アルガルベ州とでも言うのだろうか、ポルトガルの最南に位置する地方は、ヨーロッパ大陸の最南地のひとつでもある。サグレス市の海岸線に立てば天気がいい日は海の向こう側、アフリカ大陸が肉眼で確かに見える。
向こう側は、モロッコのはずで、あの特徴的なモスクの建物の尖った部分がはっきり確認できる。アラブ人による、全くの別世界が海の向こうにあるのだ。あんなのがみえたら、それはいつか行ってみたくなるに違いない。そんな意識がポルトガル人の大航海時代につながっていったのだろうか。
時代をさかのぼると、海の向こうの別世界は実はこちら側にも普通に存在していた。イベリア半島の半分は、モーロと呼ばれる、れっきとしたイスラム教のアラブ人が何世紀というかなり長い間支配していた。その名残は現在も存分にあり、建築物だったり、アラブ語の冠詞であるalがついた地名は無数にある。algarveもしかり。イギリス人旅行者を意識してか、地名をallgarveに変えよう、という真面目な動きがあったが、歴史の事実からして、おかしい話である。
アラブ人は結局イベルア半島から追い出されたのだが、ポルトガルの歴史上では、コンキスタ、征服は勇ましい物語として残されている。アラブの世界の中で、幸福な生活していた人の多くの悲劇もあったはずだ。アルフレード・カイルのオペラ、「ドンナ・ブランカ」はたしかそういう悲劇の一つのようだ。もっとそれにまつわる悲劇を知りたい。
機会があってタヴィーラ、というアルガルベにある都市に何日か滞在した。そこも多くのイギリス人が休暇に来るところであって、ニュースでにぎわったイギリス人夫婦の幼い娘が失踪したところもこちらである。
タヴィーラは小さい町だが、しっかりとしたレストラン街がある。10以上ほどのレストランが狭い一地区に集まっている。インターネット情報を頼りに、ある30席ほどの小さいレストランに入った。
ブリーザ・ド・リオという名のレストランは、ポルトガルのよくある家庭、伝統料理をややモダンにアレンジした、旅行者でにぎわうところではよくありそうなレストランである。
幼い息子も連れていたので、19時前という早めの時間帯に入ったのでがらがらであったが、次第に満席になった。来る客は外国人も含めて常連客のようだ。
ここは自分にとって一番のレストランの一つの、イスタンブールのチヤに雰囲気が似ていた。すなわち、一流のおいしい物が食べられる正統派のレストランである。料理はアサリのカタプラーナという煮込み料理だったが、すばらしくおいしかった。
手順は簡単そうで、なかなうまくいかないのが料理だと思うが、アサリはともかく、たっぷりあったソースの中にあった豚肉は、こんなに完璧に調理されるものなのかと驚かされた。ソースは恥ずかしくなるくらい、パンですくっていただいた。味のバランスといい、料理を堪能する、とはこのことかと思わされる。
2013年1月20日日曜日
2013年1月8日火曜日
トニ
ポルトガルの名門クラブ、ベンフィカ・リスボンの元名選手であり、元名監督であり、ポルトガル代表チームの元監督であり、テレビのスポーツ番組ではご意見番としてよく出てくる人物に何度も会って、食事も共にし、ベンフィカのカテドラル、シュターディオ・ダ・ルーシュでは隣に座って試合観戦をしたという、奇妙だが貴重な体験をしたことがある。
アントニオ・オリヴェイラ氏、または一般に知られているトニ氏はいわば国民的英雄である。劇場の同僚の家主さん、という関係でオペラに何度も家族同伴で来ていただいた。
上演後の歌手やスタッフの食事会にも気軽に同伴し、まさしく普通の人のごとく、誰とでもいろいろ雑談ができる気さくな、人格者である。
