんでも探せばすぐ映像が見つかるくらいになった。ここ15年くらいでえらい変わってきたことだ。
3歳の息子は、パパとは日本語で会話する。というより、パパは息子とは日本語以外話さない。息子はテレビにかじりつく、ということはしないが、そのかわりにPCのユーチューブは大好きで、ずっとお世話になっている。そこではパパはなるべく日本語のものを探すのだが、最近ふと「フランダースの犬」の映画版をみつけた。
そういえば、自分が小さいときに放映されていた「フランダース」のあらすじなど、全然思い出せなかった。思い出すのは、おとこのこが大きい犬を連れて歩く、ヨーロッパのどこかの話ということだけだ。
早速息子と最初から観はじめたが、我が3歳児は最初のうちは犬を目で追ってコメントしていたものの、やがて飽きて席を立った。パパは、今になってどういう話しか初めて知ったような感じだったので、気になって最後まで観た。
男の子は唯一の育ての親のおじいさんを亡くし、生活の糧の仕事も失う。風車の放火の疑いをかけられ、人から信頼を失う。唯一望みをかけていた絵のコンクールには落選し、家賃も払えなくなって家から追い出される。雪が積もった路上にいるわけにいかず、せめて犬だけは知人宅に預けようと、幼なじみの裕福な女の子の家をたずねる。男の子は一人で教会に向かい、一度目にしたかったルーベンスの絵を見ながら、寒さと飢え?で動けなくなる。追ってやってきた犬と力尽き、最後は天使がおりてきて共に昇天する。
これは子供が観る内容ではないではないか。人生とは、不運はあれど、必ず幸運も顔のぞかせる、言わずと知れた山あり谷ありのものだ。要するに、不幸が積み重なり、そのまま命を落としてしまうとは、普通の人生において真実とかけ離れているし、そもそもお話にするような内容ではない。ましては主人公は人間社会から守られるべき、10歳前後の男の子であり、話の終わりには命を落としてしまう。心から憤慨してしまった。こんなものを自分は子供のときに観ていたのか?
原作は舞台のフランダースには行ったことのないイギリス人、作品は19世紀後半ということで、風刺的に書いた一種のギャグだったのか、おそらくまともな作品ではないだろう。
早速検索してみると、舞台のフランダースではこの駄作といえるお話を知っている人はいないという。日本のアニメは成功作となって、愛される古典の一つになっている。
しかし、なぜ人はこのようなものを「愛する」のだろうか?
全く理解できない。
あるサイトには、日本人特有の感性で、こういう破滅型(だったか?)の話、死を美化する話は受けがいい、とあった。
日本人特有の感性?
自分は日本人だが、幼い男の子が孤児になり、生きる場所も信頼できる人も失い、凍えて命を落とす話のどこに、美しさを感じるのであろうか。美しさは、人間の愛と共存するのか、男の子がどういう形であれ、人または神の愛情により救われるのであれば美しい話と思えたかもしれない。
自分にとっては、大掛かりで制作したアニメ映画なら、ウソでもそういう救われる話であってほしかった。
というわけで、このフランダースの犬の続き、もう息子には絶対見せない。
家の中でゆっくり、知りたいものをインターネットで検索したいだけできる。
新聞や週刊誌も、一昔前までは欠かさず配達してもらったりしてきたが、今はその必要がなくなった。常に最新情報が手元に入る。
思えば、ウィーンに着いたばかりの頃は、ソウルオリンピックが開催されていて、楽しみにしていた競技の結果など、知るのに時間がかかったものである。というのも、日本大使館に日本から直送の朝日新聞が置いてあって、常に4、5日遅れだったからである。
テレビも、番組表など見なくても、ユーチューブが現れて以来、サッカーの試合でも、昔の映画でもなんでも探せばすぐ映像が見つかるくらいになった。ここ15年くらいでえらい変わってきたことだ。
3歳の息子は、パパとは日本語で会話する。というより、パパは息子とは日本語以外話さない。息子はテレビにかじりつく、ということはしないが、そのかわりにPCのユーチューブは大好きで、ずっとお世話になっている。そこではパパはなるべく日本語のものを探すのだが、最近ふと「フランダースの犬」の映画版をみつけた。
