2011年10月14日金曜日

警察国家

オーストリアはまぎれもない警察国家である。
特に外国人に対しては差別なしに露骨な応対をするのが常だ。

そもそも、オーストリア国民はアメリカ人以外の外国人の存在自体をよく思っていないので、極端に言えば国内では常にオーストリア人と非オーストリア人との冷戦状態だ。
政府もそれに沿った政治をしているのは言うまででもない。それらの政治家はあのハイダーを排斥した人たちである。

こちらポルトガルでは現在自分と何らかのオーストリア国籍人の接触は皆無だが、一度、オペラ劇場内で在ポルトガルオーストリア大使に挨拶したことがある。こちらからは丁重に挨拶したつもりだったが、老チロル人大使はこちらを見るなり「Koreaner?」とだけ聞いてきたのでびっくりした。話しかけたこと自体が恥ずかしくなった。自分にとってはオーストリアでの経験は人生のほぼ全てだが、非オーストリア人である事実はかわらないのでよけいなときに下手に口をすべらすべきではない、という教訓になった。

最近我がシトロエン車が2回盗難にあった。車内のものを盗む目的だったので、3角形の小窓を破られ車内を荒らされただけで、クルマ自体は盗まれなかった。2回とも警察を呼ぶという経験をさせてもらった。

実はオーストリアでも2度同じようなことがあった。窓を割られたのは盗難ではなく、明らかに非オーストリア人に対する嫌がらせであった。

1度目は警察を呼んだところ、逆にそのまま警察署まで連行され、自分の生活のことをあれこれ詳しく聞かれた。パトカーに乗った経験は今までの人生でこの一度だけである。質問が終わると、家に帰っていいという。徒歩で30分ほどの距離だ。

2度目は朝の4時に家に警察から突然電話がかかってきた。クルマの窓が割られている、という。あわてて起きていって見るとパトカーが止まっていて何か中のものを盗られたか聞いてくる。盗られるものは中にないが、駐車している前の建物の住人のいやがらせだ、というようなことを言ったらそれ以外のことは何もなく、立ち去った。

ドイツでは一度ケルンの空港で早朝時間つぶしにぶらぶらしていたら警察に呼び止められた。
その頃はイスタンブルに滞在していたので、飛行機はトルコ発で到着は朝の6時半というものだった。ケルンではオーディションを受けに1泊の滞在だったので荷物はリュックサックのみの不審ないでたちだ。出発は夜の2時だったので実際ろくに寝ていなかったし、実はぶらぶらだけではなくベンチに横になって休んでいたりしていた。
何をしているのか、と聞いてくる。

提示したパスポートはほぼ新品で日本出入国の形跡がなく、当然ドイツの滞在ビザもない。早速なぜドイツ語が話せるのか聞いてきた。自分にとっても興味深いシチュエーションだったが、いちいち自分のことを説明する意欲がわかなかったのでそれ以外は黙っていた。それでも警察は根掘り葉掘り聞いてこず、パスポートのチェックだけをした。向こうがこちらのこと興味津々というのは相手の目を見たらよくわかったが、やはり職務上必要以上のことは聞くべきではないだろう。
同じ状況でオーストリアだったらどうなっていただろうか。

ポルトガルの警察は普通に応対する。よって、この国では普通の人間として生きていける気がする。先日40数年ほど逃亡生活をしていたアメリカ人の死刑囚がポルトガルで逮捕された。ポルトガルでは普通に結婚し、子供も一人いて、20年ほど普通に生活をしていたという。驚くべきことだ。

