2013年2月2日土曜日

差別といじめ

最近、いじめや体罰についてのニュースが新聞上賑わっている。

離日してから25年になるが、いじめはその当時の学校でも同じことが話題に登っていたので、今も昔も何も変わっていないのだろう。


1対1の人間として、体が大きかったり、立場が上だったり、いろいろな力関係の違いから殴られる側はじっと我慢するだけで、なにも立ち向かえない。屈辱的であり、やられっぱなしのくやしいものである。


こういう理不尽な関係が同年代同士に発生するのが、いじめといわれるのではないか。本質的には、体罰と称するものと、いじめは同じと断言できる。自分より弱い立場にあるものにすりこむように存在感を示しつける。いじめっこは、自分のせいで苦痛を感じている相手という一種の鏡によって、自分のバイタリティーを確認することができる。体罰先生は、フィジカル的な苦痛、ショックによって、望むべく即変化をなす生徒を見るたび、自分自身の功績を感じる。





自分が通った小学校では、殴る、叩くという程度の体罰は愛の鞭でも何でもなく、ごく普通の罰であり、日常的に当たり前に行われていた。


プラスチック製の糊の容器を、頭を殴る体罰専門に使っていた小学校の先生もいれば、東京タワーと名前のついた、耳の横の髪の毛を上に引っ張るという、オリジナルな体罰を持っている先生もいた。耳を引っ張る体罰を持つ別の先生は度がすぎたのか、ある生徒の耳を裂いてしまい問題になり、養護クラス担当に左遷された。

自分は小学校運動会の開会式で宣誓をしたことがあったが、その公開練習で体育専門かなにかわからないが、顔を見るのも存在そのものも嫌だった先生に無言で手をひっぱたかれた。指をピンと伸ばしていないからだと、気づかされた。


中学では体罰の度を越した、暴力を振るう先生に2年連続でクラスの担任として当たってしまった。この人は奇声をあげ、自分の機嫌によって、思い切り殴ったり平手を打ったりする異常な先生であった。女子バスケ部の顧問としてその体罰主義は花を咲かせたらしく、その出来事はよく自慢話として聞かされた。あまりにきつかったので、生理が止まった子がいた、と嬉しそうに話していた。



一年だけ行った高校では、細い竹の棒を常持している数学の先生がいた。棒は、鞭として人を叩くのに使われるのである。つい居眠りをしていた女の子が、思い切り何度も殴られていた。

別の体育系の先生は、試験に遅刻した生徒の胸ぐらをつかんで投げ倒し、至近距離で怒鳴りつけていた。当時、試験をする必要性を感じなかった自分は、その出来事を文章にして試験用紙にすべて書くことにした。


自分自身、こういう暴力先生達に実際に殴られた経験はなかった。ただ、いつかこういう被害にあうのだろうかと常に恐怖心にかられた。暴力現場を目撃するのは非常に苦痛であり、またその光景は脳裏から離れないくらい、ショッキングなものであった。

自分は運動が好きで、できればサッカーや、野球といったメジャーなスポーツに取り組みたかったのだが、常に体罰、というより暴力主義が避けられないのは目に見えていたので、しなかった。家畜のように殴られたり蹴られたりは絶対にされたくなかった。


体罰先生は、自分なりに許容範囲があって、それを越したものに罰を与える。
いじめる側は、自分なりの何らかの基準に外れているものをいじめの対象にする。

考え方であったり、言動であったり、身なりであったり、からだつきであったり、なにか変なものを持っている人間を、自分との力関係を確認後、いじめの対象にすると決める。


一歩外に出れば、自分の価値観と違う、いわゆる変なものを持っている人間は、世界には限りなくある。空間が狭くなればなるほど、その「変な人間」はその世界の価値観に当てはまらず、差別を受け、生きにくくなる。





ところで、差別というのは、いじめと全く同じである。習慣、宗教、人種、身なりの違い、で何らかの力関係で立場が弱い、とされる側は、生きていく上でいろいろと制限を受ける。そのなかで、何かいじめる側に好都合なことがある場合にだけ、その報酬としてすこしずつ自由が認められる。