そういえば、自分が小さいときに放映されていた「フランダース」のあらすじなど、全然思い出せなかった。思い出すのは、おとこのこが大きい犬を連れて歩く、ヨーロッパのどこかの話ということだけだ。
早速息子と最初から観はじめたが、我が3歳児は最初のうちは犬を目で追ってコメントしていたものの、やがて飽きて席を立った。パパは、今になってどういう話しか初めて知ったような感じだったので、気になって最後まで観た。
男の子は唯一の育ての親のおじいさんを亡くし、生活の糧の仕事も失う。風車の放火の疑いをかけられ、人から信頼を失う。唯一望みをかけていた絵のコンクールには落選し、家賃も払えなくなって家から追い出される。雪が積もった路上にいるわけにいかず、せめて犬だけは知人宅に預けようと、幼なじみの裕福な女の子の家をたずねる。男の子は一人で教会に向かい、一度目にしたかったルーベンスの絵を見ながら、寒さと飢え?で動けなくなる。追ってやってきた犬と力尽き、最後は天使がおりてきて共に昇天する。
これは子供が観る内容ではないではないか。人生とは、不運はあれど、必ず幸運も顔のぞかせる、言わずと知れた山あり谷ありのものだ。要するに、不幸が積み重なり、そのまま命を落としてしまうとは、普通の人生において真実とかけ離れているし、そもそもお話にするような内容ではない。ましては主人公は人間社会から守られるべき、10歳前後の男の子であり、話の終わりには命を落としてしまう。心から憤慨してしまった。こんなものを自分は子供のときに観ていたのか?
原作は舞台のフランダースには行ったことのないイギリス人、作品は19世紀後半ということで、風刺的に書いた一種のギャグだったのか、おそらくまともな作品ではないだろう。
早速検索してみると、舞台のフランダースではこの駄作といえるお話を知っている人はいないという。日本のアニメは成功作となって、愛される古典の一つになっている。
しかし、なぜ人はこのようなものを「愛する」のだろうか?
全く理解できない。
あるサイトには、日本人特有の感性で、こういう破滅型(だったか?)の話、死を美化する話は受けがいい、とあった。
日本人特有の感性?
自分は日本人だが、幼い男の子が孤児になり、生きる場所も信頼できる人も失い、凍えて命を落とす話のどこに、美しさを感じるのであろうか。美しさは、人間の愛と共存するのか、男の子がどういう形であれ、人または神の愛情により救われるのであれば美しい話と思えたかもしれない。
自分にとっては、大掛かりで制作したアニメ映画なら、ウソでもそういう救われる話であってほしかった。
というわけで、このフランダースの犬の続き、もう息子には絶対見せない。
2013年2月8日金曜日
Dervixe、リスボンのトルコレストラン。
もうそろそろ4年前になってしまうが、イスタンブールでの合計6週間の滞在は忘れられないものである。アジア大陸が始まる、カディコイ区とでもいうのだろうか、にあるオペラハウスでの仕事をしていたので、タクシムというヨーロッパ側のホテルに滞在していた自分は毎日、2大陸間を行き来していた。
アジアの反対側の国、日本で生まれ、今ヨーロッパの反対側の国、ポルトガルに暮らしているものにとっては、実にスケールの大きな、感慨深い経験をさせてもらった。
カディコイには数多くのレストランがあるが、チヤという何件も別館を増やしているようなレストランは、実に格別だった。地元のトルコ人でさえ、食べたことのないレシピも提供しているような、グルメな店である。そこに毎日のように、ある日は一日に2度足を運んだのは、必然のことであった。
こちらリスボンでは、意外にトルコ料理を提供する店がなかなか見当たらない。ひとつショッピングセンターにあったレストランは、美味しい店であったが今は姿を消してしまった。
ひょんなことから、仕事先のオペラ劇場からクルマで10分のところにトルコレストランがあることを知った。デルヴィッシェ、という名の本格的なトルコ料理のレストランである。