2011年9月18日日曜日

アデノイドとチューブ留置の手術

中耳炎が慢性的になっていた息子の耳の手術がついにおこなわれた。予定通り、寒くなりインフルエンザがはやる時期になる前の手術である。また全身麻酔だ。
予定というが、最初診察を受け手術の話になっていたサンタマリア病院では、担当の医師の感じからあまり信頼感が得られず、セカンドオピニオンとして平行して診察を受けていたドットール・ザガロ先生に、所属する私立のルジーアダ病院を通じてお願いすることにした。
私立病院ということもあって応対はホテルのようであり、個室もそもそも車いすで容易に通れるようになっているのでかなり広い。幼児の付き添いということでヨメだけが一緒に泊まることになったが、部屋にあるソファは簡易ベットにもありその準備もスタッフにしてもらった。
もともと病院での息子の付き添いという面ではもう経験がある夫婦二人である。自分の頭の中では旅行者のように以前の病院との比較をしていた。
肝心の手術の方は前のTGAのとは天と地の違いがあるが、ベットに乗せられた息子を送り出すシーンは頭の中の深いところに刻み込まれているスイッチ手術のときのイメージと全く同じであった。そもそも父親である自分は手術に立ち会う訳でなく、ただ外で待っているだけなので悲惨な気分は同じであった。
手術は簡単なものという、鼓膜のチューブ留置とアデノイド除去である。
手術は無事に終わり、呼ばれて対面してみると息子は泣いて叫んでいてかなり気分が悪いらしい。鼻血も出しているし、咳も止まらない。アデノイドがない咳は音が違い、もっと枯れた響きがする。わんわんや飛行機だなどとうそついて気を散らそうとしたら、聞こえるらしく目を開けて反応して、そのうちこくんを眠りについてしまった。
その日やその次の日の息子は予備知識にあったように機嫌が悪く、その割に常にだっこを要求された。術後の経過も良いようで、これからの生活面での注意点や次の診察のことなども先生自らやってきてくれて話をしてくれた。
夜中の「悪魔の時間」の咳き込みはあったりなかったりで手術の効果はまだわからない。中耳炎のこともこれでよし、という訳ではなく改善される効果もで50%くらいの確率という。

2011年9月11日日曜日

フェスタ ド アヴァンテ 2011

2度目の「フェスタ」のオープニングコンサート、オペラガラコンサートは一言で済ませば、誰もから認められた最上の出来だった。細かく舞台裏の出来事を書こうとすると、いつまでたっても終わらない気がする。

今のところ、指揮をする機会は年2、3のペースなので次回いつそういうチャンスがあるかわからないが、指揮そのものの仕事は相変わらずやっていて楽しいと思った。

音楽以外の部分、実際のリハーサルなどではないそれ以外での人とのコムニケーション、政治的な役割、などでの負担は大きく、企画の段階でなかなか思い通りにいかずなぜ自分がこのコンサートを指揮しないといけないのか自問していた。今回の仕事は6月から始めたので3ヶ月間、いろんな人と賛同しながら仕事を進めるのはかなり大変だった。

今回指揮そのものがうまくいかないようならもう指揮というものは金輪際やめようと決めていた。それより、途中でもうやめようとも何度も思った。

今回のような2万人を前にしたコンサートでは何人もの人が仕切りたがる。自分もそのうちの一人だったのだが、そのような人たちとは衝突なしては会話できず、最終的には妥協した形になった。自分がマネージャーとして今回の仕事のために連れてきた人も最初は協力的だったがそのうち逆に恨まれてるようにまで関係が悪化してしまい、思うように動いてもらえなかった。

コンサートは一目では華やかに見えて、舞台裏で何が起こっているか知っている人はごくわずか。自分に求心力がないせいで、何もかもに妥協したようになった、コンサートで指揮する自分の姿は舞台で踊らせられるマリオネットのように感じて屈辱的な気分にまでなった。

新聞に批評がでた。何もかもほめてもらった。かといって、これからの指揮の活動が活発になる訳でも全くないし、自分には笑みはあまりない。

指揮そのものより、それ以前、それ以外の克服すべきハードルが高く、自分自身の無力さを大いに感じさせられる今回の仕事だった。

2011年8月3日水曜日

心筋梗塞

記憶に新しいワールドカップの元サッカー日本代表の選手が心筋梗塞で倒れたとあり、新聞にはその説明が載っていた。冠状動脈なり、カテーテル治療なり聞き慣れた言葉がいろいろ出てきた。息子は冠動脈の移転手術もしたし、カテーテル治療もした。心肺停止も、人工心肺も手術の際経験した。

息子はこれからも常に肺動脈狭窄症の可能性がある。肺動脈弁と大動脈弁が逆についていてそのまま代用として使われているのでどうしても将来負担がかかり、動脈弁閉鎖不全などの異常が起こるというものだ。