この世界に、差別といういじめを受けている人、団体、民族、国は、無数にあるのではないだろうか。ジプシーを呼ばれた、ヨーロッパ中で何世紀にわたって憎まれてきたロマ人はいったい、どれだけの屈辱的な話をもちあわせているのであろうか。アフリカで野獣のように文字通り引っ張り狩られて、船に乗せられアメリカ大陸の開発の人力として使われた、黒人奴隷よりはげしい屈辱を受けた人たちはいないのではないだろうか。





今までの人生の大半を異人として生きてきた自分は、幸いにも豊かな国際社会の時代に生まれたので、今まで受けてきた差別やいじめは、自分や家族の生命を脅かすほどでもなかった。自分が生まれた国である日本は、文化的にも、経済的にも、どのような国にも負けない、恐るべき大国である。日本人である自分は、そういうイメージに守られてきたのも事実である。

しかし、数多く耳にした明らかな人種差別的発言、異なる言語を母国語とするものとして、異なる習慣を持つものとして、異なる考え方をする人間として排他されることが実際にあることは、深く悲しく、それらに十分傷つけられた。

醜い差別、偏見は、なくなってしまうに越したことはないが、残念ながら、地球が存在する限りなくなるものではないと断言できる。欧州サッカーで人種差別主義、racismをなくそう、などというキャンペーンをやっているが、限りなく表面的なものにしか思えない。


この世の中では、人はある種に属する、要するにどこかに存在する価値観で生きる決意、自分の立場を認識して守っていかないといけない必要があるようである。




異国人として生きるということは、自分たちや自分の国のためではなく、今生活をしている国のため、そのひとたちにアドヴァンテージを与えるという姿勢で、生きてくべきである。それは人より多く仕事をし、人より貧しい生活をすることを意味する。

それが差別やいじめから逃れられる、生きる道だと信じる。

2013年1月28日月曜日

李清氏のこと、最終回。

このなんでもない、個人ブログへの検索ヒットは一度書いた、李清氏のことと、息子の病気のことが一番多いようだ。ブログは元々自分の音楽家としての仕事のことを中心に書くつもりで開設したのだが、ネタがあまりないこともあり少々雑談的なものになってしまった。


息子の病気については、同じ悩みを持つ人、手術後の経過について不安で仕方がない人に勇気づけるものであってほしいと思う。この種の病気は一生つきあっていくものであるが、三歳の息子の日々の成長ぶりは生後すぐの手術のことは忘れさせるものである。

本来なら失っていたはずの命が、手術を行った医師団スタッフ、サンタクルス病院により救われたことは、奇跡のように思える。感謝しても仕切れない。もちろん、神様にも感謝しているのだが、ルイ・アンジュス先生を始めとするスタッフにはその100倍の感謝の気持ちを抱いている。





李清氏について検索している人が多いところを見ると、先生はまだまだ、現役で活躍されているようだ。今の、オペラの分野にいる自分には遠い存在になったが、ウィーンでの彼に関する思い出は、まだある。

彼の思い出はごくわずかだが、強烈である。前回に書いたことも少々重複する。

今から25年前、留学先のウィーンにて、李先生には2か月弱、計10回ほどレッスンを見てもらったが、当時16歳の自分にはピアノを弾く技術の習得そのものより、音楽、人生に関する「話し」のほうが重要だったかもしれない。自分の頭の中にある、わずかな知識で世の中とはやく勝負してみたかった。いやな生徒であったはずだ。

もともとオーケストラの指揮がしたかった自分には、ピアノという楽器はオーケストラの代用でしかなく、音色そのものも、音楽リスナーとしてピアノソロ曲も別に好きなものでなかった。今の昔も、自分にとってピアノとは、数ある、愛すべきすばらしい楽器の一つにすぎない。

そのことを李先生に話すと、「ピアノが嫌いなのか!」とびっくりされた。というより、生徒に面と向かってピアノが嫌い(というニュアンスで伝わってしまった)といわれたことに、大変憤慨された。実際、李清グループのレッスンを希望している生徒さんは、ピアノに憧れ、ピアノの音色に魅了され続けている人たちであるはずだ。

李先生は「ピアノと私」という著作本がある人である。先生も含めて、そういう人にとっては、なぜそんなピアノが嫌いな人がまだピアノを弾いているのか、信じられないことだろう。

