2011年12月24日土曜日

ピアノとビジネス・李清

音楽というものを利用して小金を稼いでいる人はどこにでもいる。

李清という、グラーツ国立音大のピアノ科教授は小遣い稼ぎにとどまらず、一つの会社を設立までしてしてピアノレッスンというものを最大限にビジネスに拡大した人がいる。名前からして神秘的だが、日本生まれ、日本育ちの日本人ハーフである。戦後に帰国した生みの父親が韓国人だ。音大の教授の職につく際にオーストリア国籍を取得している。

李氏は人の才能を伸ばす先生ではなく、弟子から世界的ピアニストが育った実績は皆無だ。李氏自身もピアノが下手な人ではない。ただ、家に閉じこもって自らの芸術に没頭する人でもなく、そうかと言ってエージェンシーがついて一回の演奏会で5千ユーロで招待を受けるような実力派でもない。それでも、「オーストリア国立大学」教授という肩書きを生かし、年に5,6度も来日し生徒の確保に務め、挙げ句の果てには毎回個人リサイタルをもこなしていた人だ。

いうまでもなく、オーストリア国立音大の教授というのは終身雇用であり、かなりのスキャンダルを起こさない限り職を失うことはない。生徒数を毎年確保する必要があるが、日本から留学を勧めて連れてくれば数に困ることはない。

それどころか、今も昔も日本から留学希望の学生は後を絶たず、100万円くらいで2週間の講習会を本場ウィーンで受けるという夢を持っている人はいくらでもいた。李先生はパン・ムジカという企画会社を通じてヨーロッパ旅行兼マスタークラスという企画を成功させていた。少なくとも半分以上は純利益のはずで、年に2度ほど開催していたからかなりの美味しいビジネスになっていた。

自分はこの先生のもとにウィーン留学をお願いすることになった。先生はビジネスであればなんでもする人なので、少々の身の回りの世話、借家とレンタルピアノの手配と銀行口座の開設くらいのことは快く引き受けてくださった。自分はもともと指揮科志望であって、先生のクラスへグラーツに行くつもりはなかった。自分の親は、その世話のために20万円という金額を寄付という形で差し上げているはずである。

ウィーンではさらに彼の個人ピアノレッスンを受けないといけなかった。一回1000シリングである。先生はじきに音大の指揮科のエーステライヒャー教授を紹介すると約束してくれていたが、数ヶ月のちあと2年間続けて個人レッスンを受けるようにと言われ、それではやめたいと申し出ると「もうこれで僕に世話になることはないからな」と手を切られてしまった。

当時16歳であったが、文字通り右も左も分からない無防備な少年には実際確かなアドヴァイザーが必要であった。その後ウィーン市立音楽院のピアノ科に入学できたのは2年後になってしまったが、それまで苦い経験をして自分自身と人生そのものを防御するという能力をつけていかないといけなかった。今振り返ると危険な橋を渡ってきたものである。

先生という身分で生徒を取るときは、ビジネスだけを考えるべきではない。李先生は現在何をされているかわからないが、かなり痛い思いをしてもらいたいというのが素直な思いだ


2011年12月9日金曜日

指揮狂の時、ラヨヴィッツ教授編

音楽の先生というのは、音楽家として実際活動している人であれば小遣いを稼ぐことが第一目的の仕事である。今まで出会った先生で、唯一そうでないのはどこの誰からもレッスン料をとらない湯浅勇治先生だけであった。

マスタークラスでも、お金のことを考えて教えている人たちばかりである。その他の特にピアノの先生は、個人レッスンではただ小遣い稼ぎのために毎週我慢を重ねて学習希望者の下手な演奏を見る。実際育てようと頑張れる、教えがいのある生徒もいるのだろうが、自分はいつでもそういうエリート生徒には当てはまらず、常に小遣い稼ぎの対象であった。音楽家は夢を売る商売であるから、夢を見ている人はそういう先生を前に物事を冷静に考える常識を忘れ、1レッスン100ユーロなどという異常な額を「偉大なる芸術家」に毎回寄付することになる。

ウィーン音大所属の先生となると、かなり話が違ってくる。特に指揮科は歴代名指揮者を輩出しているところだけあって大変な名誉もついてまわる。もしかして将来のモノになる人物を前に教えているかもしれないのだ。給料もその名誉に比例してそこらの劇場や管弦楽団の常任指揮者よりずっとよく、しかも契約は実質上終身だ。

スロベニア人のウロシュ・ラヨヴィッツ(またはウィーンで呼ばれているライオヴィッチ、本当のところどのように呼ぶべきかわからない)教授はあのハンス・スワロフスキー氏の直弟子である。もうかれこれ20年は教えていると思うが、指揮者としては必ずしもヨーロッパの第一線で活躍している人ではない。存在感あふれる大男であり、ドン・ファンを自負している人間である。アチェル先生のような親近感を持てる人ではなかった。よって、個人的に話をしたことはなかった。

自分はそのラヨヴィッツ教授のクラスに入った。自分が全くの初心者だったためかわからないが、5年間見向きもされなかった。レッスンは半強制的な一方通行の授業だが、皆同じ待遇だったわけでなく、目を付けらていた生徒は確実にいて、そういう人には今や世界の有名な指揮者であることが多い。

先生は指揮の基本動作は5時間で習得できると言う人である。よって技術的なことはほぼ何も教わることはなかった。その基本動作でさえ、習得しようとしても使い物にならず、ラヨヴィッツ先生自身実際に全く使っていない代物だ。

オーケストラを前にした授業ではいつもメッタメッタにたたかれた。学生オーケストラの嘲笑的な視線を前に、屈辱的な時間を何度も味わった。よって、今どういう人たちを前にして何を言われようが平然としている自分がいる。明らかに自分の弱い部分を鍛えてもらったラヨヴィッツ先生の功績である。

全生徒を前にした、教室内の先生の楽曲解釈の授業はかなり貴重なものであった。指揮者として、どこに視点を置くべきか学ぶべきことばかりのすばらしいものであった。そのレベルは一番高いところにあり、たとえば突然「第1楽章、4x4+4x4」などと言われて初心者の自分には時間の無駄かな、と思ったくらいだったが今となっては忘れられない大切なキーポイントになっているものであった。この先生の独演会にすぎなかった授業には膨大な知識が詰まっており、自分にとっては死ぬまで憶えておきたいものである。

そういう授業に5年間接することができた自分には大きな誇りを持っている。