中に入ると、その一階には一応席があるが、混雑時の非常用らしく、来客はみな階段を登って2階の40席ほどの広さのホールに向かう。例の、トルコ独特のソファーに座って低いテーブルで食事するようなスペースもある。しかし自分は一人で来るのでそこには向かわず、普通のテーブルの席に勧められる。
店内は様々なイスタンブールの街のポスターで溢れる。あれもこれも、自分が実際行ってきたもので、大抵はその建物の名前も自然に口にできた。
話によると、このデルヴィッシュは、ケバプ店をのぞけばリスボンにある、唯一のトルコレストランだそうだ。自分にとって、トルコ料理は素晴らしいジャンルだと思うのだが、一般のポルトガル人には口に合わないのか。
さて料理の方は、期待を裏切らない、清潔感のあふれる美味しいものであった。鶏肉、牛肉料理にベジタブル料理、ケバプ類、とメニューも充分豊富である。
昼食メニューはドリンク、カフェ込みで6ユーロと低料金で、よく言われる「質と料金のバランスquarità prezzo」は、自分には最高点である。
毎日通う劇場からは歩いてはこれそうもない距離だが、せっかくバイクで行動している身である。イスタンブールでの素晴らしい思い出を蘇させたく、これからしばらくの間、昼の2時間という長い休憩時間の間に、バイクを飛ばしてこのレストランに通うことにした。
アジアの反対側の国、日本で生まれ、今ヨーロッパの反対側の国、ポルトガルに暮らしているものにとっては、実にスケールの大きな、感慨深い経験をさせてもらった。
カディコイには数多くのレストランがあるが、チヤという何件も別館を増やしているようなレストランは、実に格別だった。地元のトルコ人でさえ、食べたことのないレシピも提供しているような、グルメな店である。そこに毎日のように、ある日は一日に2度足を運んだのは、必然のことであった。
こちらリスボンでは、意外にトルコ料理を提供する店がなかなか見当たらない。ひとつショッピングセンターにあったレストランは、美味しい店であったが今は姿を消してしまった。
ひょんなことから、仕事先のオペラ劇場からクルマで10分のところにトルコレストランがあることを知った。デルヴィッシェ、という名の本格的なトルコ料理のレストランである。
中に入ると、その一階には一応席があるが、混雑時の非常用らしく、来客はみな階段を登って2階の40席ほどの広さのホールに向かう。例の、トルコ独特のソファーに座って低いテーブルで食事するようなスペースもある。しかし自分は一人で来るのでそこには向かわず、普通のテーブルの席に勧められる。
店内は様々なイスタンブールの街のポスターで溢れる。あれもこれも、自分が実際行ってきたもので、大抵はその建物の名前も自然に口にできた。
話によると、このデルヴィッシュは、ケバプ店をのぞけばリスボンにある、唯一のトルコレストランだそうだ。自分にとって、トルコ料理は素晴らしいジャンルだと思うのだが、一般のポルトガル人には口に合わないのか。
さて料理の方は、期待を裏切らない、清潔感のあふれる美味しいものであった。鶏肉、牛肉料理にベジタブル料理、ケバプ類、とメニューも充分豊富である。
イスタンブールでは、チャイ、トルコの紅茶を何度なく飲むのが普通だが、この店には残念ながらないようだ。しばらく通って行くうちに出してもらえるかもしれない。
昼食メニューはドリンク、カフェ込みで6ユーロと低料金で、よく言われる「質と料金のバランスquarità prezzo」は、自分には最高点である。
混んでいる日もあるが、サービスは変わらず早い。いつも美味しくいただけるし、量は多くはないが仕事の終わりに空腹感に襲われることもないので、充分満足できる。
2013年2月2日土曜日
差別といじめ
最近、いじめや体罰についてのニュースが新聞上賑わっている。
離日してから25年になるが、いじめはその当時の学校でも同じことが話題に登っていたので、今も昔も何も変わっていないのだろう。