李先生とは全く話が合わなかった。親とも相談し了承を得て、ウィーン到着後2か月ほどで先生の元を離れることになった。先生からは、あっさりと「これでもう僕の世話になることはないからな」と念を押された。




実はその後、李氏が会長の、パン・ムジカ・オーストリアでアルバイトをさせてもらったことがある。なぜ彼のもとで仕事をしたいと思ったのだろうか。先生から離れて7、8年経った時である。自分の中で、苦い過去への和解の意味があったかもしれない。

仕事といっても、ドイツ語でレッスンされるオーストリア人先生方と、日本から来られた生徒方への、同時通訳のアルバイトである。旅行ガイドと並んで、当地留学生によくある類いのアルバイトである。

通訳専門の人にとって、同時通訳というのは時給10万円とも言われる、本格的に体力、精神力の消耗が激しいものらしいが、この程度のレッスンの通訳は、要するに「適当」に扱われる。時給は100シリング、つまり千円くらいだったかもしれない。

李会長から、この仕事を始めるにあたって「講習会の成功の鍵は通訳が握る」という説明を受けた。受講者の先生への印象は、通訳のやり方、態度によって大きく左右される、という。

当時の自分は、先生のレッスン中に話すドイツ語は全て理解していたし、日本語にして生徒さんに伝えるのも全く不自由しなかった。パンムジカ主催の講習会での、たしか4回くらいのレッスンの「お仕事」も普通に終わったが、この一回きりでもう二度とアルバイトに呼ばれることはなかった。

その後、李先生に電話でその理由を聞いた。「受講者の印象が良くなかった」、つまり通訳として失格になってしまった。

李氏は音楽家である前に一人の経営者である。先生と自分のあいだの微妙な状態、当時16歳の自分との、長期的なつながりを前提とした20万円という現金での「契約」を、2か月足らずで終わらせた、そういう一時期の気まずい関係も、わずかなお金をも必要としている当時24歳の一学生への配慮も、全く躊躇することなく首を切ったのである。

自分にとっては、2度目の、同時に最後の先生とのお別れになった。

考え方次第だが、確かにこの先生がいなかったら今の自分はなかったかもしれない。

しかし、この李清さんとは、それっきりご無沙汰である。

2013年1月20日日曜日

Brisa do Rio, タヴィーラ、アルガルベ。

アルガルベ州とでも言うのだろうか、ポルトガルの最南に位置する地方は、ヨーロッパ大陸の最南地のひとつでもある。サグレス市の海岸線に立てば天気がいい日は海の向こう側、アフリカ大陸が肉眼で確かに見える。

向こう側は、モロッコのはずで、あの特徴的なモスクの建物の尖った部分がはっきり確認できる。アラブ人による、全くの別世界が海の向こうにあるのだ。あんなのがみえたら、それはいつか行ってみたくなるに違いない。そんな意識がポルトガル人の大航海時代につながっていったのだろうか。

時代をさかのぼると、海の向こうの別世界は実はこちら側にも普通に存在していた。イベリア半島の半分は、モーロと呼ばれる、れっきとしたイスラム教のアラブ人が何世紀というかなり長い間支配していた。その名残は現在も存分にあり、建築物だったり、アラブ語の冠詞であるalがついた地名は無数にある。algarveもしかり。イギリス人旅行者を意識してか、地名をallgarveに変えよう、という真面目な動きがあったが、歴史の事実からして、おかしい話である。

アラブ人は結局イベルア半島から追い出されたのだが、ポルトガルの歴史上では、コンキスタ、征服は勇ましい物語として残されている。アラブの世界の中で、幸福な生活していた人の多くの悲劇もあったはずだ。アルフレード・カイルのオペラ、「ドンナ・ブランカ」はたしかそういう悲劇の一つのようだ。もっとそれにまつわる悲劇を知りたい。

機会があってタヴィーラ、というアルガルベにある都市に何日か滞在した。そこも多くのイギリス人が休暇に来るところであって、ニュースでにぎわったイギリス人夫婦の幼い娘が失踪したところもこちらである。

タヴィーラは小さい町だが、しっかりとしたレストラン街がある。10以上ほどのレストランが狭い一地区に集まっている。インターネット情報を頼りに、ある30席ほどの小さいレストランに入った。