幸いなことに、それ以来はカテーテル手術はしなくてもいい状態にあるが、心室中隔欠損症はまだ小さく残っているし、肺動脈弁も100パーセント閉鎖していない。それでも、先日のルイ アンジュス先生の診断では、肺動脈狭窄もなし、大動脈弁逆流もなしで100点満点をもらった。何でも普通にしてていい、ということだが、家では左足でボールを思い切りけとばすのを日課にしている息子だ。将来サッカーをしたい、と言われればどう対処していけばいいのだろうか。サッカー選手の心臓はおそらく酷使されたことによる動脈硬化で、冠動脈が詰まってしまっているという。そう出なくても、一般成人の生活内で、高血圧、肥満、喫煙などのキーワードは動脈硬化を導くものにあるという。心筋梗塞は息子にとって特に40代から常に意識してほしいものである。

2011年7月29日金曜日

ブルックナー

子供のときどうしても欲しかった、ヨッフム指揮ドレスデン管弦楽団のブルックナーの交響曲全集。当時はいくら探してもなかなかなくて、家には8番だけ持っていて大切に何度も聴いていた。今は廉価版で全集が30ユーロであったので懐かしい思いで早速買った。今聴くと、旧東ドイツのオーケストラは、すばらしいあの有名な金管はいいのだが、いかにもつまらなそうに雑な演奏する弦楽、特にヴァイオリンは気分が悪くなるくらいで10分もするともう聴きたくなくなる。
オーストリアの音楽と言えば、自分にとってはブルックナーの音楽である。Halb ein Gott, halb ein Trottlとはマーラーがブルックナーについて語った言葉だが、30をすぎてから本格的に対位法を学び始め、40代からようやく大きな曲を書き始めた。職にも就いていて生活にも困っていなかった人にいったい、どういう動機があったのだろうか?

2011年7月27日水曜日

長いシーズン

長いシーズンがやっと終わった。今年は特に収穫もない、疲れる1年だったと感じる。来年度からは、思い切って環境を変えていかないといけないかもしれない。9月には2年ぶりの「フェスタ ド アヴァンテ」があるが、それも終われば4、5年かかわってきたジナジオオペラでの役割も終わりにしたいと思う。
オペラ劇場での仕事は年々つらくなってきた。ウィーン時代の2002年にはいろいろなことがあり環境ががらりと変わったが、ぜひもう一度そうなってほしいものだ。

2011年7月19日火曜日

中耳炎の手術

TGAという先天性の心臓疾患を持って生まれた息子は生後11日で根治手術を受け、それからは心臓に関しては心配することなく、順調な成長を遂げはや1歳6ヶ月になる。
保育園にも8ヶ月から通っていて同年代の仲間や、おもちゃでの遊びなど親が見ていないところでもいろいろなことを学んでいるようだが、同時にこの時期にかかるべき病気にはすべて感染してきている。体に赤い斑点ができたり、舌に異常なできものができたり、熱が出たりという感じだが、いつまでたっても治らないものがある。
中耳炎と夜中の睡眠中に襲う咳の発作だ。咳の方は毎日夜の12時あたりに決まったように始まり、まるで悪魔に襲われるかのようにひどい咳が急に始まり、収まるまで5ー10分ほどかかる。いろいろなこと、その度に起こしたり、水を飲ませたり、シロップもあげてみたりしたが効果がなく真夜中には「悪魔の時間」がやってくる。
中耳炎の方は何度も繰り返しかかり、できれば避けてほしかったのだが先日の耳鼻科の診断で9月頃の予定で手術することになってしまった。耳鼻科の医者はもう一人、違う小児クリニックの先生にも3、4度見てもらったがそこでも手術はした方がいい、と言われた。
手術というが、耳の鼓膜に穴をあけチューブを差し入れ耳の中の液を出しやすくするという簡単なものだという。ただ、1歳半の子はじっとできないので全身麻酔になるというのが心配だ。生まれて次の日には全身麻酔を受けた子である。手術自体はどうも心配することないくらい簡単なもののようだが、万が一失敗した時は耳の中で出血するので、やっかいなことになる。