1対1の人間として、体が大きかったり、立場が上だったり、いろいろな力関係の違いから殴られる側はじっと我慢するだけで、なにも立ち向かえない。屈辱的であり、やられっぱなしのくやしいものである。
自分が通った小学校では、殴る、叩くという程度の体罰は愛の鞭でも何でもなく、ごく普通の罰であり、日常的に当たり前に行われていた。
プラスチック製の糊の容器を、頭を殴る体罰専門に使っていた小学校の先生もいれば、東京タワーと名前のついた、耳の横の髪の毛を上に引っ張るという、オリジナルな体罰を持っている先生もいた。耳を引っ張る体罰を持つ別の先生は度がすぎたのか、ある生徒の耳を裂いてしまい問題になり、養護クラス担当に左遷された。
自分は小学校運動会の開会式で宣誓をしたことがあったが、その公開練習で体育専門かなにかわからないが、顔を見るのも存在そのものも嫌だった先生に無言で手をひっぱたかれた。指をピンと伸ばしていないからだと、気づかされた。
中学では体罰の度を越した、暴力を振るう先生に2年連続でクラスの担任として当たってしまった。この人は奇声をあげ、自分の機嫌によって、思い切り殴ったり平手を打ったりする異常な先生であった。女子バスケ部の顧問としてその体罰主義は花を咲かせたらしく、その出来事はよく自慢話として聞かされた。あまりにきつかったので、生理が止まった子がいた、と嬉しそうに話していた。
一年だけ行った高校では、細い竹の棒を常持している数学の先生がいた。棒は、鞭として人を叩くのに使われるのである。つい居眠りをしていた女の子が、思い切り何度も殴られていた。
別の体育系の先生は、試験に遅刻した生徒の胸ぐらをつかんで投げ倒し、至近距離で怒鳴りつけていた。当時、試験をする必要性を感じなかった自分は、その出来事を文章にして試験用紙にすべて書くことにした。
自分自身、こういう暴力先生達に実際に殴られた経験はなかった。ただ、いつかこういう被害にあうのだろうかと常に恐怖心にかられた。暴力現場を目撃するのは非常に苦痛であり、またその光景は脳裏から離れないくらい、ショッキングなものであった。
自分は運動が好きで、できればサッカーや、野球といったメジャーなスポーツに取り組みたかったのだが、常に体罰、というより暴力主義が避けられないのは目に見えていたので、しなかった。家畜のように殴られたり蹴られたりは絶対にされたくなかった。
体罰先生は、自分なりに許容範囲があって、それを越したものに罰を与える。
いじめる側は、自分なりの何らかの基準に外れているものをいじめの対象にする。
考え方であったり、言動であったり、身なりであったり、からだつきであったり、なにか変なものを持っている人間を、自分との力関係を確認後、いじめの対象にすると決める。
一歩外に出れば、自分の価値観と違う、いわゆる変なものを持っている人間は、世界には限りなくある。空間が狭くなればなるほど、その「変な人間」はその世界の価値観に当てはまらず、差別を受け、生きにくくなる。
ところで、差別というのは、いじめと全く同じである。習慣、宗教、人種、身なりの違い、で何らかの力関係で立場が弱い、とされる側は、生きていく上でいろいろと制限を受ける。そのなかで、何かいじめる側に好都合なことがある場合にだけ、その報酬としてすこしずつ自由が認められる。
この世界に、差別といういじめを受けている人、団体、民族、国は、無数にあるのではないだろうか。ジプシーを呼ばれた、ヨーロッパ中で何世紀にわたって憎まれてきたロマ人はいったい、どれだけの屈辱的な話をもちあわせているのであろうか。アフリカで野獣のように文字通り引っ張り狩られて、船に乗せられアメリカ大陸の開発の人力として使われた、黒人奴隷よりはげしい屈辱を受けた人たちはいないのではないだろうか。
今までの人生の大半を異人として生きてきた自分は、幸いにも豊かな国際社会の時代に生まれたので、今まで受けてきた差別やいじめは、自分や家族の生命を脅かすほどでもなかった。自分が生まれた国である日本は、文化的にも、経済的にも、どのような国にも負けない、恐るべき大国である。日本人である自分は、そういうイメージに守られてきたのも事実である。