食事会までの徒歩での道のりでは、少年グループに見つけられ「トーニ、トーニ」とシュプレヒコールを受けていた。何度も共にしたレストランでは隣に座ったとき、いろいろな話を自らしてくれた。ベンフィカでは選手としても監督としても2年に一度は常にタイトルを獲得してきたこと、選手時代は常に最後の力を振り絞って走りまくっていたこと(中盤のディフェンダーであった)、出身地はコインブラで実はベレネンセスのファンであったこと、中国のクラブを指揮したこともある話など、ベンフィカのファンなら感動するようなことを普通に話していた。
サッカーの試合にも劇場の同僚と共に誘っていただいた。ベンフィカの本拠地、ルーシュには一緒に行こう、と言ってもらい地下鉄の駅で待ち合わせをした。駅に着くと、出口の向こうにトニが普通に立って待っていた。シュターディオンまではそこから徒歩10分だが、さすがにいろいろなファンに話しかけられたり、サインを求められたり、記念写真をお願いされたりして時間がかかったが、常に普通に対応していた。驚くことに、嫌がらせに来たり、野次を飛ばすような人は全くいなかった。
シュターディオンの入り口は混雑していて、一人一人ボディーチェックが行われていたが、トニと一緒にいたのでそれは免除させてもらった。シュターディオンではスポーツカーの座席を模した、あるいは同じ物を使った席に座り、グラウンドがまさしく舞台に見えるすばらしい眺めであった。
当時のベンフィカは成績が芳しくなく、下位相手に苦戦していたが、ここぞとばかり隣に座るトニに質問を浴びせてしまった。ただの一ファンである自分の意見にも丁寧に答えてくれた。ひょっとして、こういう体験を毎週させてもらったらサッカーの監督になれそうな気がした。
前半が終わる5分前に席を立ってブッフェに行こう、とこっそり言ってきた。未だガラガラのホールで食事に手を付け始めたが、しばらくすると人でいっぱいになった。意外なことに、みな静かに話をし、よく競技場の観客席でみかける興奮状態の変な人はいなかった。
試合が終わったあとも、駅まで一緒に歩いてくれた。またいろいろなファンに足を止められあまり話はできなかったが、まさに国民に愛されているのがよくわかり、それに気さくに応じるトニ監督の人の良さも、印象深かった。
その後アラブのどこかのチームの監督に呼ばれたようで、試合も見せてもらったのもオペラに来てもらったのもそれっきりになってしまったが、今でも時々テレビにコメンテーターとして出てくる。
2012年12月18日火曜日
ヨーロッパとポルトガル
ブログは、なぜか手持ちのipadではエラーがでて更新できないでいた。家のコンピュータでは問題なくできたはずなのだが、息子が常にそばにいるのでなかなか何かをゆっくり書くことができない。息子にとって、コンピュータ、すなわちユーチューブはヴィデオの宝庫であって、観たいものをその場で選んで観れる、そういう類いの「物」だ。テレビなんて全然観ない。自分が観たいヴィデオをいつでも、好きなときに選ぶ。言語なんてごちゃごちゃで、日本語やポルトガル語、スペイン語や英語などおかまいなし、トルコやアラブ語のヴィデオも観るときがある。自分が小さいときは、日々のテレビ番組の時間に生活を合わせていたような気がするので、立場が逆転している。
この国、すなわち「我が」国ポルトガルは異様な雰囲気になってきている。いままで自分の収入なんぞは国の豊かさや経済的な動きとは全く無関係で、経済危機など身近に感じることはないと思っていた。しかし、トロイカ政策やらでここ数年公務員対象に給料カットがはじまり、ここ2年給料の10パーセントにさらに年に2月分でていたボーナスも全額カット、となるとかなり身にしみてくる。最低の年、と思われた2011、2年より来年さらに大幅な税金アップとなると、生活費をまかなえなくなってくる人はどうするのだろうか。ポルトガル人はオーストリア人などと違って蓄えをするような生き方をしてきた国民ではない。家賃や光熱費など、払えなくなってきたら払わないままほおっておく、そういうスタンスである。