ブリーザ・ド・リオという名のレストランは、ポルトガルのよくある家庭、伝統料理をややモダンにアレンジした、旅行者でにぎわうところではよくありそうなレストランである。

幼い息子も連れていたので、19時前という早めの時間帯に入ったのでがらがらであったが、次第に満席になった。来る客は外国人も含めて常連客のようだ。

ここは自分にとって一番のレストランの一つの、イスタンブールのチヤに雰囲気が似ていた。すなわち、一流のおいしい物が食べられる正統派のレストランである。料理はアサリのカタプラーナという煮込み料理だったが、すばらしくおいしかった。

手順は簡単そうで、なかなうまくいかないのが料理だと思うが、アサリはともかく、たっぷりあったソースの中にあった豚肉は、こんなに完璧に調理されるものなのかと驚かされた。ソースは恥ずかしくなるくらい、パンですくっていただいた。味のバランスといい、料理を堪能する、とはこのことかと思わされる。

2013年1月8日火曜日

トニ

ポルトガルの名門クラブ、ベンフィカ・リスボンの元名選手であり、元名監督であり、ポルトガル代表チームの元監督であり、テレビのスポーツ番組ではご意見番としてよく出てくる人物に何度も会って、食事も共にし、ベンフィカのカテドラル、シュターディオ・ダ・ルーシュでは隣に座って試合観戦をしたという、奇妙だが貴重な体験をしたことがある。

アントニオ・オリヴェイラ氏、または一般に知られているトニ氏はいわば国民的英雄である。劇場の同僚の家主さん、という関係でオペラに何度も家族同伴で来ていただいた。
上演後の歌手やスタッフの食事会にも気軽に同伴し、まさしく普通の人のごとく、誰とでもいろいろ雑談ができる気さくな、人格者である。

食事会までの徒歩での道のりでは、少年グループに見つけられ「トーニ、トーニ」とシュプレヒコールを受けていた。何度も共にしたレストランでは隣に座ったとき、いろいろな話を自らしてくれた。ベンフィカでは選手としても監督としても2年に一度は常にタイトルを獲得してきたこと、選手時代は常に最後の力を振り絞って走りまくっていたこと(中盤のディフェンダーであった)、出身地はコインブラで実はベレネンセスのファンであったこと、中国のクラブを指揮したこともある話など、ベンフィカのファンなら感動するようなことを普通に話していた。

サッカーの試合にも劇場の同僚と共に誘っていただいた。ベンフィカの本拠地、ルーシュには一緒に行こう、と言ってもらい地下鉄の駅で待ち合わせをした。駅に着くと、出口の向こうにトニが普通に立って待っていた。シュターディオンまではそこから徒歩10分だが、さすがにいろいろなファンに話しかけられたり、サインを求められたり、記念写真をお願いされたりして時間がかかったが、常に普通に対応していた。驚くことに、嫌がらせに来たり、野次を飛ばすような人は全くいなかった。

シュターディオンの入り口は混雑していて、一人一人ボディーチェックが行われていたが、トニと一緒にいたのでそれは免除させてもらった。シュターディオンではスポーツカーの座席を模した、あるいは同じ物を使った席に座り、グラウンドがまさしく舞台に見えるすばらしい眺めであった。

当時のベンフィカは成績が芳しくなく、下位相手に苦戦していたが、ここぞとばかり隣に座るトニに質問を浴びせてしまった。ただの一ファンである自分の意見にも丁寧に答えてくれた。ひょっとして、こういう体験を毎週させてもらったらサッカーの監督になれそうな気がした。

前半が終わる5分前に席を立ってブッフェに行こう、とこっそり言ってきた。未だガラガラのホールで食事に手を付け始めたが、しばらくすると人でいっぱいになった。意外なことに、みな静かに話をし、よく競技場の観客席でみかける興奮状態の変な人はいなかった。

試合が終わったあとも、駅まで一緒に歩いてくれた。またいろいろなファンに足を止められあまり話はできなかったが、まさに国民に愛されているのがよくわかり、それに気さくに応じるトニ監督の人の良さも、印象深かった。

その後アラブのどこかのチームの監督に呼ばれたようで、試合も見せてもらったのもオペラに来てもらったのもそれっきりになってしまったが、今でも時々テレビにコメンテーターとして出てくる。