しかし、数多く耳にした明らかな人種差別的発言、異なる言語を母国語とするものとして、異なる習慣を持つものとして、異なる考え方をする人間として排他されることが実際にあることは、深く悲しく、それらに十分傷つけられた。
醜い差別、偏見は、なくなってしまうに越したことはないが、残念ながら、地球が存在する限りなくなるものではないと断言できる。欧州サッカーで人種差別主義、racismをなくそう、などというキャンペーンをやっているが、限りなく表面的なものにしか思えない。
この世の中では、人はある種に属する、要するにどこかに存在する価値観で生きる決意、自分の立場を認識して守っていかないといけない必要があるようである。
異国人として生きるということは、自分たちや自分の国のためではなく、今生活をしている国のため、そのひとたちにアドヴァンテージを与えるという姿勢で、生きてくべきである。それは人より多く仕事をし、人より貧しい生活をすることを意味する。
それが差別やいじめから逃れられる、生きる道だと信じる。
離日してから25年になるが、いじめはその当時の学校でも同じことが話題に登っていたので、今も昔も何も変わっていないのだろう。
1対1の人間として、体が大きかったり、立場が上だったり、いろいろな力関係の違いから殴られる側はじっと我慢するだけで、なにも立ち向かえない。屈辱的であり、やられっぱなしのくやしいものである。
こういう理不尽な関係が同年代同士に発生するのが、いじめといわれるのではないか。本質的には、体罰と称するものと、いじめは同じと断言できる。自分より弱い立場にあるものにすりこむように存在感を示しつける。いじめっこは、自分のせいで苦痛を感じている相手という一種の鏡によって、自分のバイタリティーを確認することができる。体罰先生は、フィジカル的な苦痛、ショックによって、望むべく即変化をなす生徒を見るたび、自分自身の功績を感じる。
自分が通った小学校では、殴る、叩くという程度の体罰は愛の鞭でも何でもなく、ごく普通の罰であり、日常的に当たり前に行われていた。
プラスチック製の糊の容器を、頭を殴る体罰専門に使っていた小学校の先生もいれば、東京タワーと名前のついた、耳の横の髪の毛を上に引っ張るという、オリジナルな体罰を持っている先生もいた。耳を引っ張る体罰を持つ別の先生は度がすぎたのか、ある生徒の耳を裂いてしまい問題になり、養護クラス担当に左遷された。
自分は小学校運動会の開会式で宣誓をしたことがあったが、その公開練習で体育専門かなにかわからないが、顔を見るのも存在そのものも嫌だった先生に無言で手をひっぱたかれた。指をピンと伸ばしていないからだと、気づかされた。
中学では体罰の度を越した、暴力を振るう先生に2年連続でクラスの担任として当たってしまった。この人は奇声をあげ、自分の機嫌によって、思い切り殴ったり平手を打ったりする異常な先生であった。女子バスケ部の顧問としてその体罰主義は花を咲かせたらしく、その出来事はよく自慢話として聞かされた。あまりにきつかったので、生理が止まった子がいた、と嬉しそうに話していた。
一年だけ行った高校では、細い竹の棒を常持している数学の先生がいた。棒は、鞭として人を叩くのに使われるのである。つい居眠りをしていた女の子が、思い切り何度も殴られていた。
別の体育系の先生は、試験に遅刻した生徒の胸ぐらをつかんで投げ倒し、至近距離で怒鳴りつけていた。当時、試験をする必要性を感じなかった自分は、その出来事を文章にして試験用紙にすべて書くことにした。
自分自身、こういう暴力先生達に実際に殴られた経験はなかった。ただ、いつかこういう被害にあうのだろうかと常に恐怖心にかられた。暴力現場を目撃するのは非常に苦痛であり、またその光景は脳裏から離れないくらい、ショッキングなものであった。
自分は運動が好きで、できればサッカーや、野球といったメジャーなスポーツに取り組みたかったのだが、常に体罰、というより暴力主義が避けられないのは目に見えていたので、しなかった。家畜のように殴られたり蹴られたりは絶対にされたくなかった。
