明日、現ローマ法王のベネディクトゥス16世がリスボンを訪問する。実は、2年前ニューヨークに行った時もたまたまラッツィンガー氏の訪問に遭遇していたので、今回は2度目になる。正確に言うと、実際に法王を目にしたわけではないので、法王の訪問時の交通の混乱にまた遭遇する、と言った方が現実的だ。市内の主要道路は数日間にわたって完全閉鎖され、平日通りの仕事の人は公共交通機関の利用を強要される。
最近の法王の訪問の機会には必ずと言っていいほど、その国出身の新たな福者や聖人の指名が行われ、その人の一生について公にコメントされる。カトリック聖人は一般に、少なくとも3つの奇跡に直接、または間接的に関係した人が「悪魔の弁護人」によって何十年の間審査され、パスした人が歴代の聖人と同列に置かれる。
その「奇跡」のほとんどは、西洋医学の医師から死の宣告を受けたような病人が、その聖人の祈りの力によって劇的に治った、何十年も寝たきり状態の人が急に歩けるようになった、といった多くの超現実的現象による。
4か月前の息子の誕生の際、心臓に大血管転位が認められた。それは、肺から体ぜんたいへの循環に必要な2つの血管が心臓に間違って逆につながっている状態で、外的手術なしでは2日間とも2週間ともされる命というのは明白だった。そこで心臓外科医の経験と見事な技術により、症状は劇的に改善され、今では普通の赤ちゃんの平均値以上の成長をしている。
息子は、確かに現代の心臓外科の最新技術によって救われたのだ。聖人による奇跡を思えば、それは外的手術ではなく、当然祈りのみによる。しかし、2つの血管が間違って付いているのだから、それは人の手によってまず切断され付け替えないといけない。どのような純粋なお祈りによってでも、大血管がそれによって付け替わるという奇跡が起こりえるとは、今の自分にはどうしても信じられない。そこに未熟な一般カトリック信者としての限界を見てしまった。
息子の命を救ってほしいという一人の親の純粋な願いはかなえられたのであるが、それは本来あるべき祈りとは少し違うのではないだろうか。わずか10日や20日で終わってしまうかもしれない、授けられた幼い命に最高の幸せを見つけ、そこに感謝の気持ちを抱き続ける。それ以上、どういう祈りを持つべきだったのか、混乱している心にはわからない。
感謝すべき息子の見事な成長ぶりには、新鮮な幸福感を日々与えられる。目の前には、医師団によって救われた命が躍動している。教会のお祈りだけでは失われた命だったのではないか。
せっかくの法王のリスボン訪問だが、そういう個人的な理由からいまいち平和を感じることができない。