2012年12月18日火曜日

ヨーロッパとポルトガル

ブログは、なぜか手持ちのipadではエラーがでて更新できないでいた。家のコンピュータでは問題なくできたはずなのだが、息子が常にそばにいるのでなかなか何かをゆっくり書くことができない。息子にとって、コンピュータ、すなわちユーチューブはヴィデオの宝庫であって、観たいものをその場で選んで観れる、そういう類いの「物」だ。テレビなんて全然観ない。自分が観たいヴィデオをいつでも、好きなときに選ぶ。言語なんてごちゃごちゃで、日本語やポルトガル語、スペイン語や英語などおかまいなし、トルコやアラブ語のヴィデオも観るときがある。自分が小さいときは、日々のテレビ番組の時間に生活を合わせていたような気がするので、立場が逆転している。

この国、すなわち「我が」国ポルトガルは異様な雰囲気になってきている。いままで自分の収入なんぞは国の豊かさや経済的な動きとは全く無関係で、経済危機など身近に感じることはないと思っていた。しかし、トロイカ政策やらでここ数年公務員対象に給料カットがはじまり、ここ2年給料の10パーセントにさらに年に2月分でていたボーナスも全額カット、となるとかなり身にしみてくる。最低の年、と思われた2011、2年より来年さらに大幅な税金アップとなると、生活費をまかなえなくなってくる人はどうするのだろうか。ポルトガル人はオーストリア人などと違って蓄えをするような生き方をしてきた国民ではない。家賃や光熱費など、払えなくなってきたら払わないままほおっておく、そういうスタンスである。

かなりの蓄えのある人にとっては、投資のフリーパス状態の大チャンスである。いつの日か、人がまた正常に給料がもらえる日が来て払える物を払えるようになるのだろうが、その未来の日に儲けるのは今日、投資する人たちである。これがもともとこの国の問題であった、貧富の差をさらに広げることになるのは火を見るより明らかだ。

70年代の革命は多くのポルトガル人にとって誇りである。民衆の力によって自分たちの国を動かせた事実が自信になっているように思える。

今回の大ピンチはしかし、直接の原因になっている対象が国内にない。ヨーロッパ同盟、すなわちEUの政治を相手にしてはいまのところ、全く発言力も影響力もないので、言われるままである。同盟に参加したときから、ポルトガルは最貧国の一つで地理的にも経済的にも不利な位置にいた。常にEU内で経済的援助を受ける立場で、今日の世界的経済危機にあって責任を取られている格好だ。個人的には、この膨大になった国の借金なぞはまず返済しきれないのではないかと思う。

もしかして、EUから出てしまうことになってしまうのだろうか。

2012年10月15日月曜日

息子の状態

息子は最近よくいく、海岸線での散策で歩きたがらない時がある。普段は元気な子供で、4月からもう熱にかかっていないくらい体の方も丈夫になってきたようである。親の心配事は常にTGAの手術後の経過で、年に一度の心エコーの診察では心配になってくるものである。急にしゃがみ込む動作はもしかして、大動脈の狭窄が原因ではないだろうか。

そういうわけで、急遽わが家の英雄である、ドットール・ルイ・アンジュス先生に診てもらうことになった。結果は、心臓の穴はほぼ完全にふさがっており、弱々しかった弁は元気に動いており、血の逆流もほんのわずかに認められるのみ、ということである。

前回の診察でも100点満点であったが、今回はさらに状態は良くなっているということである。歩きたがらない、疲れを見せるそぶりは心臓ではないから、心配しなくて良いと言われた。息子は、小児心臓外科の優等生である!