体罰先生は、自分なりに許容範囲があって、それを越したものに罰を与える。
いじめる側は、自分なりの何らかの基準に外れているものをいじめの対象にする。
考え方であったり、言動であったり、身なりであったり、からだつきであったり、なにか変なものを持っている人間を、自分との力関係を確認後、いじめの対象にすると決める。
一歩外に出れば、自分の価値観と違う、いわゆる変なものを持っている人間は、世界には限りなくある。空間が狭くなればなるほど、その「変な人間」はその世界の価値観に当てはまらず、差別を受け、生きにくくなる。
ところで、差別というのは、いじめと全く同じである。習慣、宗教、人種、身なりの違い、で何らかの力関係で立場が弱い、とされる側は、生きていく上でいろいろと制限を受ける。そのなかで、何かいじめる側に好都合なことがある場合にだけ、その報酬としてすこしずつ自由が認められる。
この世界に、差別といういじめを受けている人、団体、民族、国は、無数にあるのではないだろうか。ジプシーを呼ばれた、ヨーロッパ中で何世紀にわたって憎まれてきたロマ人はいったい、どれだけの屈辱的な話をもちあわせているのであろうか。アフリカで野獣のように文字通り引っ張り狩られて、船に乗せられアメリカ大陸の開発の人力として使われた、黒人奴隷よりはげしい屈辱を受けた人たちはいないのではないだろうか。
今までの人生の大半を異人として生きてきた自分は、幸いにも豊かな国際社会の時代に生まれたので、今まで受けてきた差別やいじめは、自分や家族の生命を脅かすほどでもなかった。自分が生まれた国である日本は、文化的にも、経済的にも、どのような国にも負けない、恐るべき大国である。日本人である自分は、そういうイメージに守られてきたのも事実である。
しかし、数多く耳にした明らかな人種差別的発言、異なる言語を母国語とするものとして、異なる習慣を持つものとして、異なる考え方をする人間として排他されることが実際にあることは、深く悲しく、それらに十分傷つけられた。
醜い差別、偏見は、なくなってしまうに越したことはないが、残念ながら、地球が存在する限りなくなるものではないと断言できる。欧州サッカーで人種差別主義、racismをなくそう、などというキャンペーンをやっているが、限りなく表面的なものにしか思えない。
この世の中では、人はある種に属する、要するにどこかに存在する価値観で生きる決意、自分の立場を認識して守っていかないといけない必要があるようである。
異国人として生きるということは、自分たちや自分の国のためではなく、今生活をしている国のため、そのひとたちにアドヴァンテージを与えるという姿勢で、生きてくべきである。それは人より多く仕事をし、人より貧しい生活をすることを意味する。
それが差別やいじめから逃れられる、生きる道だと信じる。
2013年1月28日月曜日
李清氏のこと、最終回。
このなんでもない、個人ブログへの検索ヒットは一度書いた、李清氏のことと、息子の病気のことが一番多いようだ。ブログは元々自分の音楽家としての仕事のことを中心に書くつもりで開設したのだが、ネタがあまりないこともあり少々雑談的なものになってしまった。
息子の病気については、同じ悩みを持つ人、手術後の経過について不安で仕方がない人に勇気づけるものであってほしいと思う。この種の病気は一生つきあっていくものであるが、三歳の息子の日々の成長ぶりは生後すぐの手術のことは忘れさせるものである。
本来なら失っていたはずの命が、手術を行った医師団スタッフ、サンタクルス病院により救われたことは、奇跡のように思える。感謝しても仕切れない。もちろん、神様にも感謝しているのだが、ルイ・アンジュス先生を始めとするスタッフにはその100倍の感謝の気持ちを抱いている。
李清氏について検索している人が多いところを見ると、先生はまだまだ、現役で活躍されているようだ。今の、オペラの分野にいる自分には遠い存在になったが、ウィーンでの彼に関する思い出は、まだある。