かなりの蓄えのある人にとっては、投資のフリーパス状態の大チャンスである。いつの日か、人がまた正常に給料がもらえる日が来て払える物を払えるようになるのだろうが、その未来の日に儲けるのは今日、投資する人たちである。これがもともとこの国の問題であった、貧富の差をさらに広げることになるのは火を見るより明らかだ。
70年代の革命は多くのポルトガル人にとって誇りである。民衆の力によって自分たちの国を動かせた事実が自信になっているように思える。
今回の大ピンチはしかし、直接の原因になっている対象が国内にない。ヨーロッパ同盟、すなわちEUの政治を相手にしてはいまのところ、全く発言力も影響力もないので、言われるままである。同盟に参加したときから、ポルトガルは最貧国の一つで地理的にも経済的にも不利な位置にいた。常にEU内で経済的援助を受ける立場で、今日の世界的経済危機にあって責任を取られている格好だ。個人的には、この膨大になった国の借金なぞはまず返済しきれないのではないかと思う。
もしかして、EUから出てしまうことになってしまうのだろうか。
この国、すなわち「我が」国ポルトガルは異様な雰囲気になってきている。いままで自分の収入なんぞは国の豊かさや経済的な動きとは全く無関係で、経済危機など身近に感じることはないと思っていた。しかし、トロイカ政策やらでここ数年公務員対象に給料カットがはじまり、ここ2年給料の10パーセントにさらに年に2月分でていたボーナスも全額カット、となるとかなり身にしみてくる。最低の年、と思われた2011、2年より来年さらに大幅な税金アップとなると、生活費をまかなえなくなってくる人はどうするのだろうか。ポルトガル人はオーストリア人などと違って蓄えをするような生き方をしてきた国民ではない。家賃や光熱費など、払えなくなってきたら払わないままほおっておく、そういうスタンスである。
かなりの蓄えのある人にとっては、投資のフリーパス状態の大チャンスである。いつの日か、人がまた正常に給料がもらえる日が来て払える物を払えるようになるのだろうが、その未来の日に儲けるのは今日、投資する人たちである。これがもともとこの国の問題であった、貧富の差をさらに広げることになるのは火を見るより明らかだ。
70年代の革命は多くのポルトガル人にとって誇りである。民衆の力によって自分たちの国を動かせた事実が自信になっているように思える。
今回の大ピンチはしかし、直接の原因になっている対象が国内にない。ヨーロッパ同盟、すなわちEUの政治を相手にしてはいまのところ、全く発言力も影響力もないので、言われるままである。同盟に参加したときから、ポルトガルは最貧国の一つで地理的にも経済的にも不利な位置にいた。常にEU内で経済的援助を受ける立場で、今日の世界的経済危機にあって責任を取られている格好だ。個人的には、この膨大になった国の借金なぞはまず返済しきれないのではないかと思う。
もしかして、EUから出てしまうことになってしまうのだろうか。
2012年10月15日月曜日
息子の状態
息子は最近よくいく、海岸線での散策で歩きたがらない時がある。普段は元気な子供で、4月からもう熱にかかっていないくらい体の方も丈夫になってきたようである。親の心配事は常にTGAの手術後の経過で、年に一度の心エコーの診察では心配になってくるものである。急にしゃがみ込む動作はもしかして、大動脈の狭窄が原因ではないだろうか。
そういうわけで、急遽わが家の英雄である、ドットール・ルイ・アンジュス先生に診てもらうことになった。結果は、心臓の穴はほぼ完全にふさがっており、弱々しかった弁は元気に動いており、血の逆流もほんのわずかに認められるのみ、ということである。
前回の診察でも100点満点であったが、今回はさらに状態は良くなっているということである。歩きたがらない、疲れを見せるそぶりは心臓ではないから、心配しなくて良いと言われた。息子は、小児心臓外科の優等生である!