12月の、年に一回サンタクルス病院のスタッフに顔を合わせるクリスマス会では息子の成長ぶりを披露するのが楽しみである。そのイベントには、パパが音楽家として参加することになっている。それは、許される限りずっと続けていきたいものである。

2歳9ヶ月になろうとする息子は、言葉の方もだいぶんポルトガル語中心に発達してきたが、まだ学校での出来事を詳しく話せるくらいではない。「今日どっかイタイイタイした
か?」の質問には答えられるようになったきたが、「誰がやったの?」の問いには決まって好きな女の子の名前をいう。本当かどうかわからないが、「イタイイタイ」の箇所、挙げ句の果てには虫刺されのあとまで全部その女の子が原因ということなので、冗談なのかもしれない。転校先の学校の先生方は、日々の出来事を話してくれるが、親の直感で前の学校でのように都合のいいことを並べているのではないようだ。

夏休みの間、一度もうまくいかなかったトイレトレーニングが進んで、もう少しでオムツが取れるかもしれない、というところまで来た。学校ではオムツを使わずでいる。感謝である。

例の週末の散策では、決まって海岸線に沿って歩いて20分の子供用の遊び広場に向かう。そこでは女の子たちには何か吠えておどかし、学校の友達に会った時には追いかけっこが始まって親の手に負えなくなるくらい活発である。


2012年9月2日日曜日

ヴィゼウ、ダオ。

8月には何年ぶりかに休暇らしい休暇をとった。行き先は、リスボンから北東にクルマで3時間に位置する、ヴィゼウ市郊外のポヴォア・ダオという、ローマ帝国時代から存在するという、「人口30人以下」の小さな村だ。

というのは、この村は何世紀の間見捨てられた、無人の村だったのだが、最近になって中世の村を旅行者向けに再現したようだ。山に囲まれた村には10軒ほどの、石造りの美しい家が並んでいる。

そこには農業が行われていたり、家畜が飼われているわけではない。あくまで観光目的の村なので、プールやスポーツ設備があり、そして趣味のいい、かなり高級感にあふれるレストランが併設されている。

内部は建物そのものが中世のままなので、内壁の石畳は外壁と同じで、室内は薄暗いが巧みなデコレーションで、容易に素晴らしい雰囲気を醸し出すことに成功している。
やはり中世時代のキッチンを模倣した、グリル場がレストランの中央にあり、様子を眺めるばかりか、シェフのおばちゃんは気軽に会話にのってくれる。

ワインリストはいわゆる「地酒」を中心に豊富にある。早速silgueirosという、レストランから徒歩15分にある土地の白ワインを知ることになった。

注文の前からさっそくパン、オリーヴ、ヤギの生チーズにマメラードが出てくるのだが、これらはすっかりいつも食べ切ってしまうほど、非常に美味だ。聞けばこれらは一般に売られているものではなく、近くの無機栽培の農家で作られているものだという。
味にくせが全くない、正統派の、素朴な味である。

素朴な味はメニューにある、このダオ地方の料理にも当てはまる。素材を生かした、ストレートに美味しいものばかりである。大袈裟ではなく、一生こういう料理で生活してもいいくらいの、全くクセのない素晴らしいものだ。料理はこの地方特産の、真っ黒の土器に乗せられてくる。この土器をお土産に持って帰ったことは、言うまでもない。

こちらポルトガルで一人前を示す、「dose」というのはかなり曖昧な基準である。普通田舎では、1doseは十分2人で食べれる量だが、必ずしもそうではないことがある。この、ポヴォア・ダオのレストランの1doseは、妻と小さい息子に、かなりの量を食べる自分にも食べきれないくらいの量があった。

同じくらいかなりの量が出てくるのは、ポヴォア・ダオからクルマで20分の、ポルトガルの誇る美しい町、ヴィゼウの一番のレストランと評判の「コルティッソ」でもそうであった。2歳半の息子のためにいつも頼む野菜スープは、半リットルくらい出てきた。ここでも、評判に負けない印象的な料理を美味しくいただけた。

ヴィゼウには美しい街並みにふさわしい、美味しいものを食べられるレストランはいろいろあるのだろうが、この機会にミシェラン一つ星をもらったという、「ムラーリャ・セ」にも足を運んだ。そこでいただいた、子牛の煮込み料理は申し分のないものではあったが、こちらの「1dose」はまさに一人前であった。しかし、こういう旅行者向けの、どこかによそ行きの感があるレストランよりは、クルマで10キロ以下の徐行運転しかできない、古ローマ時代の道もたくさん残っているような村、ポヴォア・ダオでの食事の方が印象深かったことは確かである。

ちなみに値段の方は、これらのどのレストランでも「1dose」は昼10-15ユーロ、夜15ー20ユーロと、決して高いものではない。すなわち、またいつでも、何度でも足を運べられる。