彼の思い出はごくわずかだが、強烈である。前回に書いたことも少々重複する。
今から25年前、留学先のウィーンにて、李先生には2か月弱、計10回ほどレッスンを見てもらったが、当時16歳の自分にはピアノを弾く技術の習得そのものより、音楽、人生に関する「話し」のほうが重要だったかもしれない。自分の頭の中にある、わずかな知識で世の中とはやく勝負してみたかった。いやな生徒であったはずだ。
もともとオーケストラの指揮がしたかった自分には、ピアノという楽器はオーケストラの代用でしかなく、音色そのものも、音楽リスナーとしてピアノソロ曲も別に好きなものでなかった。今の昔も、自分にとってピアノとは、数ある、愛すべきすばらしい楽器の一つにすぎない。
そのことを李先生に話すと、「ピアノが嫌いなのか!」とびっくりされた。というより、生徒に面と向かってピアノが嫌い(というニュアンスで伝わってしまった)といわれたことに、大変憤慨された。実際、李清グループのレッスンを希望している生徒さんは、ピアノに憧れ、ピアノの音色に魅了され続けている人たちであるはずだ。
李先生は「ピアノと私」という著作本がある人である。先生も含めて、そういう人にとっては、なぜそんなピアノが嫌いな人がまだピアノを弾いているのか、信じられないことだろう。
李先生とは全く話が合わなかった。親とも相談し了承を得て、ウィーン到着後2か月ほどで先生の元を離れることになった。先生からは、あっさりと「これでもう僕の世話になることはないからな」と念を押された。
実はその後、李氏が会長の、パン・ムジカ・オーストリアでアルバイトをさせてもらったことがある。なぜ彼のもとで仕事をしたいと思ったのだろうか。先生から離れて7、8年経った時である。自分の中で、苦い過去への和解の意味があったかもしれない。
仕事といっても、ドイツ語でレッスンされるオーストリア人先生方と、日本から来られた生徒方への、同時通訳のアルバイトである。旅行ガイドと並んで、当地留学生によくある類いのアルバイトである。
通訳専門の人にとって、同時通訳というのは時給10万円とも言われる、本格的に体力、精神力の消耗が激しいものらしいが、この程度のレッスンの通訳は、要するに「適当」に扱われる。時給は100シリング、つまり千円くらいだったかもしれない。
李会長から、この仕事を始めるにあたって「講習会の成功の鍵は通訳が握る」という説明を受けた。受講者の先生への印象は、通訳のやり方、態度によって大きく左右される、という。
当時の自分は、先生のレッスン中に話すドイツ語は全て理解していたし、日本語にして生徒さんに伝えるのも全く不自由しなかった。パンムジカ主催の講習会での、たしか4回くらいのレッスンの「お仕事」も普通に終わったが、この一回きりでもう二度とアルバイトに呼ばれることはなかった。
その後、李先生に電話でその理由を聞いた。「受講者の印象が良くなかった」、つまり通訳として失格になってしまった。
李氏は音楽家である前に一人の経営者である。先生と自分のあいだの微妙な状態、当時16歳の自分との、長期的なつながりを前提とした20万円という現金での「契約」を、2か月足らずで終わらせた、そういう一時期の気まずい関係も、わずかなお金をも必要としている当時24歳の一学生への配慮も、全く躊躇することなく首を切ったのである。
自分にとっては、2度目の、同時に最後の先生とのお別れになった。
考え方次第だが、確かにこの先生がいなかったら今の自分はなかったかもしれない。
しかし、この李清さんとは、それっきりご無沙汰である。
息子の病気については、同じ悩みを持つ人、手術後の経過について不安で仕方がない人に勇気づけるものであってほしいと思う。この種の病気は一生つきあっていくものであるが、三歳の息子の日々の成長ぶりは生後すぐの手術のことは忘れさせるものである。
本来なら失っていたはずの命が、手術を行った医師団スタッフ、サンタクルス病院により救われたことは、奇跡のように思える。感謝しても仕切れない。もちろん、神様にも感謝しているのだが、ルイ・アンジュス先生を始めとするスタッフにはその100倍の感謝の気持ちを抱いている。
