4月16日は自分にとって特別な日である。1988年に高校を1年でやめてウィーンに飛び立った日である。留学に行った、とどこの誰からも言われたが、自分にとっては後戻りのない正真正銘の「移住」であった。成田空港を飛び立つ時、そう簡単には戻らない決心を口にした。
亡き北杜夫氏の数多くの作品の中にブラジル移民を描いた大作「輝ける碧き空の下で」というのがある。この本の印象は強烈で、そのおかげでサンパウロに行った時はまず日本人街のあるリベルダージ区に向かい、お店やレストランに入ったり当地の5階立てだったかの立派な移民博物館に行ったりして本から得た知識と照らし合わせていたものである。自分のウィーンでの生活と戦前の彼らの生死を賭けた生き様は全く比べ物にならないが、よく自分を彼らの生き方に重ねて見たりした。
彼らの多くは農民であったので、常にコロニーのなかで助け合って生きてきた。日本人として、誇りを持って自分たちのしきたりや文化、言語や食生活を長い間守ってきた。ブラジルの食品メーカーに初代の移民者によって始められたものが多くあるが、そのひとつの「さくら」という名のしょうゆは美味しく、身近に手に入るものならいつでも持っておきたいものである。リベルダージにはお風呂桶屋さんが何軒かあって、時代劇で見るような木製の様々なサイズや形が展示されていてびっくりしたものである。
ウィーンでも日本人コロニーのようなものは数多くあって、その中でさんざんお世話になったりケンカもしたり足を引っ張りあったりもした。ウィーン滞在も2年もするとうんざりすることが多くなって、ある時いかなるグループから離れて生活したい、と思うようになった。ウィーン19区にあるカトリック系の男子学生寮に運良く入れることになり、そこには電話が階ごとに一台しかなく、ほかに日本人はおらず自分を取り合ってもらうのにドイツ語を話す面倒があるところにはコロニーの人は電話をしてこなくなった。北杜夫の小説にもポルトガル語が苦手で話す機会を避ける人の描写があるが、それに似ていた。
寮には自分と同年代が多く、そこでの生活では高校中退の自分に全く欠けていた人間形成が少々まかなえたし、学校の方も軌道に乗り出してしっかり勉強もできて間違いなく今の一社会人としての生活の土台になっている。
ウィーンの学校ではどこでも日本人は多く、そのなかにもグループがあって公私にいろいろな繋がりがあった。彼らの多くは東京芸大やそれ同等の云々音大出身のエリートであって、そのなかでは無名、もしくは一般大学の出身者や高校中退者の自分のような者は非資格者であった。
ウィーン音楽大学にはリートの世界の大家の一人にヴァルター・ムーア教授がいる。歌のピアノ伴奏者だが、レパートリーも知識も壮大で間違いなく尊敬に値する先生である。その先生にも日本人の生徒がかなりいた。リートはいつかぜひ関わりたい分野であったので、ムーア先生から何か学べるかと思い機会を伺っていた。ある時縁があってようやくあるオペラ制作で知り合った先生の生徒の一人の日本人バリトンから彼のディプロム試験のリート伴奏を頼まれた。
ムーア先生のところにレッスンにバリトン歌手と2度ほど行ってピアノ伴奏をしたが、ピアニストには厳しいという噂は本当で、どちらかといえば自分の演奏は全く話にならないというようなことを言われた。10くらい年上のそのバリトン歌手は手取り足取り教えてあげようという気迫の持ち主だったが、自分はまず歌のことを一から学ばないといけないと思い卒業試験の伴奏の話は断った。ムーア先生からはその後ある時彼のクラス発表会に聴きにいけない、と断りにいくと「schämen Sie sich!」と返答されびっくりした。アメリカ人である彼の普段の言い回しなのか、ドイツ語で普通そのような言い回しがあるのかと考えさせられた。
その後は彼の娘さんの一人が通っていた学校の合唱団の伴奏を受け持ったりしていたのでその発表会のたびに顔を合わせていたりしていた。
時は経ち、ムーア先生に最後に顔を合わせてからほぼ10年後、リスボン音楽大学にムーア先生が講習会を開くというので見に行ってきた。早速挨拶に行ったがこちらを知っているそぶりは全くない。自分が誰なのか手身近に説明したが、全くピンとこないようで視線は宙を浮いている。リスボンのオペラ劇場の指揮者とリート解釈のレッスンに顔を出していた日本人コロニーの一人と結びつかないのだろう。
自分はムーア先生のところでものちの指揮科の湯浅先生のところでも日本人コロニーの一人では決してなく、そもそも存在資格者ではなかった。ただそのわりには常にどこのだれからもコロニーの一人と見られる矛盾とともに生きてきた。今現在のコロニーと無縁の生活ではムーア先生のような人に顔を合わせても、学生時代の自分のイメージとかけはなれているようだ。どこに飛んで行ってしまうのだろうか。
日本の云々大学出身です、と言う事実さえあればムーア先生からも知ったふりをされ自分の存在価値も高まり、人生ももっと楽になっていたかもしれない。