2010年5月22日土曜日

モリーニョ

ポルトガルの誇るサッカー監督、ジュゼ・モリーニョが率いるインテルがチャンピオンズリーグの決勝で登場する。モリーニョのチームは、ポルトであれ、チェルシーであれ、どういう選手がプレーしていてもチームとしてあまり変わらない。
7、8年前のポルトのチームも、今のインテルも選手はロボットのように動く。守備のラインは、止まるときも走り出すときも、走る方向を変える時もいつも見事に同じ動作をする。攻撃の時は一直線にゴールに向かい、数名の選手があらゆる方向に走り出し、パスは相手を確認せずにすぐ出るが、ボールは不思議なくらい常に自軍の選手のもとに収まる。「旧共産圏国のサッカーのようだ」と表現されたくらい徹底的だ。
準決勝のバルセロナとの第2戦は攻撃対守備のチェスのような試合を見ているようで本当に面白かった。今回の試合も、ぜひ0-0のまま最後まで最高の駆け引きの試合になってほしい。
人生一度はサッカーチームの監督をやりたいと思っていたが、なんだかものすごく難しそうだ。

2010年5月21日金曜日

長期休暇

自分の今の写真を見てびっくりした。2,3か月前と比べてもかなりここのところ一気におっさんになってきたな、という印象だ。4か月の息子はここのところ声帯をすり合わせたような、変な泣き声を応用したような声を出して喜んでいる。

確かに息子が生まれてからというもの、仕事そのものがしにくくなってきた。それが息子が持って生まれた病気によるものなのか、それによる心労からなのか、それとも初めて父親になった自分の心境が変わってきたのか、はっきりよくわからない。よく周囲から聞いていたように、息子を持ってますます仕事に充実するはずだったが、今のところ、そういう感じはない。できることなら、2年くらい休暇を取りたいものだ。

息子の世話は、親戚が両方とも近くにいないため、いざという時に頼りにできる人がいない。それはもう前から承知のことだったのだが、いろいろな気にかけてくれる人がいても、結局おむつを替えたりするのは自分たちしかいない。夏の終わりにはヨメの育児休暇も終わるので、保育園に預けることになる。それに向かって心の準備も始めないといけない。

2010年5月11日火曜日

TGAの治療と聖人の奇跡

明日、現ローマ法王のベネディクトゥス16世がリスボンを訪問する。実は、2年前ニューヨークに行った時もたまたまラッツィンガー氏の訪問に遭遇していたので、今回は2度目になる。正確に言うと、実際に法王を目にしたわけではないので、法王の訪問時の交通の混乱にまた遭遇する、と言った方が現実的だ。市内の主要道路は数日間にわたって完全閉鎖され、平日通りの仕事の人は公共交通機関の利用を強要される。

最近の法王の訪問の機会には必ずと言っていいほど、その国出身の新たな福者や聖人の指名が行われ、その人の一生について公にコメントされる。カトリック聖人は一般に、少なくとも3つの奇跡に直接、または間接的に関係した人が「悪魔の弁護人」によって何十年の間審査され、パスした人が歴代の聖人と同列に置かれる。
その「奇跡」のほとんどは、西洋医学の医師から死の宣告を受けたような病人が、その聖人の祈りの力によって劇的に治った、何十年も寝たきり状態の人が急に歩けるようになった、といった多くの超現実的現象による。

4か月前の息子の誕生の際、心臓に大血管転位が認められた。それは、肺から体ぜんたいへの循環に必要な2つの血管が心臓に間違って逆につながっている状態で、外的手術なしでは2日間とも2週間ともされる命というのは明白だった。そこで心臓外科医の経験と見事な技術により、症状は劇的に改善され、今では普通の赤ちゃんの平均値以上の成長をしている。

息子は、確かに現代の心臓外科の最新技術によって救われたのだ。聖人による奇跡を思えば、それは外的手術ではなく、当然祈りのみによる。しかし、2つの血管が間違って付いているのだから、それは人の手によってまず切断され付け替えないといけない。どのような純粋なお祈りによってでも、大血管がそれによって付け替わるという奇跡が起こりえるとは、今の自分にはどうしても信じられない。そこに未熟な一般カトリック信者としての限界を見てしまった。

息子の命を救ってほしいという一人の親の純粋な願いはかなえられたのであるが、それは本来あるべき祈りとは少し違うのではないだろうか。わずか10日や20日で終わってしまうかもしれない、授けられた幼い命に最高の幸せを見つけ、そこに感謝の気持ちを抱き続ける。それ以上、どういう祈りを持つべきだったのか、混乱している心にはわからない。

感謝すべき息子の見事な成長ぶりには、新鮮な幸福感を日々与えられる。目の前には、医師団によって救われた命が躍動している。教会のお祈りだけでは失われた命だったのではないか。

せっかくの法王のリスボン訪問だが、そういう個人的な理由からいまいち平和を感じることができない。