李清氏について検索している人が多いところを見ると、先生はまだまだ、現役で活躍されているようだ。今の、オペラの分野にいる自分には遠い存在になったが、ウィーンでの彼に関する思い出は、まだある。
彼の思い出はごくわずかだが、強烈である。前回に書いたことも少々重複する。
今から25年前、留学先のウィーンにて、李先生には2か月弱、計10回ほどレッスンを見てもらったが、当時16歳の自分にはピアノを弾く技術の習得そのものより、音楽、人生に関する「話し」のほうが重要だったかもしれない。自分の頭の中にある、わずかな知識で世の中とはやく勝負してみたかった。いやな生徒であったはずだ。
もともとオーケストラの指揮がしたかった自分には、ピアノという楽器はオーケストラの代用でしかなく、音色そのものも、音楽リスナーとしてピアノソロ曲も別に好きなものでなかった。今の昔も、自分にとってピアノとは、数ある、愛すべきすばらしい楽器の一つにすぎない。
そのことを李先生に話すと、「ピアノが嫌いなのか!」とびっくりされた。というより、生徒に面と向かってピアノが嫌い(というニュアンスで伝わってしまった)といわれたことに、大変憤慨された。実際、李清グループのレッスンを希望している生徒さんは、ピアノに憧れ、ピアノの音色に魅了され続けている人たちであるはずだ。
李先生は「ピアノと私」という著作本がある人である。先生も含めて、そういう人にとっては、なぜそんなピアノが嫌いな人がまだピアノを弾いているのか、信じられないことだろう。
李先生とは全く話が合わなかった。親とも相談し了承を得て、ウィーン到着後2か月ほどで先生の元を離れることになった。先生からは、あっさりと「これでもう僕の世話になることはないからな」と念を押された。
実はその後、李氏が会長の、パン・ムジカ・オーストリアでアルバイトをさせてもらったことがある。なぜ彼のもとで仕事をしたいと思ったのだろうか。先生から離れて7、8年経った時である。自分の中で、苦い過去への和解の意味があったかもしれない。
仕事といっても、ドイツ語でレッスンされるオーストリア人先生方と、日本から来られた生徒方への、同時通訳のアルバイトである。旅行ガイドと並んで、当地留学生によくある類いのアルバイトである。
通訳専門の人にとって、同時通訳というのは時給10万円とも言われる、本格的に体力、精神力の消耗が激しいものらしいが、この程度のレッスンの通訳は、要するに「適当」に扱われる。時給は100シリング、つまり千円くらいだったかもしれない。
李会長から、この仕事を始めるにあたって「講習会の成功の鍵は通訳が握る」という説明を受けた。受講者の先生への印象は、通訳のやり方、態度によって大きく左右される、という。
当時の自分は、先生のレッスン中に話すドイツ語は全て理解していたし、日本語にして生徒さんに伝えるのも全く不自由しなかった。パンムジカ主催の講習会での、たしか4回くらいのレッスンの「お仕事」も普通に終わったが、この一回きりでもう二度とアルバイトに呼ばれることはなかった。
その後、李先生に電話でその理由を聞いた。「受講者の印象が良くなかった」、つまり通訳として失格になってしまった。
李氏は音楽家である前に一人の経営者である。先生と自分のあいだの微妙な状態、当時16歳の自分との、長期的なつながりを前提とした20万円という現金での「契約」を、2か月足らずで終わらせた、そういう一時期の気まずい関係も、わずかなお金をも必要としている当時24歳の一学生への配慮も、全く躊躇することなく首を切ったのである。
自分にとっては、2度目の、同時に最後の先生とのお別れになった。
考え方次第だが、確かにこの先生がいなかったら今の自分はなかったかもしれない。
しかし、この李清さんとは、それっきりご無沙汰である。
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