12月の、年に一回サンタクルス病院のスタッフに顔を合わせるクリスマス会では息子の成長ぶりを披露するのが楽しみである。そのイベントには、パパが音楽家として参加することになっている。それは、許される限りずっと続けていきたいものである。
2歳9ヶ月になろうとする息子は、言葉の方もだいぶんポルトガル語中心に発達してきたが、まだ学校での出来事を詳しく話せるくらいではない。「今日どっかイタイイタイした
か?」の質問には答えられるようになったきたが、「誰がやったの?」の問いには決まって好きな女の子の名前をいう。本当かどうかわからないが、「イタイイタイ」の箇所、挙げ句の果てには虫刺されのあとまで全部その女の子が原因ということなので、冗談なのかもしれない。転校先の学校の先生方は、日々の出来事を話してくれるが、親の直感で前の学校でのように都合のいいことを並べているのではないようだ。
夏休みの間、一度もうまくいかなかったトイレトレーニングが進んで、もう少しでオムツが取れるかもしれない、というところまで来た。学校ではオムツを使わずでいる。感謝である。
例の週末の散策では、決まって海岸線に沿って歩いて20分の子供用の遊び広場に向かう。そこでは女の子たちには何か吠えておどかし、学校の友達に会った時には追いかけっこが始まって親の手に負えなくなるくらい活発である。
そういうわけで、急遽わが家の英雄である、ドットール・ルイ・アンジュス先生に診てもらうことになった。結果は、心臓の穴はほぼ完全にふさがっており、弱々しかった弁は元気に動いており、血の逆流もほんのわずかに認められるのみ、ということである。
前回の診察でも100点満点であったが、今回はさらに状態は良くなっているということである。歩きたがらない、疲れを見せるそぶりは心臓ではないから、心配しなくて良いと言われた。息子は、小児心臓外科の優等生である!
12月の、年に一回サンタクルス病院のスタッフに顔を合わせるクリスマス会では息子の成長ぶりを披露するのが楽しみである。そのイベントには、パパが音楽家として参加することになっている。それは、許される限りずっと続けていきたいものである。
2歳9ヶ月になろうとする息子は、言葉の方もだいぶんポルトガル語中心に発達してきたが、まだ学校での出来事を詳しく話せるくらいではない。「今日どっかイタイイタイした
か?」の質問には答えられるようになったきたが、「誰がやったの?」の問いには決まって好きな女の子の名前をいう。本当かどうかわからないが、「イタイイタイ」の箇所、挙げ句の果てには虫刺されのあとまで全部その女の子が原因ということなので、冗談なのかもしれない。転校先の学校の先生方は、日々の出来事を話してくれるが、親の直感で前の学校でのように都合のいいことを並べているのではないようだ。
夏休みの間、一度もうまくいかなかったトイレトレーニングが進んで、もう少しでオムツが取れるかもしれない、というところまで来た。学校ではオムツを使わずでいる。感謝である。
例の週末の散策では、決まって海岸線に沿って歩いて20分の子供用の遊び広場に向かう。そこでは女の子たちには何か吠えておどかし、学校の友達に会った時には追いかけっこが始まって親の手に負えなくなるくらい活発である。
2012年9月2日日曜日
ヴィゼウ、ダオ。
8月には何年ぶりかに休暇らしい休暇をとった。行き先は、リスボンから北東にクルマで3時間に位置する、ヴィゼウ市郊外のポヴォア・ダオという、ローマ帝国時代から存在するという、「人口30人以下」の小さな村だ。
というのは、この村は何世紀の間見捨てられた、無人の村だったのだが、最近になって中世の村を旅行者向けに再現したようだ。山に囲まれた村には10軒ほどの、石造りの美しい家が並んでいる。
そこには農業が行われていたり、家畜が飼われているわけではない。あくまで観光目的の村なので、プールやスポーツ設備があり、そして趣味のいい、かなり高級感にあふれるレストランが併設されている。
内部は建物そのものが中世のままなので、内壁の石畳は外壁と同じで、室内は薄暗いが巧みなデコレーションで、容易に素晴らしい雰囲気を醸し出すことに成功している。
やはり中世時代のキッチンを模倣した、グリル場がレストランの中央にあり、様子を眺めるばかりか、シェフのおばちゃんは気軽に会話にのってくれる。
ワインリストはいわゆる「地酒」を中心に豊富にある。早速silgueirosという、レストランから徒歩15分にある土地の白ワインを知ることになった。
注文の前からさっそくパン、オリーヴ、ヤギの生チーズにマメラードが出てくるのだが、これらはすっかりいつも食べ切ってしまうほど、非常に美味だ。聞けばこれらは一般に売られているものではなく、近くの無機栽培の農家で作られているものだという。
味にくせが全くない、正統派の、素朴な味である。
素朴な味はメニューにある、このダオ地方の料理にも当てはまる。素材を生かした、ストレートに美味しいものばかりである。大袈裟ではなく、一生こういう料理で生活してもいいくらいの、全くクセのない素晴らしいものだ。料理はこの地方特産の、真っ黒の土器に乗せられてくる。この土器をお土産に持って帰ったことは、言うまでもない。
こちらポルトガルで一人前を示す、「dose」というのはかなり曖昧な基準である。普通田舎では、1doseは十分2人で食べれる量だが、必ずしもそうではないことがある。この、ポヴォア・ダオのレストランの1doseは、妻と小さい息子に、かなりの量を食べる自分にも食べきれないくらいの量があった。
同じくらいかなりの量が出てくるのは、ポヴォア・ダオからクルマで20分の、ポルトガルの誇る美しい町、ヴィゼウの一番のレストランと評判の「コルティッソ」でもそうであった。2歳半の息子のためにいつも頼む野菜スープは、半リットルくらい出てきた。ここでも、評判に負けない印象的な料理を美味しくいただけた。
ヴィゼウには美しい街並みにふさわしい、美味しいものを食べられるレストランはいろいろあるのだろうが、この機会にミシェラン一つ星をもらったという、「ムラーリャ・セ」にも足を運んだ。そこでいただいた、子牛の煮込み料理は申し分のないものではあったが、こちらの「1dose」はまさに一人前であった。しかし、こういう旅行者向けの、どこかによそ行きの感があるレストランよりは、クルマで10キロ以下の徐行運転しかできない、古ローマ時代の道もたくさん残っているような村、ポヴォア・ダオでの食事の方が印象深かったことは確かである。
ちなみに値段の方は、これらのどのレストランでも「1dose」は昼10-15ユーロ、夜15ー20ユーロと、決して高いものではない。すなわち、またいつでも、何度でも足を運べられる。
というのは、この村は何世紀の間見捨てられた、無人の村だったのだが、最近になって中世の村を旅行者向けに再現したようだ。山に囲まれた村には10軒ほどの、石造りの美しい家が並んでいる。
そこには農業が行われていたり、家畜が飼われているわけではない。あくまで観光目的の村なので、プールやスポーツ設備があり、そして趣味のいい、かなり高級感にあふれるレストランが併設されている。
内部は建物そのものが中世のままなので、内壁の石畳は外壁と同じで、室内は薄暗いが巧みなデコレーションで、容易に素晴らしい雰囲気を醸し出すことに成功している。
やはり中世時代のキッチンを模倣した、グリル場がレストランの中央にあり、様子を眺めるばかりか、シェフのおばちゃんは気軽に会話にのってくれる。
ワインリストはいわゆる「地酒」を中心に豊富にある。早速silgueirosという、レストランから徒歩15分にある土地の白ワインを知ることになった。
注文の前からさっそくパン、オリーヴ、ヤギの生チーズにマメラードが出てくるのだが、これらはすっかりいつも食べ切ってしまうほど、非常に美味だ。聞けばこれらは一般に売られているものではなく、近くの無機栽培の農家で作られているものだという。
味にくせが全くない、正統派の、素朴な味である。
素朴な味はメニューにある、このダオ地方の料理にも当てはまる。素材を生かした、ストレートに美味しいものばかりである。大袈裟ではなく、一生こういう料理で生活してもいいくらいの、全くクセのない素晴らしいものだ。料理はこの地方特産の、真っ黒の土器に乗せられてくる。この土器をお土産に持って帰ったことは、言うまでもない。
こちらポルトガルで一人前を示す、「dose」というのはかなり曖昧な基準である。普通田舎では、1doseは十分2人で食べれる量だが、必ずしもそうではないことがある。この、ポヴォア・ダオのレストランの1doseは、妻と小さい息子に、かなりの量を食べる自分にも食べきれないくらいの量があった。
同じくらいかなりの量が出てくるのは、ポヴォア・ダオからクルマで20分の、ポルトガルの誇る美しい町、ヴィゼウの一番のレストランと評判の「コルティッソ」でもそうであった。2歳半の息子のためにいつも頼む野菜スープは、半リットルくらい出てきた。ここでも、評判に負けない印象的な料理を美味しくいただけた。
ヴィゼウには美しい街並みにふさわしい、美味しいものを食べられるレストランはいろいろあるのだろうが、この機会にミシェラン一つ星をもらったという、「ムラーリャ・セ」にも足を運んだ。そこでいただいた、子牛の煮込み料理は申し分のないものではあったが、こちらの「1dose」はまさに一人前であった。しかし、こういう旅行者向けの、どこかによそ行きの感があるレストランよりは、クルマで10キロ以下の徐行運転しかできない、古ローマ時代の道もたくさん残っているような村、ポヴォア・ダオでの食事の方が印象深かったことは確かである。
ちなみに値段の方は、これらのどのレストランでも「1dose」は昼10-15ユーロ、夜15ー20ユーロと、決して高いものではない。すなわち、またいつでも、何度でも足を運べられる。
2012年8月1日水曜日
バイク
息子は外を歩いていて、バイクが通るたびに「モータ!おおきいモータ!」などと興奮して叫ぶ。おもちゃのミニバイクも3つも持っていて、バイクのどこのなにが好きなのかわからないが、そこらに駐車しているバイクには上に乗っかろうとして親を困らせる。
最近、ふとバイクというものはどのくらいの値段で変えるのかなと思ってインターネットでいろいろ見ていたら、なんと125ccまでのバイクは普通の自動車免許で乗れる、ということに3年前からなっているというではないか。
自分は20歳のときに自動車免許を取った。今現在、クルマは欠かせない生活の一部であることを思うと賢明な判断だったが、バイクの免許に関しては、B免許と同時に取得するのが普通だが、なぜか最初から取るつもりはなかった。ウィーンで一時期50ccの原付に乗っていたことがあったが、それもA免許は必要なかった。
道上からクルマを減らすべく、政府による環境や渋滞問題の解決案の一つであろうが、50ccと違い、125ccのバイクは半端ではない100キロ以上のスピードが出る。赤信号での停車状態から始まる、おなじみのヨーイドンではぶっちぎりでどんなクルマをも置き去りにする。カーブの走行や、ブレーキの仕方など未経験者にとってはわからないことばかりである。本来なら、何時間かの教習が必要だろう。
値段も、少々無理すれば届くところにあるではないか。雨の日の走行は危険という前に、ずぶぬれ状態になり走行後の行動に支障が出そうだ。それは差し引いて、市内では駐車や渋滞問題が解決し、それどころか150キロ離れたエヴォラまでも使えるではないか。それからずっとインターネット上での勉強が始まった。誰もが経験することであろうが、125ccに関しては知らないことはない、というところまで探求してしまった。
バイクの世界には、これまで一度も興味を持ったことがなかったが、クルマに比べて色、種類やデザインも豊富にあり、身につけるものも伴ってヘルメットやら何やらで、無限のごとく存在する。ヘルメット一つにしても、40ユーロのものから800ユーロもするのまである。防具の一つにすぎず、有効期間も5年というヘルメットに800ユーロも出費する人がいること自体、驚きである。バイクに夢中になる人の理由がわかったような気がした。
ウィーンで50ccの、ペダル付きでむしろ自転車に近いような原付バイクを乗っていたときは、乗ったときの自分の格好など全然考えていなかった。ヘルメットは一番安く、店内にあったサイズのものを買ったし、手袋は手元にあった、スキー用のを使っていた。時々道中でこちらを見て笑う人が少なからずいたが、今から思うと恥ずかしい格好をしていたものである。
最近、ふとバイクというものはどのくらいの値段で変えるのかなと思ってインターネットでいろいろ見ていたら、なんと125ccまでのバイクは普通の自動車免許で乗れる、ということに3年前からなっているというではないか。
自分は20歳のときに自動車免許を取った。今現在、クルマは欠かせない生活の一部であることを思うと賢明な判断だったが、バイクの免許に関しては、B免許と同時に取得するのが普通だが、なぜか最初から取るつもりはなかった。ウィーンで一時期50ccの原付に乗っていたことがあったが、それもA免許は必要なかった。
道上からクルマを減らすべく、政府による環境や渋滞問題の解決案の一つであろうが、50ccと違い、125ccのバイクは半端ではない100キロ以上のスピードが出る。赤信号での停車状態から始まる、おなじみのヨーイドンではぶっちぎりでどんなクルマをも置き去りにする。カーブの走行や、ブレーキの仕方など未経験者にとってはわからないことばかりである。本来なら、何時間かの教習が必要だろう。
値段も、少々無理すれば届くところにあるではないか。雨の日の走行は危険という前に、ずぶぬれ状態になり走行後の行動に支障が出そうだ。それは差し引いて、市内では駐車や渋滞問題が解決し、それどころか150キロ離れたエヴォラまでも使えるではないか。それからずっとインターネット上での勉強が始まった。誰もが経験することであろうが、125ccに関しては知らないことはない、というところまで探求してしまった。
バイクの世界には、これまで一度も興味を持ったことがなかったが、クルマに比べて色、種類やデザインも豊富にあり、身につけるものも伴ってヘルメットやら何やらで、無限のごとく存在する。ヘルメット一つにしても、40ユーロのものから800ユーロもするのまである。防具の一つにすぎず、有効期間も5年というヘルメットに800ユーロも出費する人がいること自体、驚きである。バイクに夢中になる人の理由がわかったような気がした。
ウィーンで50ccの、ペダル付きでむしろ自転車に近いような原付バイクを乗っていたときは、乗ったときの自分の格好など全然考えていなかった。ヘルメットは一番安く、店内にあったサイズのものを買ったし、手袋は手元にあった、スキー用のを使っていた。時々道中でこちらを見て笑う人が少なからずいたが、今から思うと恥ずかしい格好をしていたものである。
2012年7月6日金曜日
停滞
ポルトガルに来て仕事するようになって、早いもので既に8年になる。
しかし残念ながら、仕事に関しては全く何も、自分が以前思い描いてきたようなことが成し遂げられていない。
何が原因なのか、常に解明しようとつとめているのだが、状況は自分の感覚では何もいい方向に変わってきていない。
一人の音楽家として、謙虚に努力する姿勢はなくさないようにしようと思うし、なるべく停滞の原因は自分自身にあるとして改善してきたつもりである。
しかし、もう8年もの自分には長過ぎる年月が経ち、そろそろ原因を自分の外にある事実を意識するようになってきた。
音楽家として、たいしたキャリアを積んできた訳ではないが、それでもこれまで9つの異なる国で活動してきた。要するに、プロの音楽家としてお金をもらった国の数が、「9」になる。ちなみに指揮者として、プロのオーケストラを振った経験は、8つの国だ。日本はまだない。
今日はっきり言えることは、ポルトガルでの仕事ほど、自分という一人の小さい芸術家が軽く見られたことはなかった。初めてポルトガルに行ったのは1995年、ポルト市での国際ピアノコンクールへの参加で、2度目は2000年のフィゲイラ・ダ・フォシュ市での、故アチェル先生の指揮のマスタークラスである。
95年のポルトではピアニストして最悪の経験の一つで、2000年はルーマニアのオケであった。コンサートでも指揮したが、企画の方は全くまともに計画されておらず、アチェル氏は危ういところで全て投げ出しそうになった。観客は20人ほどであった。
同じように、2004年から始めたリスボンのオペラ劇場での仕事も、音楽家としての脚光を浴びることはいっさいなかった。2007年から始めたジナジオオペラの仕事では観客を前にスポットライトを浴びることが多くなったが、どのようないい仕事をしたつもりでも、それらが認められて新たな仕事が舞ってくることはなかった。
自分の実力不足は承知の上である。足りない部分が何かもよくわかっている。しかし、微力ながら何かを少しでも動かすことはできないのだろうか。この国では、何かのアクションを起こそうとするとまず嘲笑され、次に欠陥部分を誇張され負のイメージを売られるのが常である!
コンサートでは、フレーズをどれだけきれいに歌おうが、オーケストラがどれだけ均一の取れた響きを披露しようが、逆にいい加減に楽器をたたいていようが、いいものも、悪いものもどうやら無関心でいるようである。別にいい音楽を聴けても聴けなくてもどうでもいい、という空気が流れている。あそこの、あの部分が本当にすばらしかった、という反応は夢の世界にしかないのだろうか。
これは音楽家にとってあまりに悲しい現実ではないだろうか。確かに、ポルトガル人からはここの音楽界は貧相で、将来的に何も期待できないよ、と初めて土地を踏み入れた1995年から常に言われ続けてきたが、それを認めたくない自分があり、何とか自分の力でどうにかしたい、という自負心があった。今、ここで書いたような意見もずっと、いろいろな方面からいやというくらい聞いてきた。
そういう土地で、8年のも長い年月にわたって生活してきたのは、人生は音楽だけではない、ということにつきる。人生は家族でもあり、子供の教育、将来でもある。
自分はそれでも、これからも続けてこの国、ポルトガルで生活する。人生は皮肉なものである。
しかし残念ながら、仕事に関しては全く何も、自分が以前思い描いてきたようなことが成し遂げられていない。
何が原因なのか、常に解明しようとつとめているのだが、状況は自分の感覚では何もいい方向に変わってきていない。
一人の音楽家として、謙虚に努力する姿勢はなくさないようにしようと思うし、なるべく停滞の原因は自分自身にあるとして改善してきたつもりである。
しかし、もう8年もの自分には長過ぎる年月が経ち、そろそろ原因を自分の外にある事実を意識するようになってきた。
音楽家として、たいしたキャリアを積んできた訳ではないが、それでもこれまで9つの異なる国で活動してきた。要するに、プロの音楽家としてお金をもらった国の数が、「9」になる。ちなみに指揮者として、プロのオーケストラを振った経験は、8つの国だ。日本はまだない。
今日はっきり言えることは、ポルトガルでの仕事ほど、自分という一人の小さい芸術家が軽く見られたことはなかった。初めてポルトガルに行ったのは1995年、ポルト市での国際ピアノコンクールへの参加で、2度目は2000年のフィゲイラ・ダ・フォシュ市での、故アチェル先生の指揮のマスタークラスである。
95年のポルトではピアニストして最悪の経験の一つで、2000年はルーマニアのオケであった。コンサートでも指揮したが、企画の方は全くまともに計画されておらず、アチェル氏は危ういところで全て投げ出しそうになった。観客は20人ほどであった。
同じように、2004年から始めたリスボンのオペラ劇場での仕事も、音楽家としての脚光を浴びることはいっさいなかった。2007年から始めたジナジオオペラの仕事では観客を前にスポットライトを浴びることが多くなったが、どのようないい仕事をしたつもりでも、それらが認められて新たな仕事が舞ってくることはなかった。
自分の実力不足は承知の上である。足りない部分が何かもよくわかっている。しかし、微力ながら何かを少しでも動かすことはできないのだろうか。この国では、何かのアクションを起こそうとするとまず嘲笑され、次に欠陥部分を誇張され負のイメージを売られるのが常である!
コンサートでは、フレーズをどれだけきれいに歌おうが、オーケストラがどれだけ均一の取れた響きを披露しようが、逆にいい加減に楽器をたたいていようが、いいものも、悪いものもどうやら無関心でいるようである。別にいい音楽を聴けても聴けなくてもどうでもいい、という空気が流れている。あそこの、あの部分が本当にすばらしかった、という反応は夢の世界にしかないのだろうか。
これは音楽家にとってあまりに悲しい現実ではないだろうか。確かに、ポルトガル人からはここの音楽界は貧相で、将来的に何も期待できないよ、と初めて土地を踏み入れた1995年から常に言われ続けてきたが、それを認めたくない自分があり、何とか自分の力でどうにかしたい、という自負心があった。今、ここで書いたような意見もずっと、いろいろな方面からいやというくらい聞いてきた。
そういう土地で、8年のも長い年月にわたって生活してきたのは、人生は音楽だけではない、ということにつきる。人生は家族でもあり、子供の教育、将来でもある。
自分はそれでも、これからも続けてこの国、ポルトガルで生活する。人生は皮肉